3-42.トランクの中身
42.
ベスは自分に言い聞かせるように神への祈りを何度も繰り返し呟きながら運んできたそのトランクを前に絶句した。
「……うそ」
中に入っていたそれを持ち上げ、陽に掲げたベスは、馬鹿みたいに口を開けたままぽかんとしてしまった。
身体が震え、言葉がみつけられなかった。
今の邸まで誰にも見つからずに部屋まで持っていける気がしなかったこともあって、不作法にもインテバン男爵邸の庭先で開けたのが失敗だったのだろうか。
開ける前に、もっと神へ祈っておけば良かったのだろうか。
それとも、酔った母シーラの言葉を信じたりしたこと自体が、間違いだったのだろうか。
埃まみれのトランクの中にあったのは、ぼろぼろの、生地の成れの果てであった。
ドレスであったことが微かにわかる。だが、それだけだ。
襟元を飾っていたレースは変色して虫食いの果てなのか朽ちており、かつてはすべらかであった身頃も穴だらけだった。
辛うじて、胸元へ施された青いパイピングだけが生地が違うせいだろうか青の染料が虫よけになったのだろうか、色と姿形を残しているお陰で、それがベスの記憶にある“シーラ・インテバンのウェディングドレス”であることを示していた。
考えてみれば、当然の状態だ。
シーラは自分の大切にしていた宝物が次々と売りに出されていく中で、なんとか守り通そうとして誰にも見つからない場所として、あの屋根裏部屋の隅にこれを隠したのだろう。
そうして、そこにこれがあることがバレないように、一度隠してからは二度とそこへ足を踏み入れなかったのだ。
あの埃だらけの状態がそれを物語っていた。
手入れの為に定期的に忍び込んでいたならば、周囲と同じように埃が層になって降り積もってはいないだろう。トランクの周辺もしくはそこへ至る道筋ができていた筈だ。
生粋の貴族令嬢であったシーラにはシルクのドレスがどれほど繊細で細やかな手入れを施さなければあっという間に黄ばんで縮んでしまうことなど知りもしなかったのだろう。
「ふ……ふふっ。ふふふ」
ベスは笑いたかった訳ではなかった。笑いたくなる様な状況でもない。
けれど、笑うしかなかった。
頭と心がぐちゃぐちゃで、何故だか身体が痙攣したような笑いが出て止められなかった。
「ぷっ。ふふっ」
もしかしたらあまりの自分の滑稽さに笑い出したくなったのかもしれなかった。
笑うしかなかったのかもしれない。
良く晴れた空の下、廃屋寸前の邸の前で、襤褸切れと化したドレスを握りしめている。
しかもその襤褸切れは、自身がもうすぐ行なう結婚式で着るウェディングドレスなのだ。
「ふ……うっ、うううぅぅ」
笑いたくもないのに笑っていた筈なのに、視界がぼやけ滲んでいく。
気が付けば、手に握り締めたままのそれが、ベスの流した涙で湿っていた。
襤褸切れと化したドレスを、ぎゅうっと握りこんだままになってしまったベスの手に、柔らかくて温かなそれが重ねられた。
「いけないわ。もうすぐ花嫁さんになるっていうのに傷がついたらどうするの?」
聞き覚えのない声だった。落ち着いた、凛とした声。けれどベスの付き合いのあるミズ・メアリの声とも、アジメクの声とも違う。
どこか懐かしさを感じさせる優しい声。
「エレーナ、さま」
優しいその声は、疎遠になってしまった友の声だった。
やっとエレーナ様だせた。
皆さま、覚えてますか?
ベスが最初の婚約者を殴った時に一緒にいた
お友達の伯爵令嬢です。