3-26.ガヴァネスの励まし
26.
そのまま、玄関先で待っていた馬車に乗り込むのかと思ったミズ・メアリがくるりと振り向いた。
そうして、ゆっくりと頭を下げる。
「私は、あなたを正しく導く為にも、もっと初期の段階で元婚約者の方のお話をするべきでした。あなたがまったく知らないとは思っていなかったのです。もっと早く心の交流を心掛けるべきでした。そうしたら、あなたを圧し潰す厭な重荷を取り除くお手伝いができたのに」
心の底から悔やんでいるように、ミズ・メアリが瞳を揺らした。
けれどもベスは、今で良かったと思っていた。
「いいえ。多分、講義を受け始めてすぐの頃の私であったなら、彼の話を聞かされそうになっただけで走って逃げていましたわ。もしくは、あなたの講義など受けないと拒否していたと思います」
だってずっとそうしてきたのだ。ベスの尊厳を踏みつぶし、踏み台にすることで愉悦に浸る元婚約者の嘲笑う声が頭の奥にこびり付いていたから。
母シーラの罵る声が、ベスのすべてを支配していたから。
けれども、今のベスには耳に痛い言葉も、自分に暗い影を落とすことになった元凶についての話を、緊張はしても平静を保って耳を傾ける余裕がある。
それは、他人からすればあまりにもちいさな一歩かもしれないが、ベスにとってはとても大きな一歩だった。
「申し訳ありませんでした。最初の頃の私の態度はあまり褒められたものではありませんでしたね。私達の未来を切り開いてくれた英雄が、しょぼくれた顔をしているなんて見ていたくなかったんです。でも、今はこの授業を引き受けて良かったと思いますわ。御恩が返せそうで、よかった」
それは、普段の女家庭教師がベスに見せる硬い表情とはまったく別物の、まるで花が開いたような柔らかな笑みだった。
「でも! あなたは私の生徒です。これからも甘やかすつもりはありませんし、むしろ感謝を籠めてこれからも厳しく鍛え上げるつもりなので御覚悟を。よろしくお願いしますわ」
チャーミングに、きっぱりと宣言する女家庭教師が眩しかった。
きっちりと一糸乱れぬようにきつく結い上げただけの髪でも。装飾の少ない地味なドレスでも。美しくあることはできるのだと、感嘆する。
「はい。ありがとうございます。これからもビシバシお願いしますね」
笑顔で応えられる自分が、ベスは嬉しかった。
あの時下した自分の選択は間違いばかりではなかったのだと教えて貰った今日という日を絶対に忘れないと誓う。
笑顔で見送ろうとした時、屋敷に馬車が一台入ってきた
「おや、先触れを出してもいないのに、婚約者殿がお迎えに出てくれているぞ!」
「まぁ、バード。お仕事お疲れ様。ごめんなさいね、午後はお仕事のお手伝いができると思うわ」
見せかけだけの婚約を頼まれた際にベスに任された仕事。予約や巡回診療の管理は、この婚姻話により勉強し直さなくてはならなくなったことで、そのほとんどの部分をセタに任せてしまっていた。
「あぁいいよ。セタは思いの外よくやってくれている。キミはキミに必要なことをするべきだ」
きっぱりといい切るバードの言葉が百パーセントが優しさや思いやりからくるものだったらいいのにとベスは思い、思った瞬間から頭を振ってその卑しい思いを振り払った。
情報収集や雑用を任せる為の小間使いとして雇い入れただけの筈だった少年は、世間の波に揉まれていただけあってベスよりもずっと口達者で、領民との仲もよく、なにより人の心を掴むのが上手かった。まだ14歳のセタの方がずっと、ベスがするよりも予約の調整も連絡も上手にこなしてしまうのだ。
幼い子供よりも仕事が遅いことにもベスは落ち込んでいたのだが、仕方がないのだ。セタがいてくれたからこそベスは勉強をする時間が取れるのだから。
「そうだ。時間が合わなくてまだ私の頼りになる女家庭教師を紹介できていなかったわね」
不作法にも紹介をする前に話し込んでしまったことに気が付いて、慌ててふたりを引き合わせる。
しかし、ベスがお互いの名前を教える前に、ベスの婚約者と、女家庭教師は気まずげにお互いの名前を口にしていた。




