19-4 山科 本願寺3
もう帰ろう、すぐここを出ようと言いたいだろう側付きたちを引き連れ、前回は訪れる事のなかった本殿へと案内される。
年かさの僧侶たちの読経が低く高く流れ、それがまるで共鳴しあっているかのように響き渡っていた。
若い僧侶たちは出払っているようだ。
火消しに駆け回っているのだろうか。本願寺を取り囲む六角軍への備えだろうか。
ここへ来るまでの道すがら、大勢が粗末な竹の槍を握って走っているのを見た。
男だけではなく、女も、年寄りやまだ子供といってもいい者もいた。
誰もが防具など身にまとってはおらず、着の身着のまま、薄汚れた襤褸着の者も多い。
大軍に囲まれ、間違いなく危機に際しているにもかかわらず、彼らの表情は暗くはない。
むしろ強い決意を秘めたものだった。
己らこそが正義だと信じて疑わない。
強い信仰といえば言葉は良いが、要するにそこにのみ意識をフォーカスした狂信者たちだ。
それが集団になり、より強く価値観が固定され、その世界を壊そうとする者は許されざる敵となる。
恐ろしい事に、彼らにとって死は怖いものではない。
御仏の為に戦って死ぬことは、極楽浄土への近道なのだ。
これが宗教か。
勝千代は、すれ違う者たちの表情に薄ら寒いものを感じながらも、黙って観察するにとどめた。
あんな子供に槍を持たすなと言いたい。
お年寄りは下がっていろと言いたい。
ああ、妊婦までいるじゃないか。まさか六角軍相手に戦うつもりなのか?
勇ましい彼らの、むしろ士気の高い雰囲気に、興如の危惧と躊躇いの理由を知った。
浄土真宗の寺はここだけではない。
本願寺が落ちたとしても、教義はなくならない。
だとすれば、ここで華々しく散る事こそが、周囲に強烈に本願寺派を印象付ける絶好の機会であり、御仏に殉じる信心を見せつけようとしていたのだろう。
そう決意を固めていたところに、生き足掻けと勝千代は言ったのだ。
興如の決断は、この美しい決意に水を差すものだ。……いや、殉死が美しいかはさておいて、皆で極楽浄土へ向かおうとしていた寸前に、下手をすれば更に泥沼な事態になりかねない道を示された。
あえて泥をかぶるような真似をするべきか、このまま華々しい死を遂げるか、大いに迷った事だろう。
「……そのほうか」
深夜丑三つ時の境内。篝火もロウソクの光もない真っ暗闇な室内に、証如はひとり座っていた。
「わしは行かぬ。ここを離れるわけには参らぬ」
散々繰り返したのであろう問答を、勝千代に向けて付きつける。
「皆とともに極楽浄土へと行くのだ」
「そうですか」
勝千代はあっさりと頷いた。
「それもよいでしょう」
「勝千代殿」
真剣な口調でそう言ってくるのは永興だ。
興如とはすでに別れを済ませている。
「ですが本願寺にとって極楽浄土は遠そうですよ」
「……なに」
「御仏の教えに殉じる前に、生き足掻くべきだと決断されました」
誰が、とはあえて口にしなかった。しかし、今現在この状況の指揮をとっているのは興如であり、それは証如にも伝わっただろう。
近くにいても、その容貌すら定かでない暗闇の中、彼はきょとんとした風に言葉に詰まった。
「人の命は尊いものです。如来さまの御手にその命をお預けするのは、死すべき時が来るまで生きてからです」
辿るようにその肩に手を伸ばし、ぐっとつかんだ。
「あなたの御命は、まだその時を迎えておられません」
これだけ近ければ、胡坐をかき腕組みをした彼が、すでに法衣ではなく小袖に袴姿だとわかる。脱出のために着替えさせられたのだろう。
「阿弥陀如来の前に立たれても、未熟者よと追い返されるのが関の山ですよ」
「そっ、そんなことはない!」
「ついてきてください。生き延びる事があなたの仕事です。大丈夫、本願寺は落ちません」
勝千代ははっきりとした口調でそう言って、小柄な証如を立ち上がらせた。
彼が黙ってしまったので、それを是と受け取って、腕を引きながら永興のあとに続く。
それほど長く歩いたわけではないが、暗すぎるのでどこを通ってきたかわからない。
だが、開けた本堂のご本尊の裏側という、ちょっと罰当たりではと思ってしまう隙間を縫って歩き、目を凝らしてもわからない仕掛けを幾つか通り過ぎて、ようやくロウソクの灯された小さな二畳ほどの個室にたどり着いた。
そこには武家の身なりをした二人の男が待っていた。緊張の面持ちの若い男と、少し年を経たその父親らしき男だ。
二人は真っ先に証如を見て、ほっとしたように表情を緩めた。
「この者たちは三河の浪人です。熱心な門徒ゆえに、証如様の護衛に」
「石川十郎左衛門と申します」
「息子の恵助です」
三河者か。武士なら勝千代の一団に混じっても違和感ないと選ばれたのだろう。
挨拶もそこそこに、二人が小部屋の床の羽目板を外すと、そこには下へ続く階段があった。
もの凄くおどろおどろしく、古びた造りの石階段だった。ここを降りていくのかと思うと二の足を踏む。
吹きあがってくる冷気と一層深い暗闇に見入っているうちに、いつの間にか先を行く永興の姿がなくなっていた。土井に松明を渡して、その明かりの範囲内から離れたのだ。
「証如さま。私もここまでです。どうかご無事で」
「ま、待て」
証如が引き留めようとしたが、永興からの返答はなかった。




