22-6 下京外 今川本陣3
近藤の顔面から、尋常でない量の汗が滴り落ちている。
直垂の襟元に目立つ染みが広がっているほどだ。
朝比奈殿がなおも沈黙を保っていると、「いや、そのようなつもりでは」だの「急ぎ幕府に伝えねばならぬ用件が」などと、聞き取りにくい口調でもごもご何やら言っている。
朝比奈殿の沈黙は、沈黙というよりも威圧、もっと言えば恫喝だった。
近藤は、反対されないうちに幕府……つまりは伊勢殿と、よからぬあれこれを示し合わせるために動きたかったのだろう。
朝比奈殿が少数で出払ってしまったのは、またとない機会に思えたはずだ。
だが肝心な時に上手く立ち回る事が出来ず、よりにもよってそれを朝比奈殿ご本人に見られてしまうという失態。
本陣でこのような狼藉乱暴を働き、いくら今川館の高官だといえども何事もなく済むとは思えない。
自身の立場をそれほど過信していたのか?
朝比奈家当主よりも上だと?
自力で抜け出すならまだしも、朝比奈殿麾下の兵を百も連れ出そうとしたのは問題だ。
井伊殿が断ったのは当たり前のことだが、もしそれより弱い立場の者だと拒否しきれなかったかもしれない。
いくら中小の国人領主の集まりだとはいえ、部隊の移動は朝比奈殿の指揮権にかかわることで、それに介入する権利が文官にあるはずもないのだ。
誰も何も喋らない時間が数分。
井伊殿はじめ周囲の大人たちから、アイコンタクトで何とかしろと言われている気がしたが、それこそ越権行為だ。
元服もまだの子供に何を言えと?
ただ、あまりにも気づまりだったので、軽い咳払いをひとつ。
「勝手な行動をされては困る」
咳払いがきっかけだったわけではないだろうが、朝比奈殿が単調な口調でそう言った。
さながら、電池切れだった人形が急に動き出したかのような唐突さだった。
もごもごと意味のよくわからない言い訳を続けていた近藤が、やっと言い返す機会が来たとばかりに汗を拭う。
「勝手なとは何ですか。幕府への御挨拶に不備があってはならぬと急ぎ駆けつけようとしたのです」
「不要だ」
「京の動向に不慣れな朝比奈殿に……」
「必要ない」
「けんもほろろ」あるいは「にべもなく」とはこういう事を言うのだろう。
朝比奈殿は近藤の言い訳など一片も聞いていなかったし、聞き入れるつもりもなさそうだった。
「どうしても随行するというから目をつぶってきたが、邪魔な行動をするのであれば今ここからでも駿府へ戻って頂く」
「まっ、待たれよ!」
汗だくの豚……というのは豚に対して失礼か。たるんだ顎と福々とした手指の持ち主近藤は、ダルマのような体躯をぶるんとひと揺れさせてかぶりを振った。
「我らがおらずどうやって幕府と交渉をするおつもりか」
ああ、口が滑ったな。
「交渉」
朝比奈殿の温度を感じさせないその一言は、ただ聞いているだけでも肝をひやりとさせた。
「交渉とは、何の?」
「……っ」
どう感じているのか全く伝わってこない朝比奈殿の問いかけに、近藤の額の汗が倍増する。
「い、いや折衝です、折衝」
今さら言い換えても無駄だろう。
勝千代によりあらかじめ今回の上洛についての危惧を聞かされていた朝比奈殿が、どう受け取るかなどわかり切った事だ。
「幕府高官と折衝して、段取りを決めねばなりますまい!」
「御屋形様の名代として、ただ御礼状を届けるだけだが」
近藤の視線はウロウロとさまよい、冷静沈着な朝比奈殿にどう返そうか迷っているのが露骨にわかる。
どう見ても「後ろ暗いところのある奴」だな。ご苦労な事だ。
「今朝がたも言うたが、状況が変わっている。公方様がお亡くなりになられたというのに、のうのうとお祝いの礼を言いに伺うわけにはいかない」
「そっ、それは」
「取り急ぎ伊勢殿に面会の申請をしているが、返答がない。長居して戦に巻き込まれるわけにもいかぬ」
「今川家は幕臣としての役割を果たすべきです!」
「今川家の趨勢を決める権限は我らにはない」
朝比奈殿の声はどちらかと言うと静かで、特によく通るわけではない。だがそこに含まれる揺らぎのない断言は、強い意思として聞いている者の耳に届いた。
「そ、それでは幕府に逆らうおつもりか」
「将軍家ご不在の状態で、どこの幕府のことをいうのだ?」
「新たに立たれた公方様は……っ」
近藤もさすがに今度は己の失言に気づいた。
いくら伊勢殿が幕臣を掌握し、義宗殿を新将軍として擁立したのだとしても、まだ帝による将軍宣下はなされておらず、その事に明確に反発している阿波京兆両細川家が黙っているわけがない。
それがどういう結論に落ち着き、誰が新たな将軍位につくかなど、今の状況でわかるはずもなく、つまり伊勢殿が擁する者を「新たな将軍」と呼んだことは明らかなフライングだ。
「……どこでその話を聞き知ったのか、詳しく聞かねばならぬ」
朝比奈殿が、そこで初めて刀の柄から手を離した。
見事な装飾の手甲が軽く左右に振られて、じわじわと周囲に集まって来ていた男たちが近藤殿の腕をさっとつかむ。
「何をなさる!」
「内通の恐れがある。誰とも接触させるな」
そもそも今川軍が国元を離れる頃にはまだ、今回の一件ははじまってもいなかった。
公方様が暗殺され、義宗殿が将軍位への名乗りを上げ、畿内はまた応仁の乱のときのように真っ二つの陣営に分かれ戦おうとしている。
一連の出来事が諸国に正確に伝わるには、どれだけ早くとも週単位での時間が必要だろう。
特に人員の出入りがほとんどない行軍中、詳細な情報をつかんでいたというのはいかにも不審だし、万が一他所からその事を聞かされたのだとすれば、真っ先に朝比奈殿に伝えるべきだった。
「離せ! わしを誰だと思うておるっ、このような事をしてただで済むと……」
弥三郎殿が率先して近藤の腕をつかみ、ずるずると引きずるようにして陣幕から連れ出した。
容赦も躊躇もない、罪人の連行の如き強引さだった。
その声が次第に遠ざかり、最後は明らかな悲鳴のようなもので途絶える。
……え、殺した?
違うとは思うが、そうとしか取れないタイミングだった。




