1-9.窮状
9.
カラコロカラン。
今日も、母と娘ふたりしかいない筈の屋敷内で、執務室での作業に追われているベスは表玄関の呼び鈴が鳴らされたことに気が付いた。
真鍮製の呼び鈴は、初代インテバン男爵がこの地を拝領し、屋敷を建てた際に取り付けられた。それから代を重ねて家族が増えていくと、必要なだけ建て増しし続けられ、棟によって様式の違うちぐはぐな建物となり果てたが、今も同じその呼び鈴が正面玄関に取り付けられており、その涼やかな音で来客の訪問を教えてくれている。
「あら。……今日も、バード医師による訪問の予定はなかったかと思いますが?」
それ位の嫌味は許されるだろうと、ベスは少し意地悪く思いながら迎え入れる。
玄関先に立っている男が着ているのは、あの日のような喪服ではない。
けれど呼んでもいないのに押し掛けてくるなんて言語道断だ。
礼を失した態度には、それ相応の対応をしていかないといけないと今のベスは知っている。舐めた扱いをされるのは真っ平だった。
「失礼。すぐ近くで往診の依頼があったものですから」
「誰か、倒れたんですか?」
近くに住む領民が怪我や病気になったのなら話は別だ。
何か重篤な病状であり、それが例えば伝染性のものであるなら、領主館へ報告に来るのは当然である。
ベスは緊張した面持ちで、医師の言葉を待ちつつ、屋敷の中へと案内した。
「あぁ、大したことではありません。粉挽き屋のヨーゼフさんの腰痛が酷くなって動けないというので湿布と飲み薬を届けてきたんです。それで近くを通って……先日は奥様方のご心情を慮ることなく、失礼な言動をしてしまったもので。なにか奥様の病状への影響が出てしまっているのではないかと心配になりました」
妙に下手に出られてベスの居心地が悪くなった。
確かに、前回の訪問だって、ベスの気持ちに反するものではあったが、お悔やみを告げに来てくれたである。そこにある善意までは否定できるものではない。
そうして今、あの日の喧嘩腰の見送りや普段の会話を考えれば、勘ぐりたくなるほど下手にでた言葉を掛けられて、返答に詰まった。
「その……えぇ、ありがとうございます。母は二階の私室におりますわ」
にこやかな笑顔に押し切られるようにして、ベスは医師を母シーラのところへと案内した。
「奥様、ご機嫌は如何ですか?」
バード医師の明るい挨拶に、先ほどの癇癪が収まっていない母シーラが怒りを込めて叫んで返した。
「下がりなさい! 私は、先日の失礼な態度を忘れてなどいないわ。あんたなんかお呼びじゃないの。ここはこの地の領主たるインテバン男爵家の、その御屋敷で、私は男爵夫人なの。平民の医師ごときに勝手な振舞いをされて許す筋合いはないわ!」
シーラはその姿を隠すようにベッドの中へと身体を滑り込ませると、早く帰れとくぐもった声で罵った。
しかし、言われた当のバード医師は飄々としていて、恐れ入った様子など一切なかった。
それどころか、自身の立場について主張する有様だ。
「医療においては、爵位などまったく関係ありませんよ。患者は医師の指示に従う、それがこの国で定められたルールです。ましてや俺は、このインテ地方の医療を王国から任命されている正式な医師ですからね!」
「臨時でしかない癖に。偉そうにしないで」
バフっとベッドから勢いよく起き上がったシーラと、扉に身体を半分預けたふざけた態度で立っているバード医師が睨み合う。
果たして、その勝敗はというと。
「あぁ、やはり。これまでずっとシーラ男爵夫人に於かれましては、食生活の改善と運動療法が一番だと診断して参りました。だが、今日は違います。男爵夫人にはこの薬が必要です、今すぐにでも」
さっと取り出した薬を、傍にいたベスへと差し出す。
あまりに普段と違う対応に、半信半疑となりながらもそれを受け取ったベスに、バード医師は笑顔で「さぁ。その薬を飲みやすい煎じ薬にするコツを伝授しましょう。お台所をお借りしても?」と、ベスの腰に手を差し入れて、移動を促した。
「少々お待ちください、男爵夫人。すぐに心安らかな眠りをお約束しますよ」
「ちょっと!」
ぐいっ、と強引に腕を取られてベスは寝室から廊下へと連れ出された。
文句をいう間もなく、そのまま階下へと促された。
「台所をお借りしても? ご安心ください。場所は存じております。前回は、そこから入ってきたんでね!」
「まぁ!」
なんということだ。いくら気が動転していたとはいえ、確かに目の前の医師がいつの間にか母シーラの部屋の入り口に立っていたことを疑問に思う事すらしなかった。うっかりし過ぎていた。
反省は反省として、だからといって勝手に侵入して来たことに関してはきちんと抗議しなければ。
「困りますね、バード医師。幾らお医者様とはいえ他人の家に勝手に入ってくるのはよくありませんわ」
「ははっ。医師には必要があればカギを壊しても押し入る権利は認められていますが、お嬢様のお言葉については配慮しましょう」
まったく反省を見せずに異様にご機嫌な様子の医師の後ろで、ベスは不作法に鼻を鳴らした。
この医師にベス達への害意がないのは確かだが、だからといって、女ばかりの家に勝手に入ってくるなど、許せることではない。
国認定の医師であろうと、これ以上父の留守中であるインテバン男爵家の屋敷を勝手に振舞わさせるつもりはない。きちんと目を光らせておかねばと、ベスはぎゅっと両手を胸の前で組み合わせた。
バード医師は軽い足取りで手慣れた様子で水瓶から水を汲みだそうとして、そこがほとんど空であることに気が付いた。
ベスはきまりが悪くなって、視線を逸らした。朝から忙しくて、つい水を汲むのを忘れていたのだ。
そうして、今からこの医師の前で男爵令嬢たる自分が、普段からやっているように手慣れた様子で井戸の水を汲みにいくのも躊躇われた。
ベスが躊躇している間に、バード医師はそのまま先ほど勝手に入ってきたといっていた勝手口から出ていってしまった。
「帰られたのね。男爵家ともあろう屋敷にまるで使用人の気配がないことだけでも不審におもっただろうに、水瓶すら空なんて。呆れて出ていってしまったのね」
ホッとしてもいいような気がするのに、それ以上に恥辱の方がずっと上回って、ベスの頬が紅潮する。
仕方がないではないか。領民を飢えさせる位なら、男爵家の生活費など幾らでも切り詰める。それが我がインテバン男爵家の貴族としての矜持だと今は亡き祖父からは何度も言い聞かされてきた。現男爵である父テイトも賛同していたのだ。ベスがその意を継いでいくのは当然なのだ。
ベスが気を持ち直そうとなんとか自分を励まそうとしている間に、バード医師が慣れた様子で井戸から汲み上げた水で、桶を洗いあげていた。そうして桶を汲んだ水でいっぱいにすると、そのまま台所へと戻ってきて水瓶に注いでいく。
そうして再び桶を持って勝手口から出ていこうとしていた。
あっけにとられていたベスは、その後ろ姿に慌てて声を掛けた。
「あのっ」
そんなことまでされる必要はないと告げようとしたのに。
「あぁ、他になにか力仕事はありますか? 言って貰えればやりますよ」
初めて真面に見たバード医師の笑顔が弾ける。
捲り上げられて袖から覗く筋肉が盛り上がった腕の逞しさや、ベスなら半分も満たさない状態でも持ち上げることもできない桶を軽々と運んでくる力強さ。
それは、どれだけベスが望んでも手に入らなかった、男性であるという象徴だった。
『お前が男だったらなぁ』
亡くなった祖父から何度も聞かされた言葉だった。勉強や礼儀作法の家庭教師から褒められた言葉の後に必ず続くその言葉は、祖父や家庭教師からしてみれば誉め言葉のひとつであったのだろうと今は思う。しかし、幼いエリザベスには落胆の言葉としか受け取れなかった。
なによりも。男であったなら、母シーラから華のない容姿であると謗られることもなかっただろうか、と。




