1-12.刺さる
12.
「痛っ」
見落とした大きな破片を踏みぬいたのだろう。パキンと軽い音と共に弾けた破片が塵取りを持つ手に当たってしまったようだった。
ちいさな切り傷から赤い血が流れていく。
茫然とその様を見つめていると、いきなり誰かの手によって抱え上げられた。
そのままその場から強制的に移動させられる。
そのまま階下へと連れていかれて、台所で水瓶から汲んだ水で切り傷を洗い流された。
「大丈夫だ。傷は残らないから安心したまえ」
ポケットから引っ張り出したハンカチで応急的に傷口を押さえると、「優秀な医者である俺が保証してやる」と安心させようとしてくれているのか笑いかけられた。
「私に傷がつこうが誰も気にしません。だから、こんなちいさな切り傷に、綺麗なハンカチを汚す必要なんかなかったんです」
もうずっと、こんな小さな傷をつけた程度で誰かに心配されるとか、あまつさえ治療して貰うことなどなくなっていたベスは、叱られているというのに胸の奥がじんと熱くなっていった。
借りたハンカチに滲んでいく血を申し訳なく思うベスの言葉に、笑顔だったバード医師がその顔を曇らせた。
「馬鹿か。早急な処置は大切なんだ。破片が身体に残ってしまったらどうするつもりだ。血管を通って心臓へ到達することだってあるんだぞ? 救急箱は……そうだそれより俺の鞄を持ってくるからそこで待っていろ。動くな!」
いきなり頭ごなしに叱られたベスは、妙に泣きたくなった。
「……このまま、それが原因で死ぬのも、悪くないかもしれないわ」
医師が去っていった後に残されたベスの口から、弱気な言葉が洩れていく。
普段なら、絶対に誰対してもこんな言葉を聞かせることなどないベスの、ちいさく小さく呟かれた言葉が誰かの耳へと届いたのかどうか。
ただ、呟きと共にベスの瞳から流れていった涙を、つい、と太くてがっしりとした人指し指が拭った。
「ハンカチがあれば良かったんだが。すでに使っているから。こんなもので申し訳ない」
ひらひらと手を振ってお道化る。
励ますように、慰めるように。
ベスの頬のすぐ近くで囁かれた言葉に、ベスの涙は再び流れていく。
その間に、医師は黙って怪我の手当てをしてくれた。
そうしてその涙は、しばらく止めどなく流れ続けた。
ようやくベスが落ち着きを取り戻した時、ベスの前には香りのよい紅茶が置かれていた。
「勝手に使わせて貰ったよ」
台所の粗末な木のテーブルに並んで座っているのは勿論バード医師だ。
ベスの前に置かれた、温かな紅茶を淹れてくれたのも。
「ごめんなさい。みっともないところをお見せしてしまったわ」
あたたかなカップに口を付け、それを口に含む。それはいつも自分で飲んでいる茶葉である筈なのに、まったく違う紅茶のようで目を見張る。
淹れる人の好みもあるのだろうが、湯の温度や蒸らすタイミングで味わいは変わるというけれど、それにしても違い過ぎるとベスは首を傾げた。
違いすぎるけれど、どこか懐かしくもある。
それがなんなのか知りたくて、答えを探す様にぼうっと辺りへ視線を彷徨わせた。
「ごめん。洗い物を増やしてしまうことは分かっていたけど、ちゃんと美味しく飲んで欲しかったからポットを二つ使わせて貰った」
バード医師の言葉に流し台へと視線を移すと、そこには確かに丸いポットが置かれていた。
テーブルの上にはコゼーが掛けられた背の高いポットが、サーバーとして置かれている。
なるほど。紅茶を淹れるポットとは別に、温めておいたサーバーに最後の一滴まで注ぎ入れてからカップへ注いだのか。
「この淹れ方、久しぶり」
王都にある王立学園に通っていた頃、先輩から教えられた淹れ方だった。
ゴールデンドロップと言われる最後の一滴をみんなで共に味わえる最高の振舞い方だ。
ベスとしてはゴールデンドロップ自体は渋味が強くて苦手だったが、こうして均一にしてからなら渋味よりもその深みのある味わいを強く感じられるので好きだった。
それに、こんな贅沢な紅茶の飲み方をするのは、どれだけ久しぶりのことだろう。
使用人が減って、毎日家事や領地の仕事で時間に追われ、紅茶は咽喉を潤すだけのものになっていた。ここ最近は母に淹れた残りの紅茶をすっかり冷めてから啜ることも多い。
紅茶は、本当はこんなにも心を豊かにしてくれる飲み物なのに。
ほぅっと、ため息ではなく満足から息を吐いたのも、ベスにとっては本当に久しぶりのことだ。
「……おいしい」
もうひと口味わうと、自然と表情が綻んだ。




