3-29.裏口での立ち話
29.
それは、母シーラの為に厨房で生姜入りの甘い蜂蜜湯を作って貰い、「お嬢様私がお運びします」と声を掛ける侍女リリに「おかあさまは、私に持ってきて欲しいと仰るから」と断りを入れて、二階の母シーラの部屋へと戻ろうとしていた時のことだった。
階段を昇っている途中で、窓の外からなにやら声が聞こえてきた。
ふと覗いてみると、裏口の外にいたのはアジメクと下働きの少年セタだった。
どうやらセタはアジメクへ何かの報告に来ているらしい。
「午後には私が診療所へ向かうのに。マメで働き者ないい子ね」
ベスが女家庭教師から講義を受けている間の診療所での事務仕事を、孤児院の商会を受けたセタ少年にお願いして随分経つ。勿論、毎回引継ぎを受ける度に御礼を告げてはいるのだが、仕事中のことであり、ほんのひと言ふた言、感謝の言葉を告げるのみになっていた。
母シーラの為の生姜蜂蜜湯はそう簡単に冷めるものでもないし、むしろ沸騰した湯で作ってすぐなので、いつもより熱い位かもしれない。
茶菓子に用意したお菓子のひとつかふたつ、セタへ渡しても多分母は元々残すのだから構わないだろうと、ベスは茶器を廊下の飾り棚の端に乗せて、小盆の菓子をひとつ摘まみ上げ、ちょっと考えて盛り付け方を整えて結局三つ分の菓子を取り分け、ハンカチに包んで持ち帰ることができるようにした。
そうして、声がしていた裏口の方へと階段を下りて近づいていった。
「なーなー。あれさ、さすがにオジョーサマも気が付いたかな。あれで気付いてなかったら、それはそれでおもしれーけどさ」
厭な響きを持った少年の声に、裏口から出て行こうとしていたところだったベスは、その動きを止めた。
「お止めなさい。声に嘲りが滲んでますよ」
諫める声もおざなりであり、そこになんの熱も感じられない。
ただ止めなければいけないから止めたのだという色を感じて、ベスの指先が冷たくなった。
ヴァリアン侯爵家でのアジメクとの会話に仕方がないのだと頭では納得はしていても、ベスの心はまだ受け入れ切れていないのだ。
「だってさぁ、あのセンセイが来るようになって、もうひと月じゃんか。ようやく? って感じだよなぁ」
勿論そんな心の籠らない制止など物ともせずに、少年はケラケラと笑い声をあげた。
その声の主が誰なのか。信じられないという思いが胸に渦巻いて、ベスはその場に足が釘付けになった。
「それにしてもさ、オキゾクサマっていうのは本当にクソだよなぁ。だってあの女センセイって、あのヴァリアン侯爵家に婚約破棄を突きつけたっていう有名なあの人だろ? それなのに、侯爵家の息子の新しい婚約者に令嬢としての作法を教えろって、どんな罰ゲームだよ。ほんとヒドイ話だよな」
「おやめなさい」
「でもさ、ついに顔合わせてたじゃん。さすがに気が付いたよなぁ? くくくっ」
話している内に興奮してきたのだろうか。段々と声に遠慮が無くなり棘のある言葉を吐く少年に、ベスは耳を塞ぎたかった。いつも笑顔でベスの至らない部分を支え、街の事を教えてくれる少年の言葉だと信じたくない。これが本心だというならもうこれ以上知りたくなかった。だが、身体の芯が冷たくて指一本動かすことができない。
一緒に仕事をしている時の、あの感じのいい少年と同じ少年であるなど、信じたくなかった。
知りたくない。
確かめる勇気のないベスは、一向に動こうとしない足をそれでもじりじりと動かしていく。
このまま気付かれない内にこの場を後にして、どう対処するべきかはひとりでゆっくりと考えたかった。
ここで音を立ててしようと思ってした訳でもない勝手に聞こえてきた会話を知ってしまったのだと、気付かれてしまうのも怖かった。
盗み聞きなどしたくてした訳ではない。
むしろベスとしては知りたくもなかった。
「死んじゃった父親もダメな領主だったけどさ、あのオジョウサマが跡を継いだってダメだろうなー」
『!!!!』
へらへらと父を嘲笑う声に、ぎゅっと胸が苦しくなった。
まだ父は死んでいないと叫び言い返したかった。
確かに、こうして勉強をやり直してみれば、領主としての父の手腕に領民が不満を持っても仕方がないと分かっている。
それでも。いや、だからこそ、咽喉が詰まって声が出せなかった。
苦しくて、悲しくて。ベスはぎゅっと目を閉じた。
「セタ」
冷たい声が、その名を呼んだ。
あぁやはりと思う。ベスは今にも頽れそうだった。
全身から力が抜けていく。
そうして、だからこそ動かせるようになった足を、ベスはゆっくりと、ゆっくりと動かして、後退り始めることが出来るようになった。
会話が終わって、アジメクが邸の中へと戻ってくる前に立ち去らねばとベスは震える足を懸命に動かす。
飾り棚に残してきたティーセットのところまで、誰にも気づかれない内に一刻も早く戻って、母親のところへ届けなければいけないのだから。




