星落としの歌と密猟者
「ぎゃ?!」
いきなり背後から掴み上げられ、アンティは思わず踏みつけられた雷鳥のような声を上げてしまった。
咄嗟に猟の際に使う攻撃魔術を転用して拘束を逃れ、そのまま逃げ出そうとしたところで、再び腰に回された手に捕まってしまう。
「…………っ、」
頭に来て拘束犯を蹴り上げたところ、苦痛と言うよりは驚きに小さく息を飲むような声が聞こえた。
それが誰のものかに気付き、アンティは蒼白になる。
(……………まさか。…………まさかそんな)
ぞっとして振り返ると、割れそうな程に澄んだ水色の宝石のような瞳があった。
いつもは冷淡で静謐な瞳がなぜか呆然と見開かれていて、アンティは、こんな時なのになんて綺麗なのだろうと、無防備なその瞳を覗き込んでしまう。
暫し無言で見つめ合ってから我に返りひゅっと息を飲んだところで、呪縛のような繋がりがぷつんと切れる。
(……………こ、この体勢を変えないと!)
やっと正常な思考が戻ってきて、まずはそこに尽力した。
後ろから抱き込まれるような体勢のハルヴェールの胸に背中がぴったりとくっついた状態では、こちらの動悸までが伝わりそうであるし、彼の表情を確かめながらの手探り会話が出来ない。
まずは何とか、真っ当な会話が成り立つ体勢にならなければだ。
せめてと、腰に手を回された状態でも向き合って話せるように体を捻れば、ハルヴェールはアンティが逃げないようにしたものか、素早く捕獲方法を変えた。
一度手が離れたので思わず距離を取ろうと一歩下がれば、今度はしっかりと両手で囲い込まれ、アンティの体ががくんと揺れる。
今度は正面からハルヴェールの腕の中で彼を見上げたが、さっきより会話はし易いとは言え、あまり宜しくない体勢な気がしてならない。
(ち、近い!……………近過ぎてちょっぴり吐きそう!!)
アンティは一人上手だ。
家族とさえ、こんな体勢でお喋りを続けた事はない。
「……………歌っていたのはお前か」
「…………不出来な歌で申し訳ありません」
(……………歌?)
思ってもいなかった問いかけに、ハルヴェールの質問を理解するのに、少しだけ時間がかかった。
おまけに、こんな状況になると、人間はついつい本能が前に出てしまうらしい。
さすがにもう反撃はしなかったが、無意識に手足をばたばたさせてしまい、ハルヴェールと目が合うと、またさあっと青ざめた。
とは言え、ハルヴェールが手を離してくれるのなら、一目散に逃走する所存だ。
ちっぽけな人間にも危機管理という運用があるので、それは譲れない。
(もしかして、私の歌声が聞こえたことに腹を立てて、断罪しに来たの…………?!)
だとしても、鼻歌程度のものだったのにこの仕打ちはあんまりではないか。
だが、理不尽さに腹を立てようにも、この手を離してくれない事には元手となる命を保全出来そうにない。
大混乱の思考を組み立て直し、少しでも状況を緩和する為の返答を探した。
だが、その間にもハルヴェールの言葉は続いている。
「先程の魔術の系譜……………。そう言えばお前は、ラズィルの隣国から来たと話していたが………」
「…………よ、呼び落とされた弊害か、あまりその頃の事は覚えておらず………」
「ほお?その割には魔術の扱いは手慣れているな」
「とても簡単なものです。恐らく、慣れ親しんだものなので体が覚えていたのでしょう」
「お前の使う修復の魔術は、修復を司る魔物が滅びたこの時代には、現存しないものだ。純粋な修復の系譜の魔術を持つ者は、あの当時ですら少なかった。ラズィルでも、それを息をするように扱えた者は二人しかいなかったと言われている」
「…………え?」
「アルティーファ」
「……………っ、」
その呼びかけに、心がびりびりと震える。
呆然と見上げた先で、心内を窺わせない眼差しで、ハルヴェールがこちらを見ていた。
もしアンティが彼を知らなかったら、その表情はどこかひたむきにも見えただろう。
けれどもその時のアンティは、それどころではなかった。
(……………どうしてあなたが、私の名前を知っているの?)
それは、アンティが手放した名前だ。
きっとこの名前など知らずに断罪したのであろうハルヴェールに、偶然にでも処刑の日に知られてしまわないよう、地下牢で壊したもの。
修復の魔術を逆さに辿り、自分の名前を手放す作業は、アンティが己の心を守る為に行った、あの時代で成し遂げた唯一の呪いである。
両親が名付け、愛情を込めてくれた名前と、名付けの際に名前に与えられた祝福と共に、胸が潰れるような思いで全てを砕いた。
それでもいい、どうせ明日には死ぬのだ。
あなたになど、私の名前を呼ばせるものか。
あの時のアンティは怒り狂っていて、多分それは癇癪だったのだと思う。
そして同時に、死者になった後で使役されては堪らないという、講じておかねばならない安全策でもあった。
だから、その名前はあの場所から消してきた。
もうどこにも、残っていなかった筈なのだ。
今のアンティという名前は、万が一処刑時に宣誓などが求められた場合を見越し、愛称として通用するようなものをと自分で考えた通り名だ。
生まれ育ったラズィルの国境域では、未確認の来訪者や越境者をアンティと呼ぶ。
なんともお誂え向きの名前ではないか。
「お前だな」
「……………何を仰っているのでしょう。その、拙い歌声でお耳汚しをしました。どうかお許し…」
「名前を捨てまでして、全ての繋がりを絶ったのか。…………あの牢獄から逃げ出す為に」
「っ、………!!」
そんな理由なものかと叫びかけ、アンティはぐっと言葉を飲み込んだ。
強張る表情を動かしてにっこり微笑み、けれども、どうしてこんな目に遭っているのだろうと困っている様子を演出する。
「ハルヴェール様?」
「成る程、あの場から逃げ果せただけの狡猾さはある。……………まさか、ここにいるとはな」
「え、………」
囁くような言葉があまりにも苦しげで、思わず目を瞠ってしまい、アンティはぎくりとして自分の口を両手で押さえた。
いつもの朝よりは暗い霧雨の庭園の中で光を孕むような水色の瞳がくらりと揺れ、ひび割れるように翳る。
「お前は、アルティーファだ。…………俺が剣でなぎ払い、床に跪かせて殺せと命じたあの女だ。…………そうだろう?」
「…………ハルヴェール様、それは私の名前ではありません。それに、………仮にもし、…………私がそのような立場であったのなら、その問いかけに是として頷くでしょうか」
「頷かないだろうな。…………俺に繋がる名前を捨てたお前ならば。…………もっとも、あの国の人間共にかけられた呪いが今も残るのなら、その名前を呼んだところで、俺はお前を認識出来はしなかっただろうが」
「呪い…………?」
頭の中では、早くこの会話を打ち切れという声が鳴り響いていた。
話せば話すほど、そしてこの瞳から目が逸らせなくなればなる程、アンティの新しい生活は遠ざかる。
やっと振り切ったのだ。
胸の痛みや失望がこれまでの足跡に星屑のように散らばっていても、それでも、残された時間はせめて自分の為に生きるのだとやっと思えたのに。
ぱたんと、滴が落ちた。
ハルヴェールの髪を濡らしている柔らかな晩秋の雨が、青々とした庭木の枝葉の色を映した滴になって顎先から滴り落ちる。
精緻にカットされた宝石のように冷たく近寄り難かった竜の王が、雨除けの魔術すら使っていない事に、アンティはぎょっとしてしまった。
どうしてだか雨に濡れているハルヴェールが可哀想になってしまい、無意識にその濡れた髪に触れようと手を伸ばしかけて、はっとして動きを止める。
(まだハルヴェールは、私に直接触れていない……………)
その手には、終ぞ外すところを見られなかった手袋が嵌められており、彼はまだ、アンティが自分の竜の宝だという確証を得てはいない筈だ。
けれども、ここでアンティが彼に触れれば終わる。
そのたった一つの事で、全てが詳らかになってしまう。
ハルヴェールに殺されるアンティがそれを思い知ればいいと思っていたあの頃は違い、ハルヴェールへの執着を捨ててどこかへ行こうと決めた今のアンティには、由々しき事態だった。
「呪いが気になるか。……………ふむ」
「いえ、別に結構で…」
「そうだな。お前にとっても無縁ではない事だ。話しておくとしよう」
「むぐぐ………」
ハルヴェールは、先程のアンティの反芻を聞き逃しはしなかったようだ。
何か別の言葉を選びかけていたのを止めると、アンティが投げかけた問いの説明こそを優先する事にしたのだろう。
そんな心の動きが見えてしまった事に慄いて、アンティは目を瞬いた。
ハルヴェールの瞳に、その心が映された事に驚いたのだ。
「ラズィルの後宮に集められた女達が、その呪いを編んだ。俺に供物として捧げられた女達は、国の信仰を司る者に捧げられ、寵を得られるとでも思っていたのだろう。それを与えられない事を呪い、そんなもので手懐けようとされた事に激昂した俺に殺されて祟りものになった。……………そして、俺に、竜の宝を見付けられない呪いをかけた」
「…………そんな馬鹿な。竜の王に、………例え、死者や祟りものであっても、人間ごときがそんな呪いをかけられる筈がありません」
アンティの言葉に、ハルヴェールは、小さく歪んだ微笑みを浮かべただろうか。
頬を濡らした霧雨に綺麗な水色の瞳が溶けてしまいそうで、襟元の装飾に飾られた星の祝福石がきらりと光る。
「…………或いは、あの女達を供物にして、あの国そのものが敷いた術式だったのかもしれない。人間は狡猾で残忍だ。竜は宝を得ればそれを全てとする。宝の在り処によっては、足枷となるあの国を滅ぼしかねないことを知っていたのだろう」
「でも、…………だとすれば、そんなことをされておいて、なぜそこに居たのですか?不愉快な場所であれば、立ち去れば良かったでしょう」
「お前は、俺が望んで人間の信仰などを集めていたとでも思っていたのか?女達を捧げられ、人間が作った玉座などを与えられ、そんなものの為に人間の国を守護してやろうと思ったとでも?」
「……………違うのですか?」
アンティは、そんな事を考えた事はなかった。
(だって冬星の竜の王は、私が生まれる前から、国の守護を司る人外者で、あの国での教会と言えば、冬星の竜を祀ったものだった…………)
だからアンティは、ガーウィンに来てから密かに驚いていたのだ。
この時代での教会と言えば、アンティの魔術の系譜でもある、修復の魔物を祀るものであるらしい。
他の人外者達への信仰を束ねる教会や神殿もあるにはあるが、教会組織の共通信仰として君臨しているのは、白百合を象徴とする鹿角の聖女と呼ばれる修復の魔物。
けれど、この国は冬星の竜を祀らないのだなと思ったくらいで、自国の信仰の中心にハルヴェールがいた事や、当たり前のものとしてあった信仰の起源などは考えた事もなかった。
寧ろ、あの国こそが丸ごとハルヴェールの信徒であり、奴隷のようなものだとばかり考えていた。
「あの国に守護を与えたのは、かつて俺が狂乱した際に調伏した者との約定だからだ。俺をあの国に閉じ込めた者は、足枷を付けておけば俺が再び狂乱する事はないと思ったんだろう。…………だからこそ、俺が狂乱しないよう、贄が与えられ続けた」
「で、でも、あなたは好き勝手に振る舞っていたではありませんか!後宮の女性達を皆殺しにしましたし、外に出て町一つを滅ぼした事もある。鎮められ繋がれていたのならそんな事を許す筈……………っ!………もしかして、それも用意された贄だったのですか?」
木の枝の上から落ちてきた雨粒が、薔薇の花に落ちて音を立てる。
灰色の雨雲から差し込む僅かな陽光が雨に煌めき、明るさと暗さの中間の奇妙な影が落ちた。
今のアンティは、ハルヴェールの腕の中にいて、しっかりと回された両手はアンティの背中を押さえている。
まるで、もう二度と逃がさないと伝えるように。
「そうだ。だからこそ俺は、あの国を崩す為に、贄を要求するように見せかけて国の土壌を少しずつ殺し削った。国の基盤になる魔術を取り返しがつかないくらいに怨嗟で汚せば、やがては土地そのものから枯れてゆくだろう。国は組織だ。育まれるものが減れば、どれだけ守護があろうと砂壁のように崩れる儚いもの。国力を削げば、外周から隣国から侵食されてゆくだろう」
「繋がれた鎖を断ち切る為に?」
「人間達の中にも、俺がしようとしている事に気付いている者達もいたがな。…………だが、……………ある夜、歌声を聴いた」
「……………歌声?」
話の流れが突然変わり、アンティは眉を寄せる。
おや、ここからはご年配の竜の思い出話になるのかなと困惑していると、なぜかハルヴェールから咎めるような視線を向けられた。
「竜の宝を見付けられないという呪いをかけられていても、その宝の歌声くらいは聴き分けられる。竜は、歌声で求婚するものだ」
「…………竜は、伴侶になる相手にお腹を撫でさせてくれると聞きましたが………」
「竜の姿の時はそうするだろう。だが、人型の時は歌を歌う」
「成る程…………。…………む」
ここでアンティは、漸くハルヴェールが言いたい事が分かった。
要するに彼は、アンティの歌声を聴いて、ここにいるのが自分の宝だと気付いたと言いたいのだろう。
(でも、あの夜というのはいつの事だろう………?)
地下牢で過ごした最後の夜には歌ったりしなかったので、こちらに呼び落とされてからだろうか。
困惑しきっていたアンティは、首を傾げてしまった。
「歌っていたのはお前だ。あの女にも喉が潰れるまで歌わせたが、その夜に俺の聴いたものではなかった」
「…………さり気なく、人間にはあんまりな仕打ちが飛び出してきましたが、…………ここで、私の歌声を聴いたのではなく、ラズィルでのことなのですか?」
「あの国での事だ。お前は、よりにもよって、あの女の暮らしている離宮で歌っていただろう」
「……………あ、」
そう言われると、思い当たる節があった。
ハルヴェールに見初められる前の第二王女は、聡明だと名高い第一王女の影となり、爵位の低い伯爵家の母を持つ王女として、あまり表舞台には出てきていなかった。
王宮の中でも外客棟に近い離宮に暮らしており、王宮に連れて来られたばかりの頃のアンティは、そんな第二王女の離宮が寂れているのをいいことに、その離宮の庭でよく歌っていたのだ。
まさかそれを、聴いている者がいるとは思いもせずに。
「お前にも、外客棟の一区画が与えられていたと聞いている。なぜ、自分の部屋に面した庭で歌わなかった」
「私は、宰相様と以下彼の派閥の貴族達にとって、大切なあなたへの供物でした。常に監視の目がある中で、下手な歌を歌うのが恥ずかしかったのです。…………でも、あの王宮での生活はあまりにも息苦しくて、歌いたくて仕方なかった夜に、王女様の居住棟の庭でこっそりと…………っ?!」
ついつい事情を説明してしまい、もはや自白したにも等しい発言に真っ青になったアンティに、ハルヴェールはすっと瞳を細めた。
「…………それでか。くそ、紛らわしい真似を…………」
「…………いひゃいです。なぜ頬を摘むのですか。これだから乱暴な竜めは………!」
「……………間違いない。お前が、俺の竜の宝だ」
「ぎゃ!!確認されてる!!」
ここで、いつの間にかハルヴェールが手袋を外していた事に気付いたアンティは、憤死しそうになった。
この騙し討ちはあんまりだ。
捕獲しておいてもまだ触れて確かめる様子がなかったので、確かめる為ですら触れるのが嫌なのだろうとすっかり油断していたのに。
そこでまさかの、この仕打ちである。
「心を紡ぐ言葉を集めた歌声は、求婚の作法になる。お前は人間だが、魔術師であるなら知らない筈もないだろう。俺の鳥籠であったあの王宮に向かって歌っておいて、その意味すら理解していなかったのか」
「お、贈る相手もいないような場所で歌う歌声が、求婚になどなるものですか。そもそも、こんなに下手な歌声でその気になる方などいませんよ。だ、だから私は、自由に歌ってもいいのです」
「ほお、…………少し躾が必要なようだな」
すっと瞳を細めてこちらを見たハルヴェールは、かつての玉座にいた竜のような、ぞくりと暗い冷ややかさと残忍さを漂わせていた。
だが、その瞳には温度がある。
相変わらず怜悧な美貌であるけれど、その瞳は、これまでに見てきたハルヴェールの瞳のようにがらんどうで凍えてはいない。
なぜに気分転換の歌すら責められるのかと荒ぶりかけていたアンティは、そんなハルヴェールの変化に気付き、すとんと心の温度が下がった。
ここにいる彼には温度があり、アンティの問いかけに真摯に答えてくれた。
そして、不愉快になってみせたり呆れたりと、生身の人間のように気配がくるくると変わる。
(……………と言うか、)
冷静にこれまでの会話を振り返ると、何やらとても残念な竜の過去が露呈したように思えるが、気のせいだろうか。
「ええとつまり、……………あなたは、暴れていたところを調伏されてあの王宮に無理やり繋がれていて、おまけに、自らの手で殺した後宮の女性達から呪われて竜の宝を知覚出来なくなり、…………第二王女の庭で歌った私のせいで、王女様を竜の宝だと思っていたのですか?」
「…………………そうだ」
「そして、第二王女様に心を開いた後で宰相様方から差し出された私は、偽物に違いなく目障りなのでと、ろくに会話もせずにあっさりと殺そうとしたのですね?」
「………………………そうなるだろうな」
「なぜ、突然口が重たくなったのでしょう。つまり、完全なるただの勘違いをして荒ぶり、その結果暴走して私を殺そうとしたと」
「…………おい」
「であれば私には、そんなあなたなど御免だと言う権利があるのでしょう」
アンティがそう言えば、ハルヴェールはぴたりと黙り込んだ。
冷ややかな美貌は、目を瞠った表情のせいでどこか幼気で無防備にすら見える。
「不思議ではないでしょう?………たまたま私は、託宣を盾に強引に召喚されましたので、騙されてなるものかと自分で真偽の程を確かめた結果、あなたにとっての私が竜の宝だと知っていました。でも人間は、竜のように宝を得る必要はありません。私はあなたとは違い、自分が竜の宝であることに、この行動を縛られる必要はないのです」
それに気付かせてくれたのが、ここでの日々であった。
自分の死で彼を苦しませようとしたアルティーファは、どれだけ残忍で冷酷なハルヴェールに心を奪われていたことか。
けれどももう、差し出すことも許されず踏みにじられた心は、長い時間を意図せず飛び越えさせられた事で、やっと違う方向を見る事が出来るようになったのだ。
ここは、ご理解いただけたのなら結構ですよと、きっぱりお別れして別々の道に進むのもありだろう。
執着や思慕とて、旬というものがあるのだ。
そう考えたアンティが厳かに頷いていると、なぜかハルヴェールが、ふっと嘲るような目でこちらを見た。
「……………そうか。お前が俺の宝であれば、花竜の密猟については口を噤もうと思っていたが、立ち去るつもりであれば致し方ない。保護獣の捕獲の罪で、中央に差し出す事になるだろうな」
「……………こうして誤解も解けたので、少しばかり仲良くするのも吝かではありません…………」
「で、花竜達をどの密猟者に引き渡した?それとも、庭の妖精達を愛でているように、どこかに隠して飼っているのか?」
(……………まずい)
この時ほど、アンティが邪悪な捕食者として必死に頭を働かせた事はないだろう。
ハルヴェールの話ぶりからすると、既に花竜の事件は領を挙げた捜査になっている可能性が高い。
何しろ彼は、このガーウィンの教会組織の頂点に立つ人の直属の騎士なのだ。
そこにまで話が通っている時点で、かなり大掛かりな事件になっている。
聖堂で出会った聖職者達から、この国では、同胞である人間を殺すことは勿論、保護された人外者達へ危害を加えることや、居住権を持つ人外者を殺す事も禁忌であると教えられていた。
裁判などの制度もあるものの、多種族と共存する国らしい厳罰として、死刑は勿論のこと、被害を受けた種族へ無抵抗な状態にして引き渡す刑もあるのだ。
アンティは、ハルヴェールの水色の瞳を見上げ、目をぱちぱちさせてみた。
貴族の女性達は男性に媚びる時によくそうするので、真似をしてみたら少し可愛いかなと、狡猾な人間は技をかけたのである。
このまま真実を隠し通す事は出来ないだろう。
であれば、このハルヴェールというある程度地位のある騎士を取り込むしかあるまい。
「………その、……美味しくいただきました」
「……………は?」
「食べてしまいました。………ええと、ステーキや煮込み料理にして。皮はなめして換金用に隠し持っていますし、骨は灰にしてこのお庭に埋めてあります。ですが、そのままの状態でお戻しすることは不可能でして………」
「…………………花竜を?」
「はい。勿論、大切な恵みである事を理解し、無駄にはしていません!」
「……………食ったのか」
「ふぁい」
ここで漸くハルヴェールは、アンティが、ちょくちょく庭で兎妖精達と遊んでいたのは、花竜の灰を庭に埋める為の偽装工作だったと察したのだろう。
愕然とした眼差しと、どこか世界に裏切られたようなその儚げな佇まいは、アンティですら、よしよしと頭を撫でてやりたくなってしまった程だった。
「俺の竜の宝は、悪食だと言うのか……………?」
「ここでのお食事は、正直あまり口に合わず、…………有り体に告白すれば、美味しいステーキになるなら何でもいいかなと思いました」
ここまでを明かせばどこまでを明かしても同じだろうとそう話したところ、あまりにも呆然としているハルヴェールに、アンティは少しだけ反省する。
どうやら彼には、花竜を食べる人間というものは刺激が強過ぎたらしい。
悲しげなその背中を、ぽんぽんと優しく叩いてやりたくなった。
「……………そうか。それなら今朝も、あの朝食で我慢出来た筈もないだろう」
「む!」
ここで、どこからかハルヴェールの手の中に、美味しそうな干し肉が現れた。
ひょいと子供への給餌のように差し出された事には困惑したものの、塩辛い干し肉もアンティの大好物だ。
これは、アンティがうっかり自分をステーキにしないように警戒しているのかなと考え、我慢出来ずその手からぱくりと食べてしまった。
するとなぜか、ハルヴェールはふっと口元を緩めるではないか。
「成立だな。……………安心しろ。どれだけ階位落ちしていようと、自分の伴侶くらいは守ってやる。その伴侶が、悪食の竜食らいだとしてもだ」
「むぐ?!」
「忘れているようだから伝えておくが、人外者が手ずから食べ物を与える行為は求婚になる。それを受け入れる行為は、即ち求婚に答えたことになるからな」
「……………な!……………お、横暴です!!そんな騙し討ちのような求婚があるものですか!!調べてみれば魔術的にだって、……………みぎゃ!!成立している!!!」
魔術証跡を辿り不成立だと証明しようとしたアンティは、求婚の魔術がしっかりと結ばれてしまっている事に仰天し、ふるふると首を横に振った。
(……………あ、)
そんなアンティを見下ろし、ハルヴェールの顔に浮かんだのは、はっとする程に鮮やかで満足げな微笑み。
それはとても美しく残忍にも見えたけれど、沢山の者達に磨耗され続けてきた傷だらけの生き物が、やっと安堵した瞬間のようにも見えた。
だからアンティは、その美しい傷だらけの生き物を昏倒させて逃げ出すような真似をせず、大人しく屋敷に連れ帰られたのかもしれない。
アンティとハルヴェール物語は、明日で完結となります。
明日のお話では、ハルヴェール側の事情や二人のその後のお話が少し出てきます!