3-6.貴族令嬢として
6.
「その事に、自分で気が付けるなんて素晴らしいわ。人間、死ぬまで新しい事に気がついて勉強していけるものね」
それまでのどこか一線を引いた貴族らしい冷たい微笑ではない、柔らかな微笑みを浮かべてケイトリンはベスを見返していた。
その笑顔は、社交界をリードするヴァリアン侯爵家夫人としてのものではなかった。もっとずっとそれ以上に価値のあるモノに見えて、ベスの胸の奥がきゅうっとする。
赤くなっていく頬と高まる胸の鼓動に、ベスの口からは思わず否定が出た。
「あ、でも、それもこれも、 私だけでは気付けませんでした。バード……ウィズバード様に教えて戴くまでは、まったく」
ベスは自身の手を見下ろした。
何も持っていない手。貴族令嬢としては仕事を知っている手だと自分では思っていたけれど、市中で働く庶民の女性の手からしてみれば“お綺麗ですね”と言われてしまう手である。
力仕事で節くれだっている訳でもなく、爪の間に小麦粉や染料が詰まっている訳でもない。針を刺す為に角質化している訳でもない。
まっすぐで、染み一つない手だ。
「……ウィズバード様と婚約を交わして、『好きなだけドレスを買いなさい』と……支度金を戴いたのです」
「あら。我が莫迦息子にも甲斐性というものがあったのね」
目元を緩ませてその頬に片手を当てたケイトリンが、わざとらしく意地の悪い言葉を選んで揶揄する。けれどどこか愛情が滲んだ台詞に、ベスの緊張も弛んできていた。
つい、己の恥を吐露した。
「……それなのに、私はその戴いたお金で、……古着を揃えてしまって」
「…………まぁ。エリザベス嬢。それはいけません」
「ハイ、ウィズバード様に恥を掻かせる行為だったと、反省しております」
「そうね。そして、それだけではないと今は分かっている?」
「お恥ずかしながら、ウィズバード様に古着をすべて教会へ寄付されてしまっても分かりませんでした。でも、今はわかります。それも教えて戴きました」
自戒を込めて、口にする。
「……そう。いい勉強になったわね」
ケイトリンの中で、ベスに対する評価が変わった。
まっしろで何も知らないけれど、ひとつ教えれば自分で続きを知ろうと努力できる人間だ。
「はい。私は何も知らなかった。知ろうともしませんでした。領主としての仕事も、その領地を治める一族の女性としての仕事も。何も」
貴族の女性は一度着たドレスを二度は着ない。
それは別に財を誇るなどと言った見栄の為ばかりではない。
最新流行のドレスを、着古してしまう前に領地でチャリティに出す為だ。教会に寄付されれば丁寧にレースやリボン、ボタンが取り外されて、修道女や孤児院の子供たちの手習いの見本とされていく。また綺麗な布地をアクセントにした小物が大量に作り出されバザーで売り捌かれていき、貴重な運営費の元手となる。
チャリティバザーに出されれば、売り上げは教会へ、そしてドレスは領地の産業へ活気を促す手本となる。流行の参考にされるだけでなく、布地の織り方、染め方、刺繡、縫製など様々な情報がその一着から得られるのだ。
あらゆる技術が、庶民の憧れとして流通できるレベルまで簡素化されていき、また逆に、新たな技術を生み出す切っ掛けとなることもある。
つまり新しい文化の風なのだ。
古い技術は良い物もあるが、凝り固まった意識は冷えて固まり、地域産業を停滞させることもある。
地域を動かす風となること。それを領地へと呼び込むのが領主家の女性の役割だ。
「恥ずかしながら、憧れられることも務めなのだと知らずにこの歳まで来てしまいました。灰色掛かって地味な茶色い髪と瞳を持つさえない外見の私が着飾っても無駄。そう思っていたのですが……そうやって下を向いていてはいけないのだと。無理にでも胸を張って生きていくことが大切なのだと、教えて戴いたのです。他でもない、バード様に」
頬を染めつっかえながら告白するベスの様子に、ケイトリンの瞳がいたずらっぽく輝いた。
「あら、我が家の阿呆息子も少しは役に立っているようね」
「あっ、あの。その、とても……とても良くして頂いております」
真っ赤になって目を泳がせ、それでもきちんと頷いてみせる。
けれどそんなベスの頭の中にあるものは、婚約したて特有の、甘い惚気などではなかった。
契約婚約の見返りとして提供された素晴らしい暮らし。それまで知らなかった贅沢な遊興。豪華な贈り物の数々。優しく甘い言葉。
他人の目を晦ます為のものではあっても、そのどれもがベスには縁遠いものでしかなかった。夢みたそれらが星から降ってくるように浴びせられる毎日を過ごしてきた。
今はもう、ベスから一番遠くなりつつあるそれ等の記憶。
今の生活は、元から偽物でしかないのだと知っている身であっても辛い。
けれど、元のどこにも救いのない底なしの泥沼のようであった母とふたりの生活と比べれば、甘くて。甘い、けれど偽物だと知っているベスには泣き出したくなるほど苦かった。
偽物の、名ばかりの筈であった婚約を男のプライドから神を偽る婚姻へとする事をウィズバードが一人で決めてしまったあの日から、バードはベスの顔をきちんと見なくなった。
笑顔ひとつ与えられなくなり、話し掛けることも最低限の連絡事項のみ。
そうしてベスに許された言葉は「YES」ひとつだけだ。
緊張した様子で焦るベスの仕草はどこか庇護欲を誘うものであった。けれど、だからこそケイトリンの鼻についた。
「ふふ。ようやく私もあの子がなんでエリザベス嬢を選んだのか、分かった気がしたわ」




