17-4 伏見 宿4
「どうか、よろしくお願い申し上げます」
床に押し当てるほどに低く頭を下げ懇願する。
酒井のきれいに剃り上げられた月代を見ながら、勝千代は脇息に肘を預け、松平の兵三十の撤退方法を考えていた。
健康な子供をひとり、老人をひとり連れ出すならそれほど難しくはない。
だが兵三十ともなれば、何か手立てを考えなければ、十石舟だけでは難しいだろう。
「とりあえず、次の便でお二方を伏見にお連れするよう手配します」
勝千代はそう言って、果たしていつまで十石舟が使えるだろうかと考えた。
皇子の脱出については、酒井が乗ってきた第一陣の帰還船にいなかった時点で、移動は難しいのだろうと推察できる。
次案は、下京を出たと見せかけての潜伏だ。いったん身をひそめてしまえば、町を総ざらいしなければ発見できないような場所が理想だが……見つけられるだろうか。
「三十ともなれば、一気に退くのは難しいでしょうね」
青光りしている月代をこちらにむけ、ただ頑固に頭を下げ続ける酒井。
勝千代はその見事な剃り具合に感心しながら、あれだけ青いのは毛根がまだ生きているからだろうなと、湯浅の頭と思い比べた。
「遠山殿、北条軍の布陣についてお悩みでしたね」
こちらはテカリ具合はいまいちだが、ほぼ総白髪だ。
「はい」
酒井に張り合うように、遠山はやけに仰々しい素振りで深く頭を下げる。
「昨日、六角軍と下京の境で申し送りを致しました。関の配備の数は合わせて五十でよかろうと」
……おい、それって情報漏洩というんじゃないのか。
勝千代含め、福島側は総じて胡乱な目をして遠山を見たが、顔を上げた酒井はぱっと表情を明るくしていた。
五十だぞ? そちらの兵は三十だろう? やすやすくぐり抜ける事はできないとは思わないのか?
こちらの不審など知らぬげに、二人はなんだかわかりあった雰囲気で目を見かわし、互いに頭を下げ合っている。
意味深なふたりは放っておこう。
ちらりと傍らの役人顔に目を向ける。弥太郎は常にも増して温和な表情だ。
その顔がふいっと廊下の方を向き、つられるように勝千代もそちらを見ると、言われてはじめてわかる程度の小さな足音がした。
誰かが来たのかと思いきや、名乗りも口上もなく、足音は近くで止まって動かなくなった。
勝千代にわかる程度のものだから、忍び寄っているとか、そういう事ではないのだろう。
警戒や誰何の声も聞こえないから、侵入者ではない。
一礼して立ち上がった三浦兄が、勝千代とは対面の位置にある襖を開くと、更にその向こうの襖を背にした佐吉が神妙な顔をして両膝をそろえていた。
「佐吉」
勝千代が名前を呼ぶと、佐吉はさっと素早い動作で両手を床につけた。
そして、指に鼻先がぶつかるほど深く頭を低くする。
べちゃんこのカエルのような恰好だ。
「そう畏まるな。顔を上げて話すがよい」
勝千代がそう言っても、更に頭を低くするだけで直答はない。
「問題はなかったか?」
例えば強引に船に乗ってこようとする輩とか。
そこまで問いかけてようやく顔を上げ、それでもまっすぐこちらは見ない。
遠山や酒井がいるから気を使っているのだろう。
「下京はいかがであった。店の者たちは無事だったか」
「……はい、おかげさまを持ちまして。幸いにも大きな怪我をした者はおりませぬ」
「それはよかった」
佐吉はこの後も、禁じられるまで伏見と下京とを往復することになる。
今回は帰りの船で十名ほど乗せてきたようだが、次回から格段に危険は増すだろう。
「引き続き頼む」
「お任せください」
そう答えた佐吉の顔は、常にも増して如才のない商人のようだった。
堺屈指の豪商、日向屋の総番頭だ。商人のような、ではなく実質商人としての仕事の方が多いだろう。
それでもこの男は忍びであり、方々から情報を集めるのが責務だ。
まだ何か話があるのか、這いつくばった姿勢のままその場を動かず、佐吉は普段通りの淡々とした声で言葉を続けた。
「気になることがございました」
何を話すつもりだ? 遠山や酒井がいるんだぞ。
喋るのをやめさせようか否かと迷っているうちに、佐吉はあっさりと言葉を続けた。
「朝倉家の方々を見かけました」
ぎょっとしたのは酒井だ。
遠山は、ひょっとしたら知っていたのかもしれない。こちらは驚いた様子はない。
「他には」
「西国訛りが強い兵士たちの一団が。正体については、申し訳ございません、怪しまれるかと思い突き止める事は出来ませんでした」
西国か。
勝千代がその正体を推察していると、酒井がものすごく興味津々な表情でこちらを見てきた。
「街中の空気は殺伐としております。火災の被害はございませんし、巡回している兵士のお陰で揉めもごともほとんどないようですが、見えない場所では気の立った者たちによる暴力行為が頻発しています」
その知らせに「まだ足りない」などと考えるのは、倫理にもとる。
わかってはいるが、不満が爆発するには要素が足りないと感じてしまうのだ。
それに対して複雑な感情を抱きつつも、取りやめようとは思わない。
大きな戦を止めるために、小さな戦を起こす。
それを悪だと責める者は、この時代にはいない。




