22-7 下京外 今川本陣4
その場にいる誰もが、何事もなかったかのような顔をしていた。
井伊殿の側付きたちは倒れた床几をもとの位置に戻し、朝比奈殿の配下は破れた陣幕をテキパキと取り換えていく。
寸前まで台風一過のような有様だったのに、長く待つ間もなく美しく整えられた。
こういうのにも家風というかセンスがあるのだろう。福島の本陣も興津の本陣も目にしたことがあるが、それとは一線を画す洗練された雰囲気だった。
こちらを振り返った朝比奈殿の表情からは、いまいち何を考えているのか伝わってこない。
当然のように最上座を勧められ、愛想笑いで辞退しようとしてみたが、真顔の手振りで促された。
なおも渋る様子を見せた勝千代を、朝比奈殿は直接席まで案内した。
勝千代が諦めて最上座に腰を下ろすことにしたのは、そこに置かれていたのが小ぶりな子供用だったからだ。
総大将を差し置いて最上座に座る事に違和感があるが、この時代の身分差とはこういうものだ。
厳密に言えば勝千代は福島家の嫡男に過ぎず、朝比奈殿よりも下座が当たり前なのだが、意固地にそれを主張するのは時間の無駄だ。
朝比奈殿をはじめ、周囲の大人たちが勝千代に向ける目は、「御屋形様の御子」へのもので、養子に出された側室腹の扱いにしては過分すぎる。そういうところが、より今川館から危険視される原因なのだろう。
「予想通り動きましたな」
ちゃっかり下座の床几を確保した井伊殿が、勝千代が座るのを待ってそう言った。
勝千代は、誰がいつこの子供用床几を用意したのだろうと考えながら、どことなく楽しそうな表情の丸顔を見返した。
「御屋形様はこの件をご存じなく、伊勢殿が今川館のどなたかに接触し、今川家を良いように動かそうとしたことは間違いないでしょう」
勝千代がそう言うと、朝比奈殿と井伊殿がそろって首を上下に動かす。
今川館の何者かが、伊勢殿と申し合わせて五千の兵を京まで寄こしたのなら、当然その役割は祝賀ではなく第二次応仁の乱の兵力としてだろう。
注目するべきは、軍勢が遠江衆で構成されているという事だ。
御屋形様が承知の上の同盟ならば納得もできるが、遠江から五千もの兵を抜くなど、お認めになるはずがない。
すでに今、国境の守りは手薄になっているに違いなかった。
ふと脳裏に過ったのは、父のもじゃもじゃの髭面だ。
遠江勢がごっそり京に送られると知り、父は段蔵をこちらによこした。
だが、父の方にも危険が迫っているのではないか。国境を守るために過大な負担が負わされているとしか思えなかった。
「巻き込まれるまでに伏見に陣を移し、その後は山科経由で帰路についてください。兵糧に問題は?」
一刻も早く京を離れ、遠江に戻るべきだ。素人勝千代の考えに朝比奈殿も井伊殿も同意するが、大軍が長距離を移動するには相当の準備が必要なはずだ。
五千人もの日々の食事はもちろんのこと、現代のように高速道路があるわけではなく、他家の領土を横切っていくので、いちいち多方面へ許可を得ながら進んでいかなければならない。
かなりの手間だろう。
「兵糧は不足しておりませぬし、道中で購うこともできますが、東海道には六角家がいます。伊賀越えの方が無難やも」
無精ひげの伸びた顎をゴリゴリと擦り、井伊殿が思案するように首を傾ける。
「ですが、かなりの難所だと聞きます。大軍を連れて越えるのは難しいのでは」
伊賀路は勝千代の中では険しい山道というイメージが強い。有名なのは家康の伊賀越えだ。
井伊殿は顎を擦っていた手を膝に戻し、上座の勝千代を見返して丁寧な説明をしてくれた。
「伊賀路は特に、奇襲夜襲に気を配らねばなりません」
道が細く、伏兵を潜めやすい地形が点在しているので、そもそも大軍が動くルートとしては難所らしい。だが戦をするわけではない。街道を通るだけだから、各家にきちんと話を通しておけば東海道を行くのと大差ないそうだ。
「ここまで歩き通した兵らに山道は厳しいのでは?」
「そのような軟弱者は我が軍にはおりませぬ」
勝千代は自分だったら疲労骨折しそうだと思ったが、朝比奈殿の返答はスパルタ式だった。
「山道を走らせるわけでもなし、一般の旅人よりもむしろ行程はゆるやかでしょう。ただ……」
井伊殿が心配しているのは兵の疲労ではなく、ありえなくもない話として、伊勢あるいは細川のどちらかの勢力に付いた家からの攻撃だ。
街道をただ通るだけではなく、どこかで戦いがあると仮定するなら、細い道で大軍の利点を発揮できない大和街道方面は難点が多いそうだ。
「斯波も避けたほうがよいです」
次々と問題点を出してくる井伊殿と、それに対して淀みなく思うところを返す朝比奈殿……勝千代は、忌憚なく意見を交わすふたりを交互に見て、なかなかいい組み合わせだなと思った。
この調子で協議しながら京まで来たのなら、勝千代が忠告せずとも伊勢殿の思惑に巻き込まれず京から撤退できたかもしれない。
「申し上げます」
陣幕の切れ目の向こうからそう声がして、朝比奈殿が許可を出す前にさっさと踏み込んできたのは弥三郎殿だった。
弥三郎殿は黒地にダークレッドの飾り紐の鎧兜を身に着けたまま、大股に三人に近づいてきて途中で片膝を折った。
「近藤が逃げました」
逃げた?
勝千代は、最後に聞いた悲鳴を思い出しながら、胡乱な目を弥三郎殿に向けた。
視線が合って、その目が何も知らぬげにパチパチと瞬きをする。
頬当ての意匠は恐ろしげだが、相変わらずぼんやりとした表情だ。
……逃げたんじゃないな。わざと逃がしたな?
勝千代がそうあたりをつけて顔を顰めると、井伊殿がクツクツと喉を鳴らして含み笑った。
「楽しくなってまいりましたな」




