3-9.アジメク
9.
「おかえりなさいませ、バード様」
激しい雨の降る中、仕事から帰ってきたバードを出迎えたベスは、濡れそぼったコートを受け取ったり、メイドから手渡されたタオルで濡れた髪から滴り落ちてきた水滴を押さえたり甲斐甲斐しく付き従う。
そうしている間に、「お茶会はどうだった?」と話を聞かれたベスは、喉の奥がきゅっと何かに括られたような息苦しさを思えた。
それを心の奥底に押し隠し、堪えてケイトリン夫人の心尽くしを伝えた。
そのつもりだった。
「美しい薔薇の咲くお庭でお茶を頂いていたのですが、雨粒が落ちて来てしまってそこで終わりに。本当は、御着替えが終わるまでお待ちしてからお屋敷を出るべきだったと思うのだけれど、夫人のお言葉に甘えて先に帰らせて頂けたのです。良かったわ。まさかこれほどの大雨になるなんて」
確かに茶会の終わり方には、苦い物を含んでいた。
けれど雨粒が落ちてくる前までは、インテバン領の未来を繋ぐ可能性ある素晴らしいものであった。ヴァリアン侯爵家のお茶会で採用される芽も出た。
実りのあるものであったのだ。そう告げようとしたベスに、バードの冷たい声が突き刺さった。
「は? 見送りも無しに帰ってきたというのか。……馬鹿にしているのか!」
だから、突然大きな声で叱られて身体を竦ませた。
「も、申し訳ありませっ」
ベスは反射的に頭を下げ、謝罪の言葉を口にしていた。
震え出そうとする身体に力を籠めて懸命に堪えようとするが、それでも既に視界は涙で揺れ始める。
やはり、招待して下さったケイトリン夫人にきちんと挨拶をしてから屋敷を出るべきだったのだ。
爵位に劣る男爵令嬢でしかないベスが、いくら侍従に勧められたからといって挨拶抜きで帰ってしまうなど不作法であったのだ。今更ながら恥じる気持ちがこみ上げる。
学園を卒業する前に暴力沙汰を起こして婚約を破棄することになり、社交界に出る前から爪弾きとされていたベスには、教科書にない通例というものが分からなかった。だから、こうして間違いを起こす。起こしてしまったのだと思うと情けなくて泣きたくなった。
けれど、ここでは泣きたくなかった。泣いて許して貰うのは何かが違うと思った。だからぎゅっと瞼を強く閉じた。
けれど堪え切れなかった涙が睫毛の先で揺れるのを感じて、ベスは自分が情けなくて仕方が無かった。
「くそっ。ちがう、いや、違わない。あぁ、クソッ。泣くな」
乱暴に髪を掻き混ぜながら苛立たし気に否定と肯定を交互に口にするバードの顔は恐ろしく歪んでみえて、動悸がしてくる。視界が回る。
ベスは濡れたタオルを抱きしめるように俯いたまま謝罪を繰り返していた。
「ごめんなさ……」
「もういい、やめろ。泣くな」
ベスの頬を大きな手の指がぐいぐいと擦っていく。それすらも普段のバードとは違って酷く乱暴な仕草だった。
(所詮、付け焼刃は付け焼刃でしか、ないんだわ)
中途半端に判ったつもりで、却って不作法なことを仕出かす。
自分という人間は、マナーの教師を付けて貰っても尚こうして不始末を冒してしまうのだ。挙句の果てに被害者のように泣いてしまったベスに、バードが苛立つのも当然だと思えた。
そう思うといくら涙を止めようとしても、ちっとも止まらないどころか、涙が一層溢れていく。
「大変申し訳ございませんでした。以後気を付けます。申し訳ありません」
バードの視線から逃れるように顔を俯ければ、ぱたぱたと溢れた涙がついに床へ落ちた。
既に雨で濡れていたそこに落ちていく涙はすぐに小さな水溜まりに吸い込まれて、どこにあったのかも分からなくなる。
ぐいっと手の甲で涙を拭いて、ベスは深く頭を下げると「お食事の準備ができているか聞いてきますね」と小走りで逃げ出していた。
その後ろから「あぁっ。くそっ」という声と共に、大きな「ガン」と壁を叩く音が聞こえてくる。
ベスは、自分が仕出かしてしまった失態から逃げるように、ともすれば縺れそうになる足に力を籠めて懸命に動かした。
小さくなっていくベスの後姿をバードは忸怩たる思いで見送ると、後ろで黙って控えていたアジメクを振り返る。
「おい。どうして母を諫めなかった」
射貫くように強い険を含んだ視線を向けられ他アジメクは、だがしかし全く動じていなかった。
「私はヴァリアン侯爵家の使用人です。大恩ある奥様の為さることに口を挟むなどできる訳がございません」
薄い笑顔を浮かべたまま答えるアジメクに、バードは思い切り顔を顰めた。
アジメクの給料は現在バードが支払っている。勿論アジメクはその事実を知っている。だがそれでも、アジメクはバードよりもヴァリアン侯爵家を取るという態度を崩さない。
バードにも、それは分かっていた。いざとなったらケイトリンの元へ戻るつもりなのだろうと分かっていたから余計腹立たしかった。
「今日一日の事、お前が知る限りについて教えろ。全部だ」
背を向けて自室へ戻るバードへ向けてアジメクは頭を下げるとすぐに姿勢を正して後を歩いていった。




