3-10.奮起
10.
自室へ駆け込むとドアを後ろ手に閉めたベスは、そのまま床へと頽れていく。
持ってきてしまった濡れたタオルを口へ当てて両手で力いっぱい押し付けた。声が誰の耳にも届かないように。縋りつくように。声を潜めて、ベスは泣いた。
ベスには、マナーに関する応用が分からなかった。実践も足りなかった。
社交に関する絶対的な知識が足りない自分が恥ずかしかった。
ただの契約上の偽物の婚約者であった関係から始まり、男の意地で降りられなくなっただけの婚姻だ。プライドを守るためのもの。
最初から私という存在に価値を認めてのものではなかった。独身貴族で居続ける為の防波堤としての婚約者。爵位持ちで金に困っていて。扱い易いと判断されただけ。条件が良かった、それだけだったのに。
目の前で、横から突然現れた他の男にかっさらわれてしまうのが悔しかった。
だから手を伸ばした。それだけの結婚だ。
肩代わりして貰った借金を返す術もなく、壊れた古い屋敷に戻ることもできないでいるベスには、それを拒絶することはできない。
「わた……わ、たし、本当に、とことん駄目すぎね」
目に押し当てたタオルは、元々バードが雨に濡れた髪を拭いたもので湿り気を帯びていた。けれどすでにベスの涙でぐっしょりとしていた。
タオルを顔から離すと、その濡れた重さに笑いが出た。
目を閉じて顔を上に向け、大きく息を吐く。
「はぁ。……いい加減に泣き止まないと駄目よ、ベス。泣き止んで、ちゃんと偽物の婚約者としてお役に立たなくちゃ。できないなんて、駄目。許される事ではないの。散々お金を遣わせておいて、役に立てないって逃げ出すなんて。それこそ詐欺だわ」
ベスは、大叔父を名乗る男から莫大な借金の返済を告げられた頃の事を思い出して、視線をタオルへと落とした。
大叔父の振りをした詐欺師のことではない。今、ベスの頭の中を渦巻くのは、バードの事だった。
契約だけの婚約をしていただけの時のバードはユーモアがあって、とても優しくて、ベスにとって夢から現れたような理想の男性だった。
家へ侵入してきた詐欺師たちを撃退してくれた時は、物語のヒーローのようですらあった。
当たり前だ。
撃退した時はようやく契約上の婚約者として条件が合う物件を口説き落としたというのに、それを失う訳にはいかなかったからだろうし、その後の婚約者としての振る舞いは偽の婚約者だと疑われない為に必死だったのだろう。
ベスの頭の中で、ケイトリン夫人から言われた言葉がリフレインする。
『あの子がいきなり婚約をしたと報告してきた時、私たち家族は皆、偽装婚約だと思ったものよ』
あの言葉の通りでしかなかったのだろう。あの時のバードは、家族に周囲に、嘘だとバレない様に理想の婚約者を演じていただけ。
ただそれが、あまりにもベスにとっても魅力的過ぎた、それだけ。
決してベス自身の為にしていた行動ではないというのに。
だというのに。何度、ベスは「勘違いしないように」と自分へ言い聞かせなければならなかっただろう。
そうやって自重しなければ、愚かにも心を差し出しかねなかった。
差し出したとて、叩き返されることは間違いないというのに。
演技でしかなかった筈の婚約者。結婚したくないからこそ仕立て上げた偽物の婚約者と現実に婚姻を結ばなくてはならなくなったバードの怒りは如何ほどのものだろう。
かといって、あの場で伯爵位であるユーリに、表向きとしては正式に婚約を交わしていた相手を奪われるなど、侯爵家の人間であるバード……いいや、ヴァリアン侯爵家の人間であるウィズバードに受け入れられる筈がないのだ。
気分的には、バードこそ罠に嵌められた気分なのかもしれない。
「そうよ。駄目よ、ベス。せめて、バードの横に立って、恥ずかしくない人間になると決めたのでしょう?」
まだベスが努力を始めてたったひと月でしかない。元々、ベスだってそう簡単に結果が出るなど甘い考えていた訳ではない。
今回は付け焼刃の対応しかできないことも分かっていた。そう女性家庭教師から言われてもいた。
けれど、一番大事なところで失敗しておきながら、失敗したことにすら気が付くことができないような間抜けが努力したところで、正しく成功へと結び付くことなどできるのだろうか。
ベスには、自分が散々迷走して、余計馬鹿な事をしでかす未来しか見えなかった。
それでも、いつまでも頑是ない子供の様に泣いてぐずっている訳にはいかない。立ち上がらねば。与えられた見せかけの妻の役すらできないというなら、ベスは生きている価値などないのだ。
そう奮い立たせようとするものの、先ほどの呆れ切った表情をしてベスを批難したバードの記憶が、胸を突いた。
「……この先、いくら努力しても足りない部分をすべて埋めることなんか、できる気がしない。所詮、私には過ぎた役どころだったのだわ。あの人の妻としての役目を務めるなんて、偽物としてですら、私には無理だったんだわ」
ベスとしては、これでも相応しくありたいと努力してきたのだ。
ひと月前。ヴァリアン侯爵家での顔合わせをした春の終わりの、あの日から。




