3-14.その香りは甘く
14.
暴力という程のことではなかったが、それでも突然、思ってもいない方向へ向けて男性の力で押されたベスは、体勢を崩して転んでしまった。
恥ずかしさと痛みで、ベスは今すぐ泣き出したかった。
頬に血が集まり熱くなっていくのが分かる。
興奮してあれこれと見て回っていた母シーラすら、振り向いてベスの事を見ていた。
その場では、なんとか涙を堪えたものの、不作法にも床に尻もちをついてしまった自分があまりにも情けなく、ベスはへらへらと笑う事で周囲の呆れた視線から逃れようとした。
慌てて立ち上がろうとしたベスに、苦い顔をしたバードが手を差し出した。
「ありがとう」
小さな声で礼を言って、その手に縋って立ち上がろうとしたベスであったが、どうやら挫いてしまったようだ。
思わぬ痛みで立ち上がることができない。
(なんて、無様なの)
これ以上は我慢などできないと涙がこぼれそうになった瞬間、「チッ」とバードが舌打ちをした。
ベスの身体の奥底、芯の方が冷えていく。
我慢しきれなくなった涙が睫毛の先から零れ落ちそうになったところで、ベスはぐいっと力強く抱き上げられた。
「え、きゃっ!」
ベスの視線の先で、自身の靴先がゆらゆらと揺れていた。
引き上げられた気がしていたけれど、そのまま貧血を起こして、倒れそうになっているのかもしれない。
上下の感覚を失い、今の自分がどうなっているのか理解できなかったベスは、反射的に目をぎゅっと閉じた。
「ちゃんと腕を首の後ろへ廻すんだ。落ちるぞ」
そこへ、耳元で告げられたその言葉に従って素直に手を動かした。
「よし。いい子だ」
褒められ、ぐっと姿勢が安定した安心感に、ようやく呼吸ができるようになったベスが目を開ける。
その目の前に、男性らしい引き締まった顎のラインがある。
そこから、なにか嗅ぎなれない爽やかな香りが立ち昇っていて、ベスは無意識に鼻をすんと鳴らした。
両手は塞がっていたので、柔らかく香りが立ち昇るそこへと、鼻を近付ける。
ハーブと柑橘系の爽やかな香りの向こうにある、この香りの正体が、知りたくて堪らなくなったベスは、香りの元のすぐ近くへと寄っていく。
しばらくすんすんとそれを探っていたが、ようやくそれに思い至って声を上げた。
「あぁ、石榴なのね」
誘うように甘く香る仄かな香りがなんなのか。
記憶からそれを突き止めたベスは、その香りを思う存分吸い込んで堪能し、ゆっくりと息を整え微笑んだ。
「正解だ。だがね、愛しい婚約者の君。こんな大胆な真似をするの時は、次からはふたりきりの場所でだけにして欲しいね」
ベスの中で温められた呼気に首元を擽られたのか、ぶるりと身体を振るわせてバードがベスの耳元で囁いた。
弾かれたように顔を上げたベスのすぐ目の前には、まるで獲物に狙いを定めた肉食獣のように輝くバードの瞳があった。
「?! わ、わたしっ」
耳元へ囁いたといっても、ベスを抱えて足早に立ち去ろうとしているバードを縋るようにして追いかけてきていたバードの家族たちはすぐ後ろにいるのだ。
ベスの吐息にバードの逞しく広い背中がぶるりと震える所も、バードのベスへの囁きも、すべてがまるで見せびらかしているかのように目の前で披露されている。
ベスは、ただでさえはしたなくも揺れる足首を晒す真似になっている状態で行った自らの奇行に、思わず顔を伏せた。
勿論、その伏せた先にあるのは、顎から首に掛けてのバードの素肌。
肌の張りも。硬い筋肉の感触も。高い体温も。
筋肉質なせいだろうか。女性とはまったく違うし、研究室に籠ってばかりであった父の手とも違うがっしりとした男性らしい腕に守られて、ベスはじっとかたく目を閉じた。