1-31.虚しい婚約
31.
母シーラの目が覚めるまで、破落戸や王都から駆け付けた憲兵隊の足跡だらけになった城の内部を掃除しておくことにした。
そうしている内に、「何かあったんですか?」と様子を見に来てくれた領民達と共に、勝手口の修理について相談したベスは、結局、勝手口を使えないように閉鎖することに決めた。
裏庭にある井戸を使うのが不便になるのは仕方がない。母娘だけで暮らしていくにしても、不用心すぎて安心して眠ることすらできないのではどうしようもないのだから。
そうして、それを説得材料として母シーラに引っ越しを受け入れさせることにする、それがバードの立てていた計略だった。
「なるほどね。今すぐに引っ越しをする為には嘘の婚約が必要だと説明する訳ね」
「エリザベス嬢を説得した内容と話は一致するだろう? 嘘じゃないんだし、いいじゃないか」
確かにそうだ。ただ、引っ越しを受け入れる為の猶予期間が狭まっただけだ。
ここで受け入れなければ、母娘はこの防犯上かなり危険で井戸も使えない古い城に取り残されるだけだ。
母シーラに対して嘘の説明をするのは気が重いと感じていたベスだったが、事実そのものを説明するならできそうな気がした。
「でもまぁ、俺の知り合いには、それこそ御母堂を説得するための方便だということにさせて貰うさ」
嘘を吐くことをまったく悪びれずに告白するバードに、ベスは頭が痛くなったが、それを口に出すことはしなかった。
ベスが吐く嘘の種類と相手が減った。それが母シーラに対してなら、ベスになんの文句があるだろう。
「了解よ」
ベスが真面目な顔で頷くと、バードは満足そうに頷いた。
母シーラが目を覚ました。
それを知ったベスは、ついにバードとの婚約を説得しなくてはならないと緊張から手を握りしめた。
けれど、それはまったくの杞憂に終わった。
「こんな城にいつまでもいられないわ! あぁ、ベスなんとかしなさい! 引っ越すわ。一刻も早くよ!」
破落戸どもに取り囲まれて気絶した体験は、この17年間ベッドの中から指図をするだけの、この城の女王として君臨していた母シーラにとって、その自我が崩壊寸前に陥るほどの耐えがたい屈辱だったようだ。
ベスの説明にも最後まで聞き終えるまでもなく、バードが用意していた婚約証書に親としてのサインを書き入れた。
ただし、そのサインをする前に、インク壺から持ち上げたインクをたっぷりと吸ったペンをインク壺に戻して手を止めると、
「あくまで、安全な屋敷を確保する為の、一時的な契約としての婚約だと心しなさい。エリザベスに手を出す事だけは許す訳にはいかないわ」
インテバン男爵夫人として、威厳たっぷりにバードに告げた。
「はい。心しております。ただし、どんなところにも自分以外の者が利益を得ることに不満を持つ者はいます。あくまでこの婚約が契約としてだけのものだというのは御内密に御願いします」
そう、バードが従順に頭を下げて答えると、シーラは鷹揚に頷いてみせた。
「そうね。そういうところは、貴族でも平民でも関係ないものだわ。わかりました。あくまで内密ということにしましょう」
そうしてついに、エリザベス・インテバン男爵令嬢は、人生3度目の婚約を結んだ。
そうしてこの婚約も、決して婚姻には至らない。
ある意味、これまでベスが結んだ婚約の中で、最も花婿になる立場の者から、熱烈にベストの関係を求められたものであった。
けれど、この婚約はすでに破談が決まっている。
これまでで最も虚しい婚約だった。
※第一部完※




