1-14.悪魔か天使か
14.
「なにを馬鹿なことを」
慌てて席を立つと、その背でガタン、と音を立てて椅子が倒れた。
椅子を直したところで、思い立った。
「いけない。おかあさまを、上にひとりにしてしまったわ」
いきなり眠りについてしまった母シーラの事をすっかり忘れていた。怪我の手当ても済んだことだし、今すぐに様子を見に行かなければ。
いや、この馬鹿げた会話を続けないで済む方法として、思い出した母シーラの話題にベスが飛びついただけだ。
台所を飛び出したベスの後ろから、バード医師が着いてきて、あの馬鹿げた提案の続きを話した。
「馬鹿とは酷いな。安心して? これは契約の提案だ」
「そんな馬鹿げた会話に乗るつもりは無いと言っているんです。大体、母に与えた薬湯はなんなんです? 突然眠って、未だに起きないなんて」
今更だ、とベスは恥じた。
本来ならば母に飲ませる前に確認すべきことだったというのに。
これでバード医師が悪党ならば、母シーラへ毒液だって飲ませることに成功しただろう。
「心を落ち着けて眠りに入りやすくするものだ。薬というより民間で古くから愛用されている飲み物というべきかな。これを飲むと、少しの不安があってもよく眠れると評判らしい」
さらりとネタ晴らしをされて、一瞬、ベスは呆けた。
次の瞬間、声を出して笑ってしまった。
「では、あのトロミのある飲み物は甘いのね?」
「そりゃもう。飲むと体がポカポカしてきて朝までぐっすり間違いなしだ。なんなら君も今夜寝る前に飲んだらいい。なにより美味しいからね!」
放置していた母の飲み残したカップからは、ベスのよく知っている飲み物の香りがしていた。
生姜と蜂蜜そしてトウモロコシから取った澱粉を混ぜ合わせて作る、ベスも子供の頃から大好きな飲み物。
インテ地方では風邪の引き始めや冷え性の解消に効くとされているが、たしかに眠れぬ夜に飲むと、睡眠に入りやすい気がする。
ただし、庶民の間で好まれるものであり、幼いベスは作って貰ってよく飲んだが、母シーラが口にしたことは無かった気がする。
くすくすとした笑いが出てきて、ふたりで一緒に笑った後、一緒に天蓋を付け直し、インテバン男爵夫人の寝室を整えた。
「男爵夫人は不安から眠れてなかったんだろう。心の弱い方のようだからね」
まったく以ってその通りだが、そんなことは医者ではないベスにも分かっている事だ。
したり顔で講釈を垂れないで欲しいと恨めしく思う。
けれど、だからといって先ほど台所で交わした冗談を続けられるのもベスは真っ平だった。
だから素直に頭を下げて、「往診、ありがとうございました」と礼を述べたのだ。
そうして、
「ですが、もうこちらにはおいでにならないで下さい。私たちはもう屋敷を引き払いますし、多分ですが大叔父は、すぐに現金化しようとすると思うので」
寂しいけれど、それが現実だと思う。
令嬢としての矜持をかき集める様にして、ベスは張り付けた表情で医師との別れを告げた。
「嫌だね」
決意を込めて告げた言葉を、あっさりと拒否されて、ベスは一瞬呆けた。
けれど次の瞬間、彼は、次の住人の医療も担当するのだと思い当たる。
「そ、そうだったわね。次の住人の世話もしなければいけないかもしれないんだもの。来るなという資格も私にはなかったんだわ」
両手を慌てて顔の前で振る。
恥ずかしい。この家で診察を受けるのは自分たち家族だけだと思い込むなんて。
あと3日後には追い出されるというのに。男爵家の人間でいられるのもいつまでかはわからない。そんな人間の指図など拒否されて当然だ。
考えれば考えるほど羞恥に顔が赤くなっていく。
その手を、バード医師が両手で掴んだ。
「結婚が駄目なら仕方がない。エリザベス・インテバン男爵令嬢にふさわしい仕事と住む家の提供を提案する」




