命が燃える時
午後になって人が増えた。
道が歩けないくらいだ。右にも左にもとても進めない。人がまるで波みたいに流れていた。
そこで私は彼を見つけた。
彼も私を見つけた。
彼の身を包んでいたのは、今日の美しい青空を思わせる青。タイルみたいにびっちりと鉄板が体を覆う鎧だった。それもアジアのシンとか言う国の古いものではないだろうか。
私達は目で会話をした。今日は良い日ですね。そんな感じ。回りで流れていく人々は殆ど気にならなくなってしまう。
私達は確かにそこで出逢い、何かをしたいと思った。何をして良いかわからなかったが、今これを書きながら分かった。
名乗りをあげるたかったのだ。「敵にとって不足なし!」と言うところだ。
私達の日常は電気を流されたみたいに波打った。彼は心に槍を、私は刀を懐に持って対峙する。ああなんと言う幸福か。我ら今、この地にて出会う。
戦国武将がなぜ自分の名前をこれから殺す人に向かって言うのか分かった。
敬意だ。
出会えたことに感謝し、相手を包容するような意味合いまであるようだと思った。私の心ははち切れんばかりに脈打ち、呼吸は獣のように荒くなる。
限界まで引き絞られた弓のように悲鳴をあげる精神は、しかし、ついに放たれることはなかった。
どちらともなく目を離したのが辛かった。彼もそうだったはずだ。結局彼は三回も私の前を行き来したくらいだ。またあの感覚を感じたかったのだ。
だが、やはり、最初のあの瞬間を越えることはない。あの瞬間、どちらかが死んだのではないか。そしてそれは意味のある死だった。そう思った。
これを書きながらその瞬間が一番楽しかったような気もする。死を思った。少なくともそこには遊びの感情などなかったと思う。
そんなことがあったものだから、また次もいきたくなる。もっと会いたい。もっと戦いたい。
私は次に行くのはハロウィンと決めている。もうそのためにドクロの意匠の面頬を手に入れてしまった。ああ、きっと縁があったのだなと思う。それは自分の顔にぴったりであり、そして鎧にも良く映えた。
戦国武将が愛用した鎧兜には様々な形状がある。それは、個人を特定しやすくするためであると現代では分析されることがあるが、実際に着てみて分かったことがある。
それはかっこいいから着用すると言うことだ。
鎧とは戦場と言う舞台で着るきらびやかな衣装である。そして同時に死に装束でもあるのだ。当然それはこだわる。
今回私が選んだドクロの面頬、初めはハロウィン限定にて運用する予定であったが、その美しさ、バランスすべて完璧であり、もとからそこにあったような気さえする。今書いている瞬間も私の部屋で静かに座っている。
私はこの装備でずっといく。そう決めた。
これを着て生き、死んでいく。そう決めた。
最後の瞬間、迎えに来る者はこの表情--冷たい骸骨の姿をしているべきだ。
これは、私の一部だ。