2-17.忘れ去られた法律
17.
忘れ去られた法律とユーリは言ったが、ベスは勿論その法律を知っていた。
二度目の婚約が破棄された際に、どうにかしてインテバン男爵家を継ぐ方法を考えた時にそれを見つけた。ただしこの法律が成立したのはもう百年近く昔のことだ。最後に許可が下りたのも何十年も昔のことで、近年においてそれを認められた例は見つけられず、自身が該当するとも思えなかった為に申請することすらせずに諦めた。
なにより、ベスには第二夫人として受け入れてくれる相手も思いつかなかったからでもある。
「戦争が終わって久しく、男性の人口も増えた。けれど廃止にしてしまった後に復活させるのも面倒だとそのままにされているそうだよ。最後に適応されたのも何十年も昔だし、既に忘れられたような条項だから知っている人も少ない。実際に私も上司に相談するまで知らなかった」
ユーリがその切れ長の目を閉じて述懐する。
その口調には躊躇いも戸惑いも感じられず、正しい行いだと確信している響きがあった。
「でも……あぁ、ユーリ。でも、あなたには愛する奥様とお子様たちが……」
それでも、ベスには青天の霹靂の申し出でしかない。
あのベスの夢見た理想の家庭を、ベスの家の事情で壊すことになるなど天に逆らうほど恐ろしかった。
頭で理解するのと、心が納得するのは全然別物なのだ。今は理性から納得できた気がしても、実際にユーリの血の引く子供を他の女性(この場合はベスだ)が産んだとなれば、心穏やかでいられる筈がない。こればかりは貴族である矜持など虚勢を張っても意味はないのだ。
ベスの心は、一度しかお会いしたことのない美しいケインズ伯爵夫人への思いと、自身の背負うインテバン男爵家の跡取り娘としての重責の間で、荒れ狂う嵐の上の小舟のように激しく揺れ動いた。
運命という大きな波に襲われ人生が翻弄される。
「大丈夫だ。ちゃんと話し合ってきた。妻は受け入れてくれたよ」
安心させるように、ユーリがまっすぐにベスの瞳を見つめながら告げる。
「そんな……あぁ、でも。でも私……ユーリ」
胸の前で組んだ手を捩じり合わせるベスの横で、母シーラは期待に胸を膨らませていた。
輝く瞳で、娘エリザベスの前へと歩み寄っていったユーリ・ケインズ伯爵が跪く様を見守っていた。
「エリザベス・インテバン男爵令嬢。私の第二夫人になってくれますね?」
「良かったわね、エリザベス! ようやく貴女に相応しい男性が現れてくれたわ!」
ユーリのプロポーズに被せ気味にシーラが祝福の言葉を贈る。
けれど、ベスにはそれは呪いの言葉のように思えた。
「おかあさま。でも、私にはバードという婚約者が。きちんと教会にも認めて戴いた、正式な婚約者です」
震える声で否定する。
ベスには、これ以外の断り方をする勇気がなかった。
もし、ここで胸に芽生えたばかりの想いを告げたとしても、バードには手酷く撥ねつけられるだけだろう。
『好きになれない相手から寄せられる好意ほど迷惑な物はないね』
つい先ほど、馬車の中で聞かされたばかりの、バードの本音が胸に突き刺さる。
想いを告げて縋りつくなどしたら、バードはすぐさまベスから一番遠いところまで逃げ去っていくだろう。
それこそ、ベスとシーラに使った金の補填などどうでもいいとばかりに。
そんなことをさせる訳にはいかなかった。せめてきちんと補償だけはするべきだ。
できれば後継となる婚約者役を、ベスの手で見つけなければ。
けれど。……バードの横に立つ女性を探す手伝いをする?
そんな事がベスにできる訳がない。
伝手がどうとかいう話ではない。そんなこととは次元が違う。
胸の中で密やかに芽生え始めた今でさえ、想像するだけで胃の腑が捩れそうだというのに。
ベスは途方に暮れてガタガタと震える身体を持て余した。
しかし、そんなベスの震えの意味を正しく受け取れた人が、今ここにいる訳もない。特に、晴れやかな顔で言い切る母シーラには、絶対に分からない。
「大丈夫です。ケインズ伯爵がすべて取り計らって下さいます。貴女は伯爵の言葉に従っていればいいのです」
瞬間、理解した。
母シーラがこのところずっと心穏やかで、ベスにも優しく話をしてくれるようになった理由、それがバードの用意してくれたこの生活のお陰などではなかったことを。
ユーリ・ケインズ伯爵からの手紙を読み、この無茶で無謀な申し出を受けたからなのだと。




