1-18.信じていいの?
18.
「それにしても吃驚した。勝手口から黒い煙が上がっているのを見た時には、心臓が壊れるかと思った」
それはこちらのセリフだと、ベスは顔を赤く染めながら下を向いた。
手当と称して、今は椅子に座らされた状態で手や顔を細やかに確認されているところだった。
「失礼しました。スープを作っていたのですが、ついうたた寝をしてしまったようで……」
母シーラの横で縋るように甘えて眠ってしまったのだとまではベスには告白できなかった。
けれど、ベスの告白はバード医師の胸に強い何かを与えた。
「疲れていたんだな。当然か」
つ、と。額に張り付く髪を、耳に掛け直される。
そのまま頬に着いた煤を擦り取ろうとしたのか何度も撫でられた。
そうしてゆっくりと、顔の輪郭線をバード医師のがっしりとした太い指がそっと辿っていく。
「怪我がなくて良かった。火事にもならずに済んで、本当に良かった」
その声は震えていて、心の底から心配していてくれているようで、ベスの心はそのくすぐったさに身悶えした。
胃の上あたりがムズムズとして落ち着かない。
別に、バード医師は、医者の本分として怪我人や死人が出なかったことにホッとしているだけなのだろう。
熱く見つめる視線は、患者の状態を見間違わない為のものに違いない。
なのに、そこに違う意味合いを見つけ出そうとするなんて良くない行いだ。うぬぼれや不埒な考えをしてはいけないのだと、ベスは痺れたように熱くなってく自身を戒めた。
「そ、そういえば、先生は、何故こんな時間に?」
話題を逸らそうと、ベスは頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「あぁ。地元へ戻って婚約の件について家族へ報告しようと思ったんだ。そのついでに、未来の婚約者へ贈り物をと思ってね」
家族への報告と聞いて胸が跳ねた。
そうだ。母シーラだけではない。バード医師の家族も関係してくることなのだと思い当たると、契約だけの婚約とはいえ、その重さがずしりとベスの肩に圧し掛かってきた気がする。
「でも、まずは部屋の片付けをしてしまおう。こう焦げ臭い台所のままでは、どんな手間暇かけたご馳走を作ろうとも全部焦げた味に感じてしまう」
さりげなく手伝いを申し出てくれたバード医師の脱いだ外套が目に入ってドキリとした。
多分、あれが、ベスを熱湯の飛沫から守ってくれたのだ。
黒くて大きな上等な仕立てのそれに包まれて安心してしまったことを思い出し、ベスは再び身体が熱くなっていく感覚を覚えた。
それを頭を振って振りほどき、自身も腕まくりをした。
「助けて下さっただけでなく、お掃除まで手伝ってくださるのね? 素晴らしく完璧なヒーローだわ!」
できる限りの明るい声で、ベスは自身の胸の内がバレない様、少し茶化したように感謝を告げた。
「あはは。鍋にこびりついた焦げを擦り落とすヒーローか。新しいね!」
1階にある窓をすべて開けにいこうとしたベスの後ろから上がった笑い声に、ベスは今度こそ、その胸の奥に生まれてしまった熱を、自覚せずにはいられなかった。
「そうよ。ヒロインを、日常の、どんな苦しみや失敗からも救ってくれるヒーロー。最高よね」
呟いたその声が、彼に届いてしまいませんように。
ベスはそう願いながら、台所を後にした。
ようやく部屋から焦げ臭さを追い出せたのは、とっぷりと日が暮れてからのことだった。
「あぁ、よく働いた! 見てくれ、鍋もピカピカになったぞ」
自慢げに持ち上げられたそれは、使用人に暇を出してからのここ数年においてみたことがないほど綺麗に磨き上げられていた。
「すごいわ。私の手では……ダメなの。力が足りないのね。恥ずかしいわ」
実際には鍋を磨いている時間などベスにはなかった。食べ終わった食器類と一緒に、放置しないで洗うのが精一杯だ。
炊事洗濯清掃、そのどれもが男爵家とはいえ貴族令嬢が行うのは相応しいとはいえない事ばかりだが、今はそれを代わりにやってくれる人を雇うことはできないのだ。自らの手でやらねばならない。けれど、それを教えてくれる人もベスにはいなかった。
やらなくてはいけない事ばかりが降り積もるように貯まっていく。
けれど、ベス自身にそれを完璧にこなすだけの能力は足りなかった。それが悔しく恥ずかしかった。
「大丈夫。エリザベス嬢はよくやっている。頑張ってるさ」
ぽん、と俯くベスの頭に、大きな手が乗せられた。
そのままぐりぐりと、まるで子供を褒める様に撫でられる。
「おやめください。淑女にみだりに触られるなど、紳士がされることではありません!」
飛び退るように後ろへ一歩下がると、バード医師が、くくくと咽喉で笑った。
「淑女ね。いいじゃないか。俺達は婚約者だ。そうだろう?」




