1-5.苦悩
5.
街では、優しくてどんな貧乏人の訴えもきちんと聞き取って丁寧に治療してくれると人気があるらしいが、ベスにはこの臨時の医師が、どれだけ冷たい心を持った皮肉屋か知っている。もしかしたら貴族へ恨みでもあるのかもしれない。
普段は、このインテ地方よりずっと王都に近くてずっと人口も多くて栄えているヴァリ侯爵領の診療所で常駐医師として勤めているそうだが、着道楽なのか常に洒落た仕立ての白いシャツに、真っ白いジャケットを身に着けていることが多い。
しかしそういえば今日は漆黒の服だ、つまりは喪に服している、ということか。
やはり彼の頭の中では父テイトは完全に死んでいることになっているのだ。ベスたち家族の、父の命が助かっていて欲しいという願いを全く考慮しない容赦のない行為だ。
この医師は、街での「明るくて優しい」という評判とまったくの別人のように、いつだってベス達母娘にだけ冷たいのだ。この喪服だって、嫌がらせの可能性がある。
けれど、今、ベスを見つめる瞳は、普段のどこか馬鹿にしたようなありもしない裏を探るようなものではなかった。
その普段とは違ういたわりを感じる瞳に、ベスは、つい「なにか?」と声を掛けた。
「先ほど、こちらに伺う前にすれ違った馬車に乗った男とは、どのような御関係ですか?」
では、バード医師は大叔父の顔を見たのだ。そう思うと、先ほどの会話を聞かれた訳でもないのに、ベスは大きく動揺してしまった。
あれは、あまりにも不名誉で、あまりにも理不尽な対談だった。
だが、大叔父を名乗ったゲルスのあまりに堂々とした態度と口調に、押し流されるように翻弄されたベスには、きちんと疑問を呈することすらできなかった。
そう。今日はまだ昼過ぎだというのに、いろいろとあった。ありすぎたのだ。
だから、つい。
いつもは自分を……いえ、ベス達母娘を揶揄してばかりいる琥珀色の瞳が気遣わし気に見下ろしてくる様に、ベスは、つい、気弱になってしまったのだ。
つーっと、涙がひと雫、ベスの頬を流れ落ちる。
慌てて俯き涙を手で抑えると、ベスはバード医師に帰宅する旨、声を荒げて通告した。
「おかえりになってください」
「エリザベス嬢?」
「おかえりになって!」
顔を背けたまま、再び強い声で帰宅するよう重ねて告げると、バード医師は息を吐きだした後、ゆっくりとインテバン男爵家の寂れた邸宅を後にした。
去っていく、小さな馬車を見送る。
我が家に、父以外にも頼りになる男性がいたのなら、こんなことにはならなかっただろうか。
兄か、弟がいれば。せめて年上の従兄でもいい。
相談ができる親族がいれば、何かが違ったのだろう。
背ばかりが高くて、色気もない。すでに若さも失った。ついでに自信も。
教養と、令嬢らしからぬ家事に関してなら少しは自信があるけれど、婚約者を得て婚姻まで結べる気がベスにはまったくしなかった。
爵位はあるのに結婚できない女。
それが私、エリザベス・インテバンという女だ。
「あぁ違うわ。今なら借金付きね」
苦い声が出た。
領地の天候不順はようやく治まりつつある。
順当に雨も降るようになったし、乾ききった土地を水が滑って大水が出ることもなくなった。
これからは、苦しかった年月を埋めるように、領地の暮らしは良くなっていくものだと明るい未来が待っているものだと思っていた。
父からは、旱魃に強い麦を手に入れることもできたという朗報も届いたのに。
──まさか、同時にその父の訃報が届くなんて。
「いいえ、いいえ違うわ。おとうさまは、まだ死んでしまわれたと決まった訳ではないもの」
そう、自分で自分を慰める言葉を口にする。
その後ろで、バード医師が持ち込んだ、新しい情報が頭を過る。
『港と王都に、あの貿易船に乗船した乗客乗員名簿が届いたそうです。その中には確かにお父様であるテイト・インテバン男爵の名前が載っておいででした』
この一週間、なんでもいいから父に関する情報が欲しいとあれほどまでに願ってきたというのに。
教えられた情報の苦さを、今のベスには受け止めきれなかった。
頭にこびりつく忌まわしい言葉に唇を引き結んだ。
馬車の後ろ姿が全く見えなくなるまで睨みつけるようにして見送ると、ベスは振り返って、目の前に建つインテバン男爵家の古い屋敷を見上げた。
予算もなく美観に気を掛けることは出来ないけれど、雨漏りや窓枠が外れる度に、それに気付いた領民たちが自ら相談しあって材料を持ち寄り修繕してくれるので、建物が崩壊してしまうというような不名誉は免れている。
ただし、壁の漆喰の色は場所によって斑があるし、屋根を葺く石材も見えないけれど実はまるでモザイク画のごとき状況だ。
人によっては、この屋敷の現状に眉を顰めるかもしれない。
けれど、ベスはこの屋敷が好きだった。
このインテ地方に住む領民、ひとりひとりが、皆の事が大好きだった。
母からは愛ある言葉や態度を受け取った記憶は一切なかったが、父や使用人たち、そして領民からは溢れんばかりのそれを受け取ってきた自覚がベスにはあった。
──領地とインテバン男爵家にとって、一番いい方法を見つけなくてはならない。
たった一週間しか猶予は与えられなかった。
けれど、自分にできることがあるならば、どんなことでもしなくてはならないと、見上げた空に、エリザベスは誓いを立てた。
そのまましばらく動けなくなっていたベスは、一度、大きく息を吐いて家の中へと戻り、玄関の扉に鍵を掛けた。
今日はもう、誰の訪問も受け入れたくなかった。
そうして、意を決して階段へと足を掛ける。
未だ、己の寝室で咽喉も裂けよとばかりに嘆き叫び続けている母へ、さきほどの大叔父の言葉を告げなければと、お腹に力を込めた。




