2-5 下京 宿5
明け方。
耳障りな騒ぎに起こされ、薄目を開けた。
まだ日も明けきらぬ早朝だ。肌寒さは減ってきたものの、いまだ布団のぬくもりから離れがたい気温で、一瞬聞かぬふりをしようかと迷う。
だが、いくら待っても一向に収まる気配はなく、仕方がないので起きることにした。
「……扇屋でございます」
そう教えてくれたのは木原の声だった。珍しい。
暗がりに目を凝らすと、夜番のはずの南がいない。おそらく騒ぎの元に駆けつけているのだろう。
ふっと部屋の隅に灯明の明かりがともった。
襖の向こうはほのかに明るいが、光源が出来て初めて、今夜の宿直が木原以外にもあと二人もいることに気づく。
厳戒態勢だな。爆睡しておいて何だが、御苦労なことだ。
「……っ!」
怒鳴り声が聞こえるのは階下だ。
扇屋は明け方から押し掛けてきたらしい。
相変わらず弥太郎は仕事が早い。
まずは扇屋の倉を空っぽにして、替銭屋の証書が不渡りになるようにせよと命じた。
その指示を出したのが数時間前の夜中のことだから、証書ではなく倉のほうの異変にいち早く気づいたというところだろう。
そこで即座にここに怒鳴り込んでくるあたり、目端が利くというべきか。敵対している事実への認識が確かだというべきか。
しかも、このような刻限から押しかけて来るなど、いくらこちらの供回りが少ないとはいえ、武家相手にいい度胸だ。
「失礼いたします」
廊下から三浦兄の声がした。
騒ぎのおさまりがつかず、判断を仰ぎに来たのだろう。
そっと襖が開いて、早朝からすでに身なりも整った三浦が折り目正しく一礼する。
「いかがいたしましょう。外に役人が控えております。こちらが手を出すのを待っているのかもしれませぬ」
なるほど?
「松田殿か?」
「いいえ。もう御一方のほうです」
勝千代はひとつ頷き、暗がりで刀を抱き込むようにして膝を立てている谷に目を向けた。
もちろん眠っているわけではなく、その目はぱっちりと開いていて、瞬きもせずこちらを見ていた。
手は出すなよ、の念押しだったのだが、何故か頷き返されて一抹の不安を覚える。
谷に改めて声をかけようとしたところ、再び階下から罵声に近い大声が聞こえてきた。
商人という身分にもかかわらず、そういう態度を取るという事は、外に役人が控えているという事実を知っているのだろう。
「せっかくお役人がいらしているのだから、介入して頂こう」
「お呼びして参ります」
「主人が怖がってるとでも言っておけ」
よもや、怯えた子供が助けを求めているのに知らぬふりはするまい。
これでまだ傍観するようなら……そうだな、大声で泣き叫んでみるか? おそらく聞き耳を立てているだろう町衆たちに良い噂の種を提供することになるだろう。
福島家側は「何も知らない」のだから、困惑するのも当然だ。
もちろん、無礼な真似をされたからといって、先に手を出したりはしない。
ここは下京なので、厳密にいえば私闘が禁じられているわけでもなく、身を守るためになら許されたのかもしれないが、その瞬間を待ち構えている役人に口実を与えてやる謂れはない。
むしろ、根拠もなく武家に言い掛かりをつけてきた扇屋のほうが捕縛されるべきではないか?
にもかかわらず、そういう気配は全くない。
つまりはやはり、こちらが手を出すのを待っているのだろう。
「……お調べください!」
扇屋の大声が宿中に響き渡っている。
福島家が借り上げているので他の客はいないが、迷惑な事には変わりない。
「……っ」
扇屋は階段を下りていく勝千代に真っ先に気づき、顔面を真っ赤にして叫ぼうとした。
上がり框のところで行く手を遮っていた南がこちらを見て、身体の位置を変える。
残りの者たちも各々警戒の度数を強め、間違っても幼い勝千代の方向に扇屋が向かわないようにと身構えている。
「何事だ」
「申し訳ございませぬ。この者が何やらよくわからない事を」
弥太郎への指示はともかくとして、この者が勝千代を狙っていると知っている南が、憤懣を込めた口調で言う。
勝千代は、こちらを見上げた役人と視線を合わせた。
ほっとした顔でも作ってやろうか? そう思う前に、その表情に明確な悪意を感じ取る。
たとえ藤波様からのクレームが腹立たしかったのだとしても、田舎から出て来て数日の子供に向けるには、あまりにも違和感のある態度だ。
「お役人様」
ここまで明確な悪意を向けられては、こちらが従順にしている意味はない。
怯えた態度で非力なお子様を装うのはやめにして、明確に不快感を面に出した。
「お役人様もこの商人と同じお考えなのでしょうか」
宿中に聞こえている扇屋の言い分は、倉にあった商品を我らが盗んだなどという、誰が聞いても荒唐無稽な話だ。
怒りをあらわに抗議しても、不思議に思う者はいないだろう。
むしろここまで辛抱せず、無礼者と切って捨てるほうが自然だったかもしれない。
「我らが、夜盗が如き真似をしたと?」
勝千代の毅然とした口調に、役人が若干驚いた顔をする。
「証拠もないのにその者の言い分を信じ、我らを御疑いでしょうか」
むしろ今頃、そんな顔をする意味が分からない。
田舎者のぽっと出の小僧が、強気に出るとは思わなかったとでもいうのか?
「夕べからずっとこの宿を見張っておられましたね。この商人が押し掛けてきたときも、何もせずに傍観しておいででした。何故でしょう」
この時代の者は、外聞というものをもっと慮るべきだと思う。
子供の声はよく通るので、宿の外まで聞こえているだろう。
耳を澄ませている周囲の者たちが、役人のこの不審な動きをどう感じるか。
たかが町人、たかが市井の噂と甘く見るのは間違っている。
噂は万里を走るのだ。この手の話は、あっという間に町人から武家、あるいは公家の界隈まで広がるだろう。
破落戸を雇って子供を誘拐するような輩と結託しているというのであれば、それこそ遠慮する必要はない。
もっと煽って、その立場を失墜させてやろうか。




