今日と明日の境界を越えて
毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字程度の百合短編を投稿しております。
今回は、『かけちがえたボタンホールを、今』の続編となっております。
そちらをご覧になられていなくても、
雰囲気で読めるものにはなっております。
ただ、他の短編の登場人物等もサブキャラとして出てくるので、
そちらも読まれると、より楽しんで頂けるかと思われます。
付き合えれば、そこで終わりという恋愛はありませんよね。
付き合うまでが楽しい、という方もおられると思います。
付き合い出した後ならではの、悩みにまつわる話になっております。
長くなりましたが、どうぞ、お時間のある方はお楽しみください!
(1)
秋雨が、窓を叩いている。
それに加え、雨垂れの音も混じって聞こえてくるが、ギシッ、と鳴ったスプリングの音に一瞬だけかき消されてしまう。
異様に静まり返った暗い室内では、それらはあまりにもうるさく聞こえる。
だというのに、ベッドに横たわっていた相沢千鶴の頭には、ほとんど聞こえていなかった。
それもそのはず、彼女の心音は、そうした音の全てを飲み込むぐらい、激しく鳴っていたのだ。
仕事帰りのため、オフィスカジュアルのブラウスを着ていたのだが、その第二ボタンと第三ボタンのあたりが、激しく上下している。
見上げた天井に固定されたシーリングライトが、暖色の光を放っていた。
それをぼうっと見て、なんとか意識を逸らそうとしていたものの、光を遮る人影が自分に覆いかぶさってきたことで、また現実に引き戻される。
暗闇にぼんやりと浮かんだ相手の瞳が、じっとこちらを見ているのを肌で感じて、慌てて頬を枕につける。顔を逸らしたのだ。
何かを瀬戸際で抑え込んでいる、あるいは、逆に何かを追い込んだような、切迫した眼光が、ぼんやりと視界の隅で光る。
暗闇は、相手の整った容姿を隠してしまってはいたが、人の本能を刺激する甘い体臭は消せていなかった。
もう一度、スプリングが鳴った。
自分の肩に、ぐっと両手が押し付けられる。それと同時に、マットレスに体が沈むほどの体重がかかった。
その両手は少しずつ千鶴の掌まで上ってくると、ゆっくりと指先を絡めてきた。
千鶴を逃さない鎖のごとく。
そして人影は、捕食者が、まずは獲物の呼吸を妨げるために首筋に噛み付くように、勢いよく首筋に顔を近づけてきた。
「し、紫野…!」
たまらず声が出て、自分に覆いかぶさっている女――紫野瑠璃の名前を呼んだ。
くすぐったいのもあるが、恐怖もあった。
自分が今、まな板の上の鯉と同様のものに成り下がっていることを自覚して、紫野に絡め取られている掌に力を込めた。
独占欲の塊である紫野のことだ、キスマークを付けようとしているに違いない。
明日も仕事なのに、と焦りを感じた千鶴は慌てて喚く。
「待って、待って。ね?紫野」
「駄目、待たない」紫野は、独り言みたいにそう呟いた。
抵抗するために、顎を引いて首筋を隠す。
紫野は何度か面倒そうに、鼻先で顎をつついた。だが、千鶴がどかす気のないことを悟ると、片手を外して、ブラウスのボタンを外そうとした。
「ちょ…!」
「十年待ったんだ。もう、待てない。分かるだろ」
荒い口調で、興奮したふうに答えた紫野は、乱雑な手付きでボタンに指をかけた。
手元が覚束ないのか、何度も試みては失敗している。
苛立ちのせいか、次第に手付きの荒々しさも増していく。
紫野の片手が、何度も自分の胸にぶつかる。その度に、千鶴の心拍数は激しく上昇していった。
抑えきれぬ羞恥心と、焦燥、このままでは自分はどうなってしまうのだろうか、という不安。
それによって、とうとう千鶴は声を大にして叫んだ。
「紫野ってばぁ!」
「なに、うるさい」
「や、やっぱりさ?今日は、やめよ?ね?」
「…今日、『も』でしょ」
あからさまな不服さを顔に浮かべた紫野は、胸元に顔をくっつけたままで、上目遣いに千鶴を見上げた。
「とにかく駄目。今日ばかりは、最後までするんだ」
最後まで、という言葉にごくりと喉が鳴った。
この後…?
最後、まで?
頭の中にあられもない自分の姿が浮かんだ。
千鶴は顔を真っ赤に染めて、なりふり構わず、空いた手で上に乗った紫野を突き飛ばした。
高い音を上げてスプリングが軋み、見た目と口調からは考えられないような高い、少女みたいな悲鳴が室内に木霊す。
ベッドから叩き落された紫野は、数秒、ひっくり返って天井を見つめていた。
彼女がそうしているうちに千鶴は、外されかけたボタンを整え、はだけた胸元をきゅっと締めた。
そして、紫野から買ってもらった羽毛布団をがさがさと引き寄せ、それに包まる。
またやってしまった。
今月は、今日でもう四度目だ。
相沢千鶴が、女優である紫野瑠璃と付き合い始めて、はや三ヶ月。
紫野に迫られて、手早くキスは済ませていたのだが、肝心の行為はまだまだ越えられない壁の向こうにあった。
それは、千鶴にとって、夜と朝の境界みたいなものだった。
目が覚めているうちは、境界線が見えないのだ。
すでに学生時代、ほとんど衝動的に一線を越えていた千鶴と紫野だったが、いざ意識した途端、千鶴はその一線を越えられなくなった。
むくり、と紫野が立ち上がった気配がする。
彼女は何も言わず、ただ黙って立っているようだった。
無言のプレッシャーを感じ、冬が去ったのを確認する小動物みたいに、のそりと巣穴から千鶴は顔を出す。
じっとこちらを見下ろす紫野。暗闇に目が慣れたせいで、彼女の眉間に皺が寄っているのがはっきりと分かった。
「ご、ごめんってば」
一応、形ばかりの謝罪をするが、紫野は一切、口を開こうとしない。
今日という今日は、堪忍袋の緒が切れたのだろう。しかも、今回はよりにもよって突き飛ばしてしまった。
この間失敗したときは、次は頑張るから、と口にしていたのに、結局、最後まで勇気を持てなかった自分が悪い。
それが分かっていても、ついつい千鶴は言い訳を並べてしまう。
「だって、さぁ…。裸見られるのなんて、恥ずかしいじゃん。ほら、私、紫野みたくプロポーションも良くないし?」
「私は気にしないって、何度も言ったと思うけど」と紫野は抑揚のない口調で呟く。「何度もね」
「まぁ、うん。それは分かるんだけど…。好きな人の前だと、緊張するし…。それに、好きな人には自分の一番綺麗な姿を見てもらいたい、って思うわけなのよ」
「もう、その手には乗らない」
「う…」
これも駄目か。
初めのうちは、千鶴が断る理由を適当にでっち上げる際に、とりあえず、『好きな人ために…』みたいなことを言っておけば、それでセーフだった。
千鶴に関しては単純で、純朴すぎる紫野は、それだけで、勝手に上機嫌になってくれていたのだ。
しかし、狼少年ではないが、こういう手段も数を重ねると虚実だとばれるようだ。
それでも千鶴が、ああだの、こうだの言い訳をしつこく並べていると、とうとう呆れ返った様子で、紫野が大仰なため息を吐いた。
そして、この秋、二人にとってかつてない試練を呼び起こすこととなった台詞を、口にしたのだ。
「二十代後半にもなって処女を拗らせているやつは、これだから…」
刹那、何を言われているのかピンと来なかった。
だが、彼女の嘲笑に歪んだ口元を目の当たりにしたとき、ぷつん、と頭の中の自制の糸が切れた音が聞こえた。
「はぁ!?最低!最ッ低!本当、ありえないんだけど!」
ぼん、と布団を蹴って紫野のほうへ飛ばす。
紫野は器用にそれを足で払うと、「嘘つきの千鶴に、そんなこと言う資格はないだろ」と目くじらを立てて応じた。
すぐにでも謝れば、許してやろうと思ったのに。
千鶴は、カンカンになって相手を睨みつけると、両手に力をこめたままで宣言した。
「ああもう!頭にきたからね。今後、私に指一本触れないでよ、っていうか触らせないから、この変態!」
「なにそれ、キスもしないの?」
「なんで出来ると思うのさ!」
「恋人なんだから、当然だろ」
「恋人っていう関係が、何でもかんでも魔法みたいに問題を解決してくれるなんて、思うな、色情魔!」
「千鶴って、たまに変な言葉使うね」
「うるさいっ!」
そう告げた千鶴は、ベッドから飛び降りると、ぐんぐん寝室からリビングへと繋がるドアを目指した。
「千鶴、どこに行くの」
「ソファ!変態の隣で眠れないし」
「風邪引くよ」
「引かない!」
「じゃあ、せめて毛布を…」
「いらない!」
ドン、と扉に八つ当たりするように思い切り閉める。
まるで子どもだ、と自己嫌悪しつつも、あんな侮辱的なことを言わなくてもいいだろう、と憤るのをやめられない。
大体、この歳にもなって未経験なのは、誰のせいだと思っているんだ。
千鶴は冷静さの保てない思考のまま、三人がけの大きいソファに体を横たえ、鼻息荒く目を閉じた。
さっさと眠ってしまおう。そうだ、それがいい。
もちろん、眠りに就くことが出来たのは、それから一時間ほどしてからではあった。
(2)
秋の美しい星や月が青空に吸い込まれ、少し肌寒い風と共に太陽が目覚めても、千鶴の気分は晴れなかった。
それどころか、朝平気で話しかけてきた紫野に、再び怒りが爆発したところだった。
意識せず苛立ちが込められてしまった、力強いタイピングに、ちらり、と隣の席の同僚、白川菜々が自分のほうを覗いた。
「ごめん」と一言口にすると、彼女は人好きのする笑みを浮かべて、掌をひらひらと振って見せた。
自分よりも若いのに、しっかりとした白川だ。
仕事も出来て、コミュニケーション能力も高い、おまけに顔も良い。
世の中不公平である。
しかしながら、世の中、容姿端麗な人間には、何かしらの不具合が生じていること少なくはない、というのが、千鶴の偏見に満ちた勝手な意見だった。
例えば、付き合ってもないのに付き合っていると、十年も勘違いしているとか。
例えば、やっとの思いで両想いになった相手の恋愛経験を、デリカシーもなく指摘したりするとか。
つまり、紫野と同じように白川も、何かしらの欠陥を抱えているに決まっているのだ。
…そうでなければ、見た目も能力も月並みな自分が、あまりにも報われないのではないか。
思い出したら、また腹が立ってきた。
多少ルックスが良くて、声が可愛くて、努力家で、一途なだけのくせに。
後、ついでに意思も強く、自分の考えをしっかりと持っているとこもある。
窓際に座り、道路を眺めているだけでも絵になる紫野のことを思い出すと、むかむかした感情が抑えられなくなる。
再び、キーボードのエンターキーを叩きつけるようにして押す。
本当、何で私の気持ちが分からないかなぁ。
ちょっと考えたら、分かるようなものなのに。
一通りの作業を終えたところで、昼休みの時間になった。普段の二割増しぐらいの仕事量を遂行出来たことに、怒りのパワーはすごい、と少しだけ元気になる。
いつもの癖で、共用の冷蔵庫の前に移動し、扉を開ける。中には、いくつか弁当を入れた袋らしきものが並んでいたが、見慣れた濃い紫色の袋はない。
ふと、今朝のことを思い出す。
『千鶴、私もう出るけど、お弁当、忘れないようにね』
『いらない』
『折角作ったのに、もったいないよ?』
『作ってなんて、頼んでない』
…あれは良くなかった。
紫野は、自分よりもずっと仕事が忙しい。女優なのだ。給料だって、自分よりも遥かに多い。
それなのに、お弁当まで作ってくれる、という彼女の言葉に甘えて、おんぶにだっこ。
…まぁ、冷凍か、私の作った残り物を入れてるだけだけど…。
自分が自分で嫌になる。
千鶴はため息を吐いて、紫野と生活するまでしていたように、大人しく一階の社員食堂に下りて行った。
食堂は、まあまあ賑わってはいたものの、席には余裕がある。だだっ広いのだ。
昼飯には、日替わり定食を選んだ。少ししてから出された定食は、親子丼だった。定食でこれはいかがなものか、と思ったが、みそ汁も付いているので、こういうものかと納得する。
窓に面した一人用の席にでも座ろうかと考えていたのだが、座る場所を探しているうちに、見知った顔に声をかけられた。
「千鶴さんも食堂ですか?珍しいですね」
白川だった。その向かいには、千鶴の上司でもある大竹三咲が座っていた。
一礼して、どうしようか迷う。彼女らのテーブルはまだ二席は空いていたからだ。対面で座らず、隣り合っている二人は、変に目立つ。
ここは、同席するのが自然な流れだろう。しかし、今はあまり人と話したい気分ではない。
「どうぞ?」と当たり前のように白川が、席を立って椅子を引く。
細かい気配りの出来る白川の気持ちを無下にはしたくなくて、大竹にも許可を取った上で同席した。
「今日はお弁当じゃないのね」と大竹が穏やかに笑って言った。
彼女は大して自分と年齢差はない。しかしながら、その落ち着いた――語弊を恐れずにいえば、冷めた様子からは、もう少し年上のように感じられる。
「はい。今日は、お弁当を準備していなかったので…」
反射的に、ちょっとした嘘を吐いてしまい、胸がチクりと痛む。いつも頑張っているのは自分ではないのに、紫野の手柄を横取りしたみたいだ。
大竹はそれを聞くと、困ったように笑った。すると、それを見ていた白川がにやけながら大竹の脇腹を軽く肘で小突いた。
およそ上司にする態度ではなかったので、千鶴は目を丸くして驚いたが、大竹は気にしていない様子で白川に向かって肩を竦めていた。
それにしても、最近二人は、随分と仲が良いようだった。
元々、白川のほうは、誰とでも仲良くしている印象のある人だった。
だが、大竹のほうは、最低限の会話を好み、ひたすらに正論のみをふりかざすタイプだと、千鶴は勝手に思っていた。
そんな二人が、休憩時間や終業後まで共に過ごしていることがあった。
そればかりか、飲み会があった帰り際などに、男性社員の誘いを断って、共に帰路についている姿が見られることもあったのだ。
いや、別にいいのだが。
仲の良い上司と部下…、というには、些か無理があるのも確かだ。
この二人、もしかしてデキているのではあるまいか…。
千鶴がそんなことを考えていると、大竹が苦笑いのまま、音を立ててお茶をすすった。その年寄り臭い振る舞いを見つめていると、湯気の昇る紙コップを置いて、大竹が小首を傾げた。
「それで、誰かと喧嘩でもしたの?」
「え?」
「お弁当、たまにすごく派手なときあるよね」
「あー…」千鶴は目を逸らした。
大竹が言っているのは、おそらくは紫野が可愛くデコレーションしているときのことだろう。
たまに、という言葉と、派手、という言葉は、彼女の気遣いが感じられるものであった。
紫野は、ほとんど毎日、お弁当を作ってくれる。
それはありがたいのだが、何回、『恥ずかしいからやめて』と言っても、彼女は『LOVE』という文字を食材で象ることをやめてはくれなかった。
あれを、見られていたのか。
となると、千鶴の嘘は最初からバレバレだったということだ。よっぽどなナルシストでない限り、自分で作った自分の弁当に、自分で『LOVE』なんて書かない。
誤魔化すべきか否か。
千鶴は少し逡巡した後、二人の顔を見つめた。
大竹は相変わらず苦笑いのままだったが、白川は興味津々といった様子で目を輝かせ、こちらの言葉を待っている。
まいった。言わざるを得ない雰囲気だ。
千鶴は視線を窓の外に向けた。金木犀に目を奪われているフリをして、ゆっくりと言葉を続ける。
「あの、同棲してる、人と、喧嘩してしまって…」
「え?千鶴さんって、同棲してたんですか?」
千鶴の言葉に、白川が目を丸くした。
「白川さん、少し静かにしていなさい」
「えぇー」大竹の注意に唇を尖らせた白川だったが、「ね?」と頭を撫でられて、大人しくなった。
…この二人、絶対、ただならぬ関係だ。
普通、上司が部下の頭なんて撫でない。いくら仲が良くても、これは度を越えている。
まあ、もしも彼女らが懇ろだとすれば、自分と同じように同性との恋愛生活を送っている、ということになる。
しかも、明らかに千鶴と紫野よりも仲睦まじい。職場でイチャついているほどなのだ。
それならば、自分と紫野について、何かしら今後の参考に出来るかもしれない。
咳払いをして、もう一度話を元に戻す。
こうなれば、恥も外聞も捨てて相談してやる、と千鶴は意気込んだ。すると、そんな彼女の気持ちを察したのか、大竹が優しく微笑んで尋ねた。
「それで?今日はお弁当を作ってもらえなかったの?」
「あ、いえ…、その」これは自分が悪いのが分かっているので、少し言いづらい。「作ってくれてはいたんですが、あてつけで、持ってこなかったんです…」
「うーん、それは良くないですよ」とあまり黙っていられなかったらしい白川が、腕を組んだ。
「ご飯って、作るの大変じゃないですか。それを無駄にするなんて、食材にも悪いし、作ってくれた人にも悪い、後、お財布にも悪いです」
「それは、分かってるけど…」
「そもそも、何で喧嘩したんですか?」
いきなり直球で来たものだ、と千鶴は内心で辟易とした。
こういう場合、普通はもう少し様子見してから聞くものではないのか。
言葉を詰まらせた千鶴をじっと見ている白川に、大竹が厳しめの口調で言う。
「ちょっと、白川さん。あまりズカズカと人の事情に首を突っ込まないことよ」
「でも、理由を聞かないと始まらないじゃないですか」
「それは、こちらの都合。相沢さんが話してもいい、ということであれば、話を窺うべきだけど、そうでないなら、私たちは深入りするべきじゃない」
今みたいに正論を並べ立てているほうが、大竹三咲という人間としては、しっくりくる。
少なくとも、自分の中では。
「もぅ、三咲さんは融通が効かないんですから」と肩を竦める白川。
白川を横目で一瞥した大竹は、こちらに片手を小さく出して、あくまで提案である、というふうに続ける。
「ということだから、もしも相沢さんが話したいと思うのであれば、いつでも話してくれて構わないから」
正直、意外だった。
大竹、という上司は、もう少し冷淡な人間かと思っていた。
実際に、『鬼の三咲』などと上の人たちに呼ばれているのを見たことがあったし、その名の通り、千鶴自身も厳しい叱責を受けることもあった。
そんな彼女が、こんなふうに一線引いた目線を持ちながらも、部下のメンタルケアに乗り出したというのが、驚きだ。
ここまできて、何も相談しないというのは、さすがにナンセンスだろう。
かといって、真正面から相談出来る内容でもなかったので、なんとなくぼかしてから説明する。
「向こうの要望に、応えられなくて…。あの、応えたいという気持ちはあるんです、本当に。ただ、やっぱり、その、勇気が出なくて」
「ふぅむ」と白川が反応する。他人事だから、楽しんでいるようにも見える。
「勇気って、出ないときは出ないものだからね。相沢さんの気持ちを、相手には伝えたの?」
「はい。その、もう少し待ってほしい、というのは」
これでは相手のプロポ―ズを断ったみたいだ。そういう勘違いをされると、後々面倒になりそうだ。
「同棲してどれくらいになるの?」
「三ヶ月です。あ、付き合い始めて、半年…」
「え?」と大竹が目を丸くした。やはり、結婚の話と勘違いしていたらしい。「その、ずいぶん早いのね…」
「あの、勘違いされているかと思うんですが、結婚ではないので…」
「あ、そうなのね…。やだ、恥ずかしい」
そう言って、ほんのりと頬を朱に染めた大竹。自分よりも年上の女性を、つい可愛いと思ってしまい、何だかこちらが恥ずかしくなる。
何となく居心地が悪くて、目を逸らす。すると、大竹の隣に座っていた白川と目が合った。
彼女は、先ほどまでとは打って変わって、つまらなさそうに目蓋を半分ほど下ろしていた。だが、千鶴と目が合うや否や、一瞬で笑顔を作り、普段の可愛らしさを表に出した。
その凄まじい変わり身の早さに、白川奈々という人間の本質が見えた気がして、慌ててまた目を背ける。
テーブルの上の親子丼は、湯気をくゆらせ、三つ葉の香りを放っていた。食欲をそそるものの、千鶴の頭は話題に気を取られていて、箸を掴めずにいた。
千鶴は咳払いを一つして、話を戻した。
「とにかく、向こうは待ってはくれているんですが、その、何度も断っているうちに、ちょっと機嫌を損ねてしまって。それで、デリカシーの欠片もないことを言われたっていうか、頭に来たというか…」
「あぁ…」と黙っていた白川が得心げに呟いた。面白がっているような眉の形だ。
今ので話の内容がばれたのかもしれない。
ぐっ、と前のめりになった白川は、大竹を押しのけるようにしてテーブルに両肘をついた。
「菜々、行儀が悪いわよ。それに、貴方は面白がるから駄目」
子どもを叱るように、一音、一音丁寧に言ったのだが、それを聞いた二人は、目を丸くしていた。
「なに?どうしたの?」
「え、いや…」と白川が、今考えているから少し待て、と言わんばかりに言葉を濁していた。
こういうときの気まずさは、あまり好きではない。好きな人がいれば、顔を拝んでみたいものだけれど。
余計な気を遣わせたくなくて、早口で間に割り込む。
「何でもありません。その、白川さんの意見も聞きたいので、構いません」
そう、と首を傾げた大竹は、自分が親しげに白川の名前を呼んでいたことに気がついていないらしい。彼女は、そのまま片手で白川の肘を叩き、テーブルの下に下ろさせる。
白川は、じっ、と相手の意図を推し量るようにこちらを見つめた。それから、数秒押し黙っていた後、また破顔する。
契約成立だ、と言われているような気がする。
もちろん、どういった契約なのかは分からない。
「それは、やっぱり二人のペースだとは思います。だけど、えっと、何と言えばいいかな…。千鶴さんのほうから、その気にさせたのに、おあずけ、っていうのは、ちょっと酷かと…」
「そ、そうですよね」
「で、どうなんですか?」
「どう、とは…?」
「もちろん、その気にさせているかどうか、です」
面白半分で確認しているのが、まざまざと伝わってくる。
どうか、と問われると答えられない部分が多くある。なぜなら、こちらから誘うような真似をすることも、ゼロではないからだ。
しかし、自分にそういう気持ちがある、というわけではないのだ。
ただ、何となくくっついていたいときが、千鶴には頻繁にあった。
触れているだけでいい。
肩をくっつけて、共に夜と朝の境界を越えるだけで良かった。
それだけで私の心は満たされるのに、どうやら紫野は違うらしい。
「どう…、でしょう。ただ、触れていたい、と思うときはあります。実際、そうしていると思いますし」
「うぅん、じゃあ、我慢し続けろ、っていうのは無理がありますよ。同棲しているなら、なおのこと」
白川は肩を竦めると、ちらりと大竹を見た。彼女は、話の流れがあまり理解できていないらしく、不思議そうな顔で白川を見返した。
「同棲していなくとも、正直、我慢できないんじゃないですか。欲求って、そういうものですよ」
話の流れで、喧嘩の原因を察したらしい大竹は、また顔を赤くして俯いた。
「…でも、そういう行為が欠けただけで、破綻する関係って、なんっていうか…」
「虚しい?」と白川が付け足す。「そう、そうよ。虚しいわ」
「千鶴さんって、もしかして、経験無し?」
「うっ…」あまりに無慈悲な一言に、息が詰まる。
意外にも、紫野と同じデリカシーに欠けるタイプなのか、白川は相変わらず愉快そうな表情をしたまま、大竹に叱られている。
ごめんなさい、と白川の代わりに謝った大竹に、かえって、自分の態度はそんなに分かりやすかったか、と羞恥が募る。
何も答えられず、今さら思い出したかのように親子丼に手をつけていると、真正面でスパゲッティをくるくるフォークに巻きつけていた白川が呟いた。
「だったら、簡単です。本気で好きなら、とりあえず抱かれてみてください。きっと、世界が変わりますよ?」
「…簡単に言いますね」
ふふ、と笑って、白川が視線を隣の大竹に移した。
「大丈夫、私がそうでしたから」
(3)
女心と秋の空、それから、山の天気も。
移ろいが読めない。
まあ、私は昔から、読めないことのほうが多かった。
他人の気持ちも、常識とかいうワケの分からない不文律も。
そういう目に見えぬものに、何の疑いもなく従っている周りの連中が不気味で、疎ましくて…。
私は、自分の四方に壁を建てた。
心の壁、という堅牢なバリアだ。
誰もそれを破れなかった。
突破を試みようものなら、問答無用に言葉の刃で切り裂いた。
それを続けているうちに、誰も壁を壊そうとしなくなった。
その代わり、壁の中に向かって石を放り投げてくるようになった。
鬱陶しかった。
私を放っておけない全てが。
悲しかった。
私を理解できない他人が。
寂しかった。
私しかいない、壁の中が。
そんな孤独な密室に、音もなく、するりと入ってきた人間が一人、現れた。
相沢千鶴。
私の愛おしい人だ。
他人の気持ちは分からないが、そのぶん、自分の気持ちははっきりと分かった。
どんな名画よりも鮮やかな色彩で、私の脳裏に日々を描いた。
彼女に尽くした。体だって、彼女が望んでいたから、預けた。
私は彼女のために全てを、時間すらも捧げてきたのに、
彼女はそうではないらしい。
納得がいかない。
起きても、まだ千鶴は怒っていた。
日を跨げば、大概の怒りが沈黙する私にとって、千鶴の執拗な苛立ちは、理解し難いものだった。
でも、理解したいと思う。
歩み寄る大事さを、誤解をなくすために思いを伝え合う重要性を、私は彼女と再会して心底思い知らされたのだから。
スマホの待ち受け画面にしている、千鶴の寝顔をじっと見つめる。
このときだって、可愛さのあまり抱きついたら、すぐに怒られた。
千鶴は、私に触れられるのを嫌う。
すぐに、『待って』と言う。それでも無理に触れると、力をもって阻止される。
ふぅっと、もう一度力なくため息を吐く。すると、私が隠れて落ち込める場所として選んだ、非常階段の鉄の扉が音を立てて開いた。
表情には微塵も出なかったが、内心はびっくりしていた。
可愛らしい紅葉色のセーターを着た女性が、階段の上にいる自分には気づかず、手すりの前まで移動し、手を乗せながら、携帯を操作し始めた。
私はその横顔に見覚えがあった。
ゆるいウェーブのかかった、茶色のセミロング。
真っ赤なりんごみたいな、唇。
そして、きらきらとした宇宙の広がる、瞳。
――花月林檎だ。
私と同じ、女優。
子役、さらにはアイドルと、長年飽きられることなく演じ続けてきた二十代前半の女性。
芸能界歴は、年上の私よりも遥かに長い。
この間も、『一口分の毒林檎』という映画で、主役に抜擢されていた。
前評判が大して良くなかった映画だったからこそ、上映開始後の、ゆっくりとした人気の燃え上がり方は眼を見張るものだった。
清楚で幼いイメージの花月は、いくつになってもその純朴さを保っている、というキャラだった。
確かに、都市の上空を流れる風を受け、髪を揺らす彼女のあどけない横顔は、少女然としていた。
すぐに声をかけるべきか、とも思ったが、花月が手早く携帯を操作し、耳に当てたことで、出遅れてしまう。
何回目かのコールの後、電話の相手が出たらしい。
彼女の顔が、一瞬で自然と明るくなる。
「はぁい、胡桃ちゃぁん。起きてた?」
聞き慣れない花月林檎の、精神年齢の幼くなったような口調に、目を丸くする。
「え、寝てた?本当に寝てたの?だめ、だめだよぉ。また徹夜したんでしょ。何時に起きたの…?え、一時、昼の?それはさぁ、もう、だめじゃん」
心底相手を心配している口調に変わる。凄まじい変わり身の速さだ。
「あのね、胡桃ちゃん。夜ふかしはお肌に悪いから。後、ちゃんと陽の光を浴びて、ね?女の子なんだから、きちんと気を遣って…って、聞いてるの、胡桃ちゃん。え、もう!眠い、じゃなくて、しっかり聞いてよぉ。怒ってるんだよ、私」
どうやら、相手は女性のようだ。随分と仲が良いようだが、地元の旧友とかだろうか。
そんなことを私が考えていると、花月が途端に大きなため息をついて、顎を手すりに乗せた。
「はぁ…。逢いたいよぉ、胡桃ちゃん」
切なくも、甘美な吐息が、耳元まで響いてくるようだった。
ただの友達に、こんな声かけはしない。
私は、ぴんときた。
あの日、私が千鶴に言ったことだ。
人の気持ちが分からない私だったが、同族にはすぐ気付く。
その予測の正しさを証明するかのように、花月が一際甘い声音で、ねだるように囁いた。
「だぁい好き。胡桃ちゃん」
これは、駄目だ。
本当は私が聞いても良いものではない。
なぜなら、これは胡桃という女性のためにだけ捧げられた、愛の詩だからだ。
他人が穢していい領域ではないのだ。
これ以上、花月がその領域を晒さぬよう、私はわざと音を鳴らして立ち上がった。
びくっ、と花月が肩を揺らして振り向いた。
その丸々と見開かれた瞳の奥が、目まぐるしい勢いで色を変える。
おそらく今、花月の脳は凄まじい速度で回転している。
私と違い、カミングアウトしていない花月にとって、この情報は致命的なものとなる可能性が高い。
私が、どう出るのか、そして、どう返すのが的確なのか、損害が抑えられるのか。
きっと、そればかりを思考している。
「ごめん、胡桃ちゃん。切るね」と早口で相手に告げると、返事も聞かないまま電話を切った。
花月は、髪が風に流されていても、気にも留めず、じっと、こちらを見据えている。
「お疲れさまです、紫電さん」
紫電、とは私の芸名だ。紫電瑠璃、とほとんど本名でやっている。
「はい、お疲れさまです。花月さん」と凛とした声音で反射的に答える。
学生時代とは別人のような応対。それが出来るようになった自分を、成長したな、と思う一方、あの頃の鋼の意思は蒸発したのかと落胆もした。
「ここは風が気持ちいですねぇ。紫電さんも、気分転換ですか?」
明らかに私が話を聞いていたことに気付いているはずなのに、どうしてそんな質問をするのか。
本当に聞きたいことは、そうではないだろう。
こんな無駄で、ナンセンスなやり取りは割愛しよう。
「さっきの、恋人ですか」
ずばり聞いた質問に、花月は無言の笑顔で答える。
「女性でしたよね。胡桃って名前」
胡桃、どこかで聞いた名前の気がする。
「それが何か?」明るく、丁寧なアクセントだったが、かなり拒絶的な印象を受ける。
「同類だったんですね。私と貴方」
じっ、と互いに見つめ合う。睨み合っている、ともいえる。
相手の返事を待っていた私は、もしかすると、自分と同じで、同性を恋愛の対象に選んでいる花月であれば、今この頭を悩ませている問題の解決に、アドバイスをくれるかもしれない、という考えが浮かんでいた。
つまり、花月の弱みを握ってどうこうしよう、などとは思っていなかったのだが、どうやら、花月はそれを警戒しているらしかった。
大げさなため息と共に肩を落とした花月は、髪をかき上げながら、吐き捨てるように尋ねた。
「はぁぁ、もう、なに。何が望みなのぉ?」
「望み…?」
「そう。何か言いたいことがあるんでしょぉ?言っとくけど、私、どれだけ脅されても、お金は出さないし、紫野さんに抱かれもしないから」
花月の敵愾心のあふれる態度に、ようやく自分がどういう疑いをかけられているのか理解した。
ゆっくりと首を振り、「別に、花月さんを抱きたいなんて思ってませんけど」と教える。
「…本当?」
「本当です。というか、何でそんなことをしなければならないのか、理解不能なんですが…」
「そ、それはそれで、むかつく…」
思ったよりも、気性の荒い人物のようだった。
裏表を使い分ける彼女ら普通の人間が、奇々怪々で仕方がない。
花月は最初のうちは信じていない様子だったが、次第に私が面倒さを隠さなくなると、ようやく信じてくれた。
「紛らわしい。それじゃあ、いちいち確認しないでよぉ。無駄に暴露しちゃったし」
「あの…」と早速本題に入ろうと、私が声をかけると、花月は不機嫌そうに眉をひそめた。
「なぁに。やっぱり抱きたい、って言っても、絶対駄目だから」
「いや、それはどうでもいい」あまりにしつこかったため、苛立って素で返してしまう。
その口調に多少驚いた様子の花月だったが、私は気にせず本題に移った。
「相談したいことがあるんですけど。その、恋愛のことで」
「え?」
花月が片手を口元に当てた。これは繕いではない、本音からの仕草のようだが、中々に可愛らしかった。
世間一般が持つ、花月林檎のイメージにぴったりと合っている。
「えぇ?紫電瑠璃の恋バナってことぉ?うわぁ、面白ぉい!」
「…そうですか。それは良かったです」
ちょいちょい、と手首だけで花月が私を呼んだ。断る理由もないので、階段を下りてそばに寄る。
「っていうか、何で私に?」
「だって、女性の恋人がいるんですよね」
「まあね。あ、言わないでね。後、さっきみたいに素の口調で喋ってよぉ。私たち、もう友達じゃぁん」
友達って、そんなにも安っぽいものなのか。
急な手のひら返しを不思議にも思ったが、彼女は私に弱みを握られている、と思い込んでいるはずだ。何も疑う必要はないだろう。
「じゃあ、遠慮なく」
「はいはぁい、紫電さんのほうが年上なんだし、こっちが自然だよねぇ」
「もう本題に入っていい?」
「どうぞ」
紫野は、事のあらましを語った。
ずっと片思いしていた相手と、付き合って半年、同棲して三ヶ月になること。
恋人は、高校の同級生ということ。さらに、その頃に、自分の初めてを捧げたということ。
恋人の初めてを貰おうと、何度も試みているのに、すんでのところで拒絶され、酷いときは突き飛ばされること。
話を聞き終えた花月は、何ともいえない顔をしてから、風を読むようにじっと、遠くの景色を眺めていた。
「まぁ、無理やりは良くないよね」
「正論、嫌いだな」
「私も」と花月は笑った。その笑みが自然で、つい私も口元が綻ぶ。
「実はねぇ、私も人のこと言えたもんじゃないんだぁ。今の恋人、学生時代に押し倒しちゃったことがあってね。そのせいで、大人になるまで疎遠だったし。紫野さんとそっくり。ま、私は『しよう』とした側だけど」
だから、自分の意見はあてにならないかも、と肩を竦めた花月は、おもむろに携帯を操作し始めた。
「何してるの?」
「胡桃ちゃんにも聞いてみる。あ、知ってる?時津胡桃。ちょっとした作家なんだけど」
それを聞いて、私はその名前をやっと思い出した。
確か、『一口分の毒林檎』の著者だ。
今まで大した人気のなかった作家だったが、花月の熱演も相まって、時津胡桃は、一躍時の人になっていた。
「すごい。作家さんが恋人なんだ。確か、『一口分の毒林檎』で有名になった人だ」
「そそ、しかも、あれって、実話なの」
「え?」
「私と胡桃ちゃんの。まあ、そんなことはどうでもいいしぃ。とにかく、胡桃ちゃんのほうが、相談相手として的確かも。作家だから、きっと気の利いた…」
花月の言葉の途中で、携帯が通知音を鳴らした。
どうやら、その時津から返信があったらしい。
花月は、携帯の画面をじっと見つめた後、何がおかしいのか、くすくすと笑った。少女然とした表情に、彼女の本質を見た気がする。
「あぁ、ごめん。ほら、これ見て」そう言って、花月が画面を私に向けたので、ぐっと体を寄せて覗き込む。
すると、そこにはこう綴られていた。
『芥川龍之介曰く、恋愛は性欲の詩的表現である』
こんなものを見せられても、と顔をしかめていると、もう一通メッセージが送られてくる。
『つまり、その人が、どれだけ心の底から相手を愛していても、伝わっていないなら、それはただの性欲と受け止められるんじゃないってこと。
詩的表現、とまでは言わないけど、せめてムードくらいは気にしたら、ってその人に伝えておいて。
追伸、今日は林檎の好きなアップルパイを焼いてみたから、食べたいなら、さっさと帰っておいで。共食いになるけど』
ほう、と感心して息を吐いたところで、花月が携帯の画面を自分の手元に戻した。すると、きっと最後の文面を見たからだろう、だらしない緩んだ表情をした。
「やぁん、胡桃ちゃんってば、素直じゃないんだからぁ。早く帰って来てって言えばいいのにぃ」
仲良いんだね、という言葉は頭の中で止まった。
――…伝わっていない、性欲、ムード。
この人の言う通りなのかもしれない。
千鶴がどういう理由にせよ、不安になっているのであれば、私はその気持ちと向き合う責任がある。
それが、愛するということのはずだ。
千鶴とは違う方向を向いているうちは、私の灼熱の愛も、ただの性欲としてしか受け止められなくても当然。
まずは、向き合って、見つめ合い、二人の見据える先を二人で決める。
話し合うのだ。
口下手だから、上手くいくかは分からないけれど…。
それをしないまま、ペシミストぶって項垂れるのは、私らしくない。
だって、千鶴のことなのだから。
私が、この世界で唯一、死んでも手放せないと断言出来る存在。
「ありがとう、花月さん。時津さんにも、そう伝えておいて」
素早く踵を返した私に、花月が問いかける。
「ちょっと、どこに行くのぉ?」
「今日は、仕事をキャンセルしてさっさと帰る」
「うわぁ、大胆。怒られない?それ」
「私、千鶴より大事なものなんて、持ってないから」
もう興味はない、と言わんばかりの私の背中に、「またね、紫電さん」と呟く。
その手に握られている携帯の画面に、録音中、の文字が浮かんでいることに、私は最後まで気が付かなかった。
(4)
家に帰り着いたとき、時刻はすでに九時半を回っていた。いつもがこの時間ではない。単に残業しただけである。
普段ならば、そんな残ってまでやる仕事は少ない。それに加え、今日は仕事のノリが良かった。考え事から逃げる先として、ちょうど良かったのであろう。他人の仕事ても集中出来た。
マンションの鍵を開ける。玄関には、紫野の靴があって、心臓がきゅっとする。
今日は遅くなると言っていた気がするのだが。
玄関の戸を閉めると、背後から瞬く間に暗闇が忍び寄って来た。そのため、正面の扉から漏れて来る光が目立つようになる。
千鶴は、靴を脱ぎ終わった後、小首を傾げた。
嗅ぎ慣れぬ臭いがしていたからだ。
スパイシーなような、甘いような…。
良い匂いというわけではなかったが、お腹がぺこぺこだったので、胃が音を立てる。
おそるおそる、リビングへの扉を開けた。
部屋は、およそ人気女優の棲家とはいえない、手狭な空間だ。
初めは、紫野が住んでいた高級マンションに移り住むよう言われたのだが、今の生活を壊したくなくて断った。
…いや、違うな。
自分自身、いつ紫野に見捨てられてもいいように、保険をかけた、というほうがしっくりくる。
私は臆病なのだ。ただ、最初からそうだったわけではない。
自らの衝動に打ち負かされ、紫野に誘われるがまま手を伸ばしたあの夕暮れから、私は自分が自分でコントロール出来なくなることが、怖くなっていた。
だから、私はこの庶民じみた一室に留まることを選んだ。彼女に捨てられても、私は変わらずにいられるはずだったから。
紫野は、それでも私のところにやって来た。
そして、袋小路みたいなこのリビングにあるキッチンで、紫野はお玉を片手に立っていた。
「な、何してるの…?」
「見て分からない?料理」
「…料理ぃ?」
千鶴の目線の先にあるのは、噴きこぼれた鍋、シンクに飛び散った汁、あっちこっちに散乱する吸水紙、ごうごうと燃え盛るコンロの炎…。
およそ、食欲を刺激する光景ではない。
紫野がお弁当を作ってくれるときは、冷凍食品の詰め合わせか、昨晩千鶴が作った残り物を入れていることが多かった。
なので、彼女が料理をするなんて、初めてのことだった。
「散らかしてるんじゃなくて?」
「料理。結果的に、散らかっただけ。味は大丈夫、多分」
紫野はエプロンを身にまとっていたが、あれは千鶴のものだ。そして、その布地には無数の汚れが付着している。
色々と言いたいことはあったが、コンロの火を止めた彼女が、食卓につくように言ったため、千鶴は、大人しく席についた。
数分後、机の上は阿鼻叫喚の図が構築された。
一口では入りきらないサイズでカットされた、人参と大根の、色の薄い味噌汁。
焦げ付いているばかりか、触れるとすぐにボロボロになる漆黒のハンバーグ。
新玉ねぎの季節でもないのに出てきた、玉ねぎのサラダ。
唯一まともなのは、自分が昨晩のうちから準備していた白米だけだ。それも山盛りに注がれているため、ふざけた様相を呈している。
顔を引き攣らせて、その料理を見つめる千鶴に、紫野が見た目にそぐわぬ、少女のような声で言った。
「味は大丈夫だから、食べてみて」
見た目が壊滅的なのは、お気づきのようだ。
彼女なりに思うところがあって、料理を作ってくれたのだろう。
その気持ちはありがたい。歩み寄りを図ってくれたのだから。
…いや、でもなぁ。
これは、無理でしょ。
ハンバーグなんか、明らかに体に悪い物質が含まれている。
気も進まず、箸も握れなかった千鶴に、ぼそりと紫野が呟く。
「下手くそだけど、…千鶴のために作った」
「う、うん」それは分かる。
紫野は、困ったような顔で皿の上を見つめた。
「こうやって、実際に料理をしてみると、千鶴がどれだけ大変なのか分かるよ」
「いや、別に、そんな」
「いつもありがとう、千鶴。愛してる」
さらりと愛の言葉を口にされて、千鶴の顔は真っ赤に染まった。
「きゅ、急にどうしたのさ、紫野。昨日のことなら、私だって悪かったんだから、そんなに、気を遣わなくも――」
「急にじゃない。ずっと思ってた。でも、言葉にしてなかったことが多いんだって、今日気付かされた」
顔を俯けていた紫野が、きりっと正面を向く。
瞳の中の大水晶が、照明の白い光を反射して輝いている。
それと真っ直ぐ見つめ合った千鶴は、「そ、そうなんだ」と返すので精一杯だった。
一体、どうしたんだろうか。
こんなにも真正面から称賛されると、さすがに照れる。
気付かされた、と言っていたので、紫野も誰かにアドバイスを請うたのかもしれない。
人間不信の傾向がある紫野が相談するなんて、驚きだ。それだけ自分との衝突を重く受け止めてくれていたのだろう。
千鶴は、そのまま無言で箸を進めた。確かに、見た目のわりにどれも味は悪くなかった。だが、やっぱりハンバーグだけは、人が食えたものではなかった。
「千鶴」箸を止めたのを見計らって、紫野が声をかけた。「は、はい?」
今の彼女が何を言い出すのか…。
想像しただけで、胸が高鳴った。
紫野は小首を傾げて、穏やかに微笑んだ。普段はしない表情だったが、彼女が出る芝居では良く目にするものだった。
ただ、それらと決定的に違ったのは、作られたものではないということだろう。
こちらを見る瞳は相変わらず爛々と輝き、劣情とはまた別の、美しい、地平線の彼方から顔を覗かせる、朝日のような情熱が瞬いていた。
「お風呂、入れてるから。先に入りなよ」
「え、でも、片付けが…」
「いいから」立ち上がった紫野は、その手に空いた皿を乗せた。
どうやら、彼女自身もハンバーグだけは食べるべきではないと判断したようだった。
「それくらいは任せて、入ってきて」
しばらくは千鶴も抵抗したが、結局、紫野の力強くも優しい雰囲気に押され、言われたとおりに風呂に入った。
バスタブに浸かりながら、顔をお湯に埋める。入浴剤の気泡が、顔に当たってくすぐったい。
――…本気で好きなら、とりあえず抱かれてみてください。
あぁ、うるさい。
そんな簡単に言うな。
――…きっと、世界が変わりますよ?
思い出すな。今、その言葉を思い出すな、自分。
体の中を駆け巡る血流のように熱いシャワーが、さらに自分の心をたぎらせる。
入念に体を洗う。特別な理由なんてない。
ただ、心身にこびりついた焦燥や、言葉に出来ない期待、不安。それらを、垢と一緒に洗い捨てるために必要な儀式なのだ。
洗面所にかけてあるバスタオルで、体を拭く。
鏡に、自分の体が映る。どうにも、紫野のそれと比べると締まりがない。
太っているどころか、痩せているほうなのだが、紫野のようにメリハリがない。端的に言うと、出るところが出ていない。
こんな体を、紫野に触れられるなんて、やっぱり我慢出来ない。
せめて、もう少し引き締まってから…。
いや、そんなときなんて、いつ来るんだ。
努力も何もしていない人間に、そのときなんて、一生来ない。
逃げ出したい気持ちに駆られたが、元よりここは袋小路。私にとって、最後の砦なのだ。
寝室に向かうと、ベッドに腰掛け、台本らしきものを読んでいる紫野と目が合った。
相変わらず、穏やかだ。
そこには、昨晩、私を貪り尽くそうとした優美な獣の姿は一切ない。
紫野は、「風呂に入ってくる」と口にすると、すぐに寝室から出て行った。
髪を乾かしたり、肌の手入れをしたりと、必要なことを済ませる。
それから、どうしようかとベッドのほうを見つめてから、覚悟を決めたようにマットの上に上がる。
十分も固まっていると、紫野が姿を現した。彼女はこちらを見ると、驚いたように目を丸くして、ふいと逸らした。
自分と同じように、いや、それよりも短い時間で、彼女はあらゆる手入れを済ませた。そうした部分に、元々の素材の違いを思い知らされる。
互いに無言で、ベッドに入る。まだ眠る時間には早いので、二人は、台本と小説を片手に持っていた。
小説の文字を目で追うも、それらは凄まじいスピードで千鶴を撹乱した。ほとんど頭の中に入ってこなかったのだ。
「千鶴」
ぼそっ、と紫野が呟いた。少しだけ、いつもの彼女に戻っていた。
「どうしたの、紫野」
紫野は言いづらそうに眉を曲げると、目線を一度だけ台本に戻してから言う。
「そっちに行ってもいい?」
「…うん。いいよ、そんなの、聞かなくて」
「ありがとう」そう言いながら、彼女は千鶴の肩と、自分の肩を触れ合わせた。
再び、沈黙の帳が下りた。
今日は、雨垂れの音がしない。
紫野の息遣いと、わずかな動きに反応して鳴るスプリングの音だけが、二人を見守っている。
「ごめん。色々と」
話を切り出したのは、また紫野のほうだった。一歩でも前に進もうとしている紫野に比べて、逃げることばかり考えている自分が、あまりにも情けない。
「こっちこそ、ごめんね。怒鳴ったり、お弁当、置いていったりして」
「そんなこと、気にしないで」
口下手な紫野が、一生懸命何かを伝えようとしているのが、先ほどから痛いほど伝わってくる。
「手、握ってもいい?」
「なぁに、さっきから。改めて確認されると、恥ずかしいんだけど…」
照れくさかったため、ちょっとだけ怒ったふりをする。そして、誤魔化しながら、千鶴のほうから紫野の右手を握る。
「私、こっちの都合ばっかりで、千鶴の気持ちをしっかり考えてなかった。だから…」
「もう、お互い謝り合うのはやめにしようってば」
こくり、と紫野が頷いたのが分かった。互いに目をドアのほうに目を向けていたが、それぐらいは分かる。
不意に、紫野が顔を寄せてきたのが気配で察せられた。
それを受け入れるように、じっとしていると、紫野のすべすべの鼻先が千鶴の頬に触れた。
少しずつ、紫野のほうを向く。斜め四十五度の先に、彼女の端麗な顔立ちがある。
紫野が、真っ赤な舌を出して唇を一舐めした。キスをする前の、彼女の癖だ。
ゆっくりと、意識を現実から切り離すみたいに、目を閉じる。
紫野の甘い芳香が強くなる。
それに合わせて顎を突き出して、キスをねだるが、紫野の薔薇のような唇は、千鶴のおでこに落ちた。
どうしておでこなんだ、と千鶴は唇を尖らせて思った。
「ちゃんと待つから、私」
「紫野…」
「だから、ずっと一緒にいよう、千鶴。歩調を合わせて、同じ方角を目指して行こう」
およそ紫野の口から漏れたとは思えないほど、ロマンティックな言葉だった。
その言葉を聞き、心拍数の速くなった鼓動に、意外にも乙女思考なところがあったのだと、自分で驚く。
本来なら、愚直に喜んで、紫野を抱きしめるシーンだったのだが、千鶴はどこか物足りない気持ちを抱いていた。
そのため、口を尖らせたまま、試すように言う。
「それなら別に、我慢なんてしなくていいよ…」
千鶴は、内心、この言葉で紫野が我慢できなくなると踏んでいた。しかしながら、紫野は満足そうに相好を崩してこう答えた。
「どちらかが一方的に合わせるのは、フェアじゃない。肝心要はそうじゃないって、私、分かったから」
それを聞いて、千鶴は酷くもどかしい気持ちになった。
何をこんなときばかり、物分りが良くなっているのだ。
昨日は、あれだけやめろと言っても、やめようとしなかったのに。
折角、こちらがそういう気分になっているときに限って、聞き分けよく引き下がるなんて…。
不満を繰り返し考えていた千鶴のおでこに、不意打ちでもう一度キスを落とした紫野は、やはり満足そうに笑った。
その表情を見て、何だかムッとした気持ちになった千鶴は、ほとんど飛びかかるようにして、紫野の唇に吸い付いた。
「んぅ…!」
驚いた顔をしている紫野を、そのまま流れるような動きでマットに押し付ける。ヘッドボードに当たらなくて良かった、と遅れて考えた。
思えば、いつもそうだ。
彼女ばかり、勝手に勇気を出して、振り回して。
最愛の人がこうだから、私が情けなく見えるのだ。
名前だってそう。
紫野は、付き合う前から、勝手に私を、『千鶴』と呼んでいた。
深海に潜るみたいに、奥へと舌を絡める。
苦しそうに、切なそうに顔を歪める紫野に、ほんの少しだけ溜飲が下がる。
だが、まだ足りない。
紫野の上に、馬乗りになる。
見下ろした紫の姫は、頬を上気させて、何かを期待するように見上げていた。
「瑠璃」と彼女の名前を呼ぶ。
ただでさえ大きい瞳を、さらに大きくさせて、涙を浮かべ始めた紫野を見つめているうちに、千鶴は、ベッドの下から這い上がってくる、あの恐ろしい感覚に襲われた。
かつて、体育倉庫にて自分を支配したあの感覚。
自分が、自分ではなくなっていく。
私は、自分のことすら自分でコントロール出来ない。
自分の体で、心なのに。
再び、紫野の唇に自分の唇を重ねながら、こんな自分でも、紫野は愛してくれるのだろう、と頭のどこかでぼんやりと考えているのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
途中に出てきました、
大竹三咲と白石菜々は、『ゼフィランサスの愛』で、
時津胡桃と花月林檎は、『愛され方が分からない』、『毒林檎を、私に』にて登場しますので、
興味があれば、そちらも是非よろしくお願いします!
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!
また、こういう短編を…、というご希望があれば是非、参考にさせていただきます!
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