1-10.救いの手
10.
「エリザベス嬢?」
──至近距離で顔を覗き込まれている。
それに気が付いて慌てて後ろへ下がった拍子に、作業台に腰を強か打ち付けてしまい痛みに声が出なくなった。
嘘だ。
本当は、初めて間近にしたバード医師の整った顔と、男性的なコロンのスパイシーな香りに動転してしまっただけだった。
キリリとした直線的な眉の下にある、涼やかな切れ長の目、引き締まった口元、平凡極まりないエリザベスなどよりもずっと貴族的な頬骨の高い美しい顔のライン。
そのすべてが神の采配を感じさせる完璧な配置がなされている。街の女性たちの間で人気があるのも当然だろう。
なにより、父以外の男性と、これほど近くに立った記憶は学生時代の男爵令嬢たるエリザベス・インテバンにも今の冴えない家事手伝いでしかないベスにもなかった。
「大丈夫ですか? どこか痛むところが?」
温かな手がベスのちいさな手を包んだ。
骨格の大きさ、がっしりとした骨の太さをその手に感じ取って、慌てて手を引っ込めようとしたが、ベスの非力な抵抗などまったく意を介さないようだ。
「あぁ、そんな慌てないで。大丈夫ですよ。こんな場所で患部を見せろなどと迫るつもりはありませんから」
くくく、と喉奥で笑われながら手を離された。
「し、失礼ですわ! 強引に押し掛けてきた挙句にこんな……こんな」
つい、令嬢らしからぬ声を荒げてまで何を言おうとしたのか。ベスは自分で言葉の続きに迷ってしまって、それ以上続けれずに顔を背けた。
取り返した手と、頬が、熱くてベスはもう目を開けている事すら難しかった。
「”こんな”? 落ち着いてください。俺は、ご令嬢には辛い力仕事を引き受けると申し出ただけです。あなたの力になりたい、それだけです」
そうだろうか、とベスは熱くなる頬を見られないよう顔を背けたまま考えた。
確かに、戻ってきてからのバード医師の行動は模範的とまでは言えなくとも、紳士的ではあったように思う。
常なら言い争うシーラに対しても、初めてその病状を認め薬の処方までしてくれた。そして薬の効果を高める煎じ方を教えてくれると申し出てくれて、水瓶が空だと知って、水汲みまで率先してやってくれたのだ。
他に使用人の姿がないことに気が付いて、更なる手出しについて口を出したことについては、正直、そこまで我が男爵家の恥の部分に踏み入れないで欲しいと思わなくもなかったが、けれどそこに紳士的な善意以外を見つけ出すのは、捻くれすぎというものかもしれない。
「ごめんなさい。今朝から少し……、いろいろあったものだから」
ベスは自分の非を認めて頭を下げることにした。
せっかく友好的な態度を取ってくれたバード医師にまで意地を張って喧嘩腰となるのはそれこそ貴族令嬢としての矜持に関わる。
「お気になさらず。お父様の件だけでも大変でしょう。それが頼りにすべき御母堂があれでは……無理はしないで欲しいんです。俺に何かできることがあるなら、どうか」
「ばーど、医師」
つ、と視線を上げれば、ベスの事を心から気に掛けているのだとでもいうように、琥珀色の瞳がまっすぐに見つめていた。
すぐ近くから見上げているからだろうか。それとも医師が瞳に力を入れているのだろうか。瞳の色は琥珀ではなく金の色に見えた。
そうしてその中に、真っ赤な顔をしたベスが映り込んでいる。
「……っ」
その時、ガシャンと派手な音が階上で響いた。誰かが暴れる気配がする。
──誰かって? 母シーラ以外に誰がいるというのだろう。
先ほどとは違う種類の羞恥に頬が染まっていく。
自分は何を考えてしまったのだろうか。
父の所在が不明となった今、インテバン男爵家の跡取り娘としてより一層心を強く持ち、行動を起こさなければならないというのに。
「あぁ。そうでした。まずは男爵夫人への薬の処方を優先しなくてはいけませんでしたね」
満杯になった水瓶から汲んだ水を小鍋にとり、先ほどの薬瓶の中身を鍋へスプーンで計って入れると、ゆっくりと掻き混ぜながら火にかけた。
ゆるゆると湯気が立ち昇った程度で、鍋を火から下ろして更に掻き混ぜていく。
その手付きには迷いが一切なく、流れるような美しい所作をしていた。
この医師は、きちんとした作法を教えられた貴族家の人なのかしら。
医療大学校は、貴族の方が多いけれど少なからず庶民でも進学する人はいる。成績優秀だと認められて領主の推薦を受けた者がほとんどだけれど、最近は大きな商家の親族からも医師を志すものは出ているという。そういった人達も確かに礼儀作法の授業は受けるのだろうけれど、生まれついてからずっと教え込まれてきている貴族籍にあるものとの差は一目瞭然というものだ。
自らを俺と称し、ガサツな言葉で母シーラと応戦する様子しか知らなかった医師の新たな一面を、ベスは発見したような気がした。
「掻き混ぜながら冷ましていくとトロミが出てくるんです。冷たくなる前に美味しく召し上がって貰いましょうか」
薬なのに? そんな疑問は浮かんだものの、自信ありげに薬湯の入ったティーカップを乗せた盆を掲げて寝室まで戻っていく医師の後ろを追いかける。
寝室に向かって階段を上っていく間も響いてくる、母シーラが癇癪を持てあまして部屋で暴れる気配に、まだ見ぬ寝室の惨状を想像してベスはその表情をいっそう沈鬱なものとして眉を落とした。




