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1話 憧れの女性・神宮寺さん

 

 5月のまだ少し肌寒い早朝に、僕は運動が得意なタイプでもないのにランニングをしている。

 部活も入っておらず、なんらかのスポーツをしている訳でもない。

 男子高校生としては身体が小さく、『かっこいい』ではなく『かわいい』と言われることが多いけれど、悲しいことにその見た目通り体力がなかった。


「はぁ、はぁ」


 ひとしきり走った後、僕のマンションまであとわずかのところまで帰ってきた。

 両ひざに手をついて息を整える。

 息の乱れが落ち着いてきたころに、左腕を前に掲げて腕時計の時刻を確認した。

 6時18分だ。まだ少し早い。

 

 自宅は目の先だけれど、右を向いて方向を変えた。

 体力はあまり残っていない。走る速度は非常にゆっくりで、早歩きと同じぐらいだ。

 

 本来ならば、もう家に戻るべきなのだろう。

 でも僕には6時30分まで時間をつぶす必要がある。

 早すぎても、遅すぎてもダメだ。

 時間を調整するために、疲れた身体に鞭打って走り続けるのであった。

 

 毎朝、学校に行く前や仕事に行く前にランニングをしている人たちがいる。

 彼らはどんな理由で続けているのだろう。

 毎朝走り続けることは簡単じゃない。まず眠気に打ち勝つだけで困難だし、根気も体力も必要になってくる。

 きっと様々な理由があるだろう。健康のため、痩せるため、体力をつけるため、リフレッシュのため。一つだけではなく、複数の目的で走っている者もいるだろう。

 

 運動音痴の僕が一か月前にランニングを始めた切っ掛けも健康のためだ。

 一か月前、このマンションに引っ越してきたのを機に、早朝ランニングを始めた。

 だが健康のためだけなら、きっと3日坊主になっていただろう。

 今でもわざわざランニングを続けている理由を一言で言い表すのなら――下心だ。

 

 

 

    ◆

 

 

 1階でエレベーターを待ちながら、首にかけていたタオルで汗を拭った。

 エレベーターが止まると、眠たそうな顔をしたサラリーマンが出てくる。

 名前は確か……山田さんだ。

 山田さんは目が合うと苛立たし気に舌を打ちながら、隣を通り過ぎていった。

 彼からすると、呑気に遊んでいる高校生に見えて腹が立つのだろう。

 間違っていない。必死に働いている大人たちとは違い、僕はまだ子どもの身分を享受している。反論する権利はない。

 

 疲れた社会人は山田さんだけではない。僕のマンションには、山田さんのような人が多く住んでいる。

 築10年の15階建てのマンションは、駅が近く、電車一本でオフィス街まで行ける上、値段も手ごろなため、一人暮らしの社会人に人気の物件だ。オートロックで防犯もしっかりしてる上、エントランスには宅配ボックスもついており、空きが出ればすぐに埋まってしまう。

 

 僕はエレベーターに乗りながら、このマンションに住む、働く人たちに思いを馳せた。

 元気のない人たちばかりだ。顔には疲れがたまっていて目には覇気がない。それでも文句を言わずに毎日出勤する。

 まさに社畜と評するべき姿は少し哀れに感じる。

 同じマンションに住む者として、なんとかして力になってあげたいと思わずにはいられない。

 

 でも取柄のない僕が山田さんたちにしてあげられることは何もない。

 彼らより、僕はずっとくだらない存在だ。

 何もできない自分自身に落ち込んでいると、エレベーターが最上階に到着した。

 到着をつげる電子音とともに、山田さんたちのことはすっかり頭から消え去った。

 

 エレベーターから踊り場に出るやいなや、風が身体をうちつける。

 15階の高さにもなると、風はかなり強くなる。

 高いところが苦手な僕にとっては、恐怖を感じる風だけど、身体が火照っている今だけは心地よく思える。

 

 再度、腕時計を確認した。6時30分ジャストだ。

 気合を入れて、自分の部屋である1505号室に向かって歩き始めた。

 

 カチャリ。

 意識を集中させていた僕は、玄関扉のドアノブの回る音を拾う。

 よし!

 手を握り、小さくガッツポーズをとった。

 そして僕が住む1505号室――ではなく、その隣の1506号室の扉が開く。

 ゆっくりと開いた扉の向こうから、一人の長髪の女性が姿を現した。


 彼女の名前は神宮寺桜子――神宮寺さんは超がつくほどの美人だ。

 女子アナウンサーや女優と言われても驚かない。

 整った顔立ちに、細見の長身で、それでいて巨乳である。世の男たちの視線を釘付けにしていることだろう。

 ビシッと決めたスーツ姿が様になっている。

 いつもしっかりアイロンをあてているのだろう。汚れや皺のないスーツを身にまとっていて、いかにも仕事ができそうといった雰囲気だ。

 ジャケットの下に着ている白シャツは、胸のボタンがはじけとぶのではないかと心配になるほどに、ふたつの膨らみが主張している。

 神宮寺さんは僕に気が付くと、強い眼差しを向けながら挨拶した。

 

「おはよう」

 

 僕も男だ。彼女の綺麗な顔や大きな胸は魅力的に思う。

 だけど特に印象的なのは彼女の目だ。

 パッチリとした二重で大きい瞳。その瞳には、彼女自身の力強さを表すかのように、強い意志が宿っている。

 きっと己の目指すべき道がはっきりと分かっているのだろう。夢や目標に向かって邁進しているに違いない。

 輝く瞳と目が合って、僕は動揺してしまう。

 

「あっ……おはようございます」

 

 挙動不審な僕を気にした様子もなく、エレベータへと歩いていった。

 背筋をのばして颯爽と歩く後ろ姿はとても美しい。

 神宮寺さんとは挨拶を交わす程度の仲で、ほとんど喋ったことはない。

 でも気品のあるその姿を見るだけで、尊敬すべき人だと分かる。

 

 相変わらず神宮寺さんは美しい。

 彼女の後姿ろ姿を眺めながら、今日も早朝ランニングをした甲斐があったと満足する。

 僕は下心で――つまり、神宮寺さんとあいさつを交わすために早朝ランニングをしているのだ。

 

 1か月前に思い立って、健康のためにランニングを始めたとき、初めて彼女と出会った。

 そのとき、僕とは正反対の輝かしい姿にひとめぼれをした。

 もう一度会うのは簡単だった。神宮寺さんが毎朝決まった時間に出勤していたため、僕は毎朝同じ時間に、ランニングから戻るようにしたのであった。

 

 僕は誰にも必要とされず、なにもなく生きているだけのつまらない毎日を送っている。僕の日々は色あせている。

 でも神宮寺さんとすれ違う、ほんの一瞬。

 その一瞬が、平凡で退屈な、色あせた世界に、煌びやかな彩りを与えてくれる。

 毎朝、神宮寺さんとあいさつを交わすことは僕の生きがいと言っていいだろう。

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