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冬星の竜とひと欠片の星




くるりくるりと時間が入れ替わる。

アンティがガーウィンに来てから、二つの季節が巡った。



日々の生活は代わり映えせず、けれども復讐心をぽいとやれば、特別に不愉快な事もなかった。

屋敷の主人がアンティを気にかけることはあまりなく、けれども時折、ここでも夜の色を纏う漆黒の騎士服の姿を見かける事はある。



そんな夜は決まって、アンティは美味しいお肉をお腹いっぱい食べた。



どこで調理するのかと問うなかれ。

これでもアンティは、奇跡を起こしたり戦争を止めたりするような魔術でなければ、それなりに自由に扱えるのである。


既にこの屋敷の一画には専用の工房をこっそり作り付けてあり、そこには素敵な厨房も作った。

この庭から貰ったライラックに似た花を咲かせた小枝を生けておき、枯れないように試行錯誤して魔術結晶化させておく乙女心も忘れない。



ナイフとフォークに、綺麗なお皿。

花びらのように薄いグラスに、刺繍のある布のナプキン。



以前より招かれる事が少なくなった舞踏会に出る度にアンティはそんな品々を盗んで厨房を豊かにし、庭や訪れた貴族の館の外周の森で拾った小さな結晶石などをその場に残してきて、妖精の略奪に見せかけておいた。



肝心のお肉は屋敷を抜け出して狩りに出たのだが、かつては貧乏辺境伯の娘だったアンティの狩りの腕はなかなかのものだ。

勿論、命はとても尊いものなので、全てを大切にいただいている。


獲物との戦いで負傷しても、アンティは修復の魔術を扱えるので治癒も得意だった。



こつこつと、こつこつと。

日々を重ねて心を柔らかく伸ばし、ハルヴェールとの不思議な同居生活は、殆ど他人のようなぴんと張り詰めた糸の端と端で成り立っている。




そんな日々に変化が訪れたのは、細やかな霧雨の降る朝であった。



しっとりと濡れた庭の花々は儚い佇まいで、灰色の雲間からは時折僅かな陽光が差し込む。

ほんのり冷たい朝の空気と、いつの間にか慣れてしまった見知らぬ屋敷の匂い。



ガーウィンの騎士であるハルヴェールの屋敷は、いつだって使用人達の手で綺麗に整えられていて、屋敷の主人が顧みる事のない花瓶の花に、アンティは小さく微笑みを深める。


乳白色に澄んだ水色を溶かしたような陶器の花瓶は、アンティのお気に入りだ。


今日は満開のライラックに似た星かぶりの木の花と、淡い檸檬色の薔薇が生けられている。

馨しい薔薇の香りは青林檎のような清々しさもあり、胸いっぱい吸い込めば小さく胸が弾む。


相変わらずアンティの扱いは宙ぶらりんだったが、こうして散らばる誰かの仕事で心が柔らかくなるのが嬉しい。



中庭の景色を楽しみながら廊下を歩き、掠れたような菫色がかった水色の壁が美しい食堂に入る。

食堂は、屋敷の中で唯一、ハルヴェールが住み始めるにあたって改修工事が入った場所らしい。

以前の教区主が何か言葉には出来ない事をやらかしたそうで、到底使えるような状態ではなかったのだとか。



(…………以前の教区主様は、何をやらかしたのだろう)



食堂を使って何をしたのかはとても気になるところだが、世の中には知らない方がいい事も沢山ある。

夜に一人で出歩けなくなると困るので、アンティは深追いするのはやめておいた。



基本、朝食は一人きりだ。

順を追って出す料理の並ぶ晩餐とは違い、朝の食事は一度並べたらそのままなので、気兼ねなく味付けの変更も行えるし、伸び伸びと過ごす事が出来ていた。



しかしなぜだろう。



今日に限って運命は、そんなアンティのささやかな幸福すらも取り上げることにしたらしい。

なぜか向かいの席に座った屋敷の主人をちらりと見上げ、アンティは強張った微笑みを浮かべる。



僅かに目元にかかる前髪と、深い睫毛の影。

滑らかな肌は、やはり人間とは整い方が違う。

そしてまた、繊細な妖精の肌と雪明かりの結晶石のように強靭な竜の肌も、その美しさが違うのだった。



(でも、…………私と同じ席に着くのだわ………)



アンティがそんな事で驚いてしまうくらい、この国で騎士として過ごしているハルヴェールには、かつて信仰の対象だった頃程の残忍さはない。


仮にも星の系譜の竜である彼が、どうして騎士をしているのかは、今でも分からないままだ。

後見人になってから何度か短い会話を持ちはしたが、大抵の場合はいつも、煩わしそうに成される連絡事項の伝達のみであった。



あの門をくぐってここに来て、それでもまだ、ハルヴェールはアンティに触れる事がないまま。



それでも、雨雲から得られる僅かな陽光に煌めく銀白の髪も、内側からきらきらと輝くような水色の瞳も変わらないハルヴェールと向き合うと、心の縁がじりじりと焦げ付くような居心地の悪さを感じる。




「……………き、気持ちのいいお天気ですね」



沈黙に耐え切れず、にっこりと微笑んでそう話しかけてしまい、アンティはテーブルに頭を打ち付けたくなった。


今のは、明らかに少しだけ知っているあの第二王女を意識した話し方であるし、あの王女とは似ても似つかない気質であるアンティには、この後の会話の続け方は皆目分からない。


言葉には魔術が宿るのだから安易に考えてはいけないのだが、自分の愚かさに少しだけ死にたくなった。


だが、冷ややかな眼差しをこちらに向けたハルヴェールがいるので、テーブルに頭を打ち付けるのは彼が部屋を出るまで待つことにしよう。

今そんな事をしたら、テーブルを揺らした罪で屋敷から放り出されそうだ。


何だかもうそれでもいい気もするけれど、もう半年も我慢すれば正攻法でこの屋敷を出てゆける日が来るのだから、出来ればそちらの手法で失礼させていただきたい。



そんな事を考えていた時だった。




「……………お前の引き取り先が決まった」



おはようの挨拶もなく、前置きもなく、唐突に告げられた言葉に、アンティは口の中のトマトをむぐぐっと飲み込んだ。



「…………まぁ。そうなのですね」


(……………しくじった!)



端的な言葉なあまり、咄嗟にこちらも短い返答を返してしまったアンティの失策により、また二人の間には沈黙が落ちる。



人付き合いが不得手だからこそ、こんな沈黙の噛み砕き方が分からない。

だらだらと冷や汗をかくしかないアンティは、いっそもう、ここで目の前のお皿をハルヴェールに投げつけて力技の復讐を再開した方がましなくらいだ。


けれども、そんな事をしてしまったら、水色の朝露の結晶石のテーブルの上に飾られた小さな花は、くしゃくしゃになってしまうだろう。



そう考えると、どうしてだか胸が痛んだ。





(…………しかも黙った!何も言わないのなら、寧ろ立ち去っていただきたい!!この沈黙の重さをどうしてくれるの?!)




残念ながら、アンティは朝食を食べ始めたばかりである。


では二人で食事に集中すればいいかと言えば、アンティの前には朝食が並ぶのに対し、ハルヴェールは紅茶を飲んでいるばかりなのだ。


こうなれば他にどうしようもない。

食べることに集中し、唇の端を義務的に持ち上げて微笑みを象りながら、心を無にして淡泊な魚料理を飲み込んだ。



(温かいクリームスープと、美味しい卵料理があって、そこにソーセージやハムがあれば、ハルヴェールの事など気にもならないのに…………)



だがなぜか、アンティの前に並んでいるのは、味付けの薄い上品な魚料理とお馴染みの辛いスープである。


特にスープについては、優雅に紅茶を飲んでいるハルヴェールをこっそり心の中で呪うくらい、晩秋の柔らかな雨音の響く朝には不似合いなメニューと言えよう。


どうか冷静に考えて欲しい。

朝の喉には、もう少しの労りこそが必要だと分かるだろう。



ふっと、沈黙が僅かに揺れた。

会話の続きがあるのかなと視線を持ち上げたアンティは、真っ直ぐにこちらを見ているハルヴェールに、スプーンを持つ手がぶるぶると震えそうになる。


高位の人外者の視線はとても強く、不躾なものだ。

そもそも人間如きの心象を慮る必要がない為、遠慮と言うものがないのだろう。



刺し貫かれるような冷たく鋭い眼差しには、やはりどこまでも冷ややかな他人の色がある。

でももしかしたら、だからこそ人ならざる者達は美しいのかもしれない。




「お前は、ヴェルリアとの境界近くにある、この教区とも繋がりの深い聖堂に配属される。どれだけ役立たずでも、迷い子であることは変わらないからな。妖精の浸食には有用だそうだ」

「…………妖精の………」

「お前が庭で手懐けている者達とは、少し趣が違うだろうが」



(それはつまり、聖域を損なおうとする邪悪な妖精に対し、囮役になれっていうこと?!)



庭の兎妖精達をこっそり愛でている事が知られていた事も衝撃だが、これ以上穀潰しに公的資金は投入出来ないと言われ、自分で自分を養い給えと市井に落とされるものだとばかり思っていたアンティにとって、その行き先はたいへん不本意であった。


だが、そんな思いを表情に出す訳にはいかない。


可憐ではあるがあまり自我を持たないような淡い微笑みを浮かべ、僅かに首を傾げておく。





(……………この人への復讐は、やめたのだから)




ここまでの日々をゆっくりと歩き、自分の中で対話を重ねた結果、アンティは、ひとまずハルヴェールへの復讐をやめた。




彼を傷付けたいと思うのは、自分を満足させたいからだ。



その理由に従い、この身を取り巻く環境が変わってきた今、復讐の重要性はなくなりつつあった。

また許さんと思えば邪悪な復讐に走るかもしれないが、その時のことはまた考えればいい。

アンティは、所詮自分が大好きな身勝手な人間で、復讐とて自分の為の一つの手段でしかないのだから。



目下の目標は、さっさとここでのお勤めを終えてしまい、円満にこの屋敷を出る事である。


当初の予定では、市井に落とされると信じていたのでこの国で何か職を得て、好きなものを好きな時に食べられる自由気儘な生活を取り戻すつもりであった。



それがまさかの、辺境域の聖堂への配属である。


どう考えても、様々なお肉料理などを堪能出来る素敵な場所ではないだろうし、ヴェルリアとの境界といえば聞こえはいいが、要するに森と岩山しかないところなのだ。




「………私にはこの国の地図上のことはよく分かりませんが、きっとそれも大切なお仕事なのでしょう。精一杯頑張らせていただきますね。…………いつ頃の配属になるのですか?」

「明後日には迎えが来るだろう。支度をしておけ」

「………随分と、急なお話なのですね」

「正式な通達が来たのは五日前だ。俺が数日屋敷を空けていたので、お前に話をするのが遅くなった」

「まぁ。そうなのですね。とつぜんのこととはいえ、しょうちしました」



きっと、そう微笑んだアンティの表情はかなり強張っているだろう。

だが、手にしていたフォークをハルヴェールの顔面に投げつけない自制心は、淑女たるものの矜恃あってと言える。



その不在の間に、ハルヴェールがガーウィンの領主一族に連なる女性と、夜会に出ていたらしいのは有名な話である。


盛装姿でダンスを踊る時間のどこかを詰め上げて、自分の屋敷に暮らす迷い子に、もうすぐここを出るので荷造りをしておけよと言う事は出来なかったのだろうか。



いや、絶対に出来た筈だ。



そう考えてわなわなしていたアンティは、ここで、思いがけない危険に晒される事になる。



(……………おや?)



またぴたりと向けられた視線に、その水色の瞳を見返せば、ハルヴェールもこちらを見ていた。


ふと、こうしてしっかりと視線を交わらせたのは初めてのような気がして、途方に暮れてしまう程に美しい人をじっと見つめる。



初めて彼に、一人の人間として認識されたような気がした。



「最近、領内で保護されていた花竜が、立て続けに姿を眩ませているらしい。彼等の居住区画へ立ち入れるのは、この銀白と静謐の教区と、隣接した黎明の教区の者達くらいだろう。…………内部の者が花竜を盗んでいるにせよ、外部の密猟者達の手引きをしてるにせよ、関わった者は殺す必要があるな」

「…………そうなのですね」

「ここを出るまでは、くれぐれも余計な騒ぎに巻き込まれないようにしておけ。いいな?」



その花竜とやらは、昨日も美味しくいただいた獲物だろうかとはさすがに言えず、アンティは心を無にする。


随分とのんびりした生き物なので、度々捕まえて美味しいステーキにしてきたが、まさか保護されている生き物だったとは知らなかったのだ。



なお、ここでハルヴェールが含ませた余計な騒ぎというのは、ふた月前に、アンティが突然熱を出し死にかけた一件を指しているのだろう。



その日は、夜半過ぎに急に息苦しくなり、高熱を出して体が千切れるような痛みに丸一日苦しんだ。


ハルヴェールは屋敷を空けており、使用人が呼んでくれた魔術医の診察を受けたところ、晩餐で出された料理の何かが体に合わず、植物の系譜の障りを受けたのだろうと言うことであった。


その医師の説明によれば、食文化の違いなどから体調を崩す迷い子は、珍しくはないのだそうだ。


その時のアンティは意識が朦朧としていたが、これまで口にしてこなかった食材を食べ続けることで、知らずに体に負担を強いていたのだろうと言われた記憶がぼんやり残っている。



(……………でもあれは、多分食あたりだわ。もしかしてハルヴェールは、あの日の私が、ステーキにした花竜の呪いを受けたと気付いているのかしら………)



お得意の修復魔術で胃をすっきりとさせるのに時間がかかり、とは言え二日ほどで症状は治まった。

だが、後見人であるハルヴェールには領主への迷い子の体調不良の報告義務があるので、確かに彼の手を煩わせる羽目にはなっている。



その理由までを見通し、ここで釘を刺されたのだとしたら。



(……………もしここでもまた、ハルヴェールに処刑されるような理由を与えてしまったのだとしたら…………)




またしてもだらだらと冷や汗をかき、アンティは脳内であの第二王女になりきり、にっこりと微笑んだ。

もはや、激辛スープも水のように味がしないという事もなく、激辛スープは激辛スープのままで、たいそう世知辛い世の中である。



「新天地に旅立つ日の為にも、残り数日、しっかりと体調を整えておきますね」

「………そうだな」



(……………よし。終わった)



彼が頷いた以上、会話はこれで終わりだろうと、アンティは万能な王女の微笑みに心から感謝した。



惨めになるから、心の中ですら言葉にした事はなかったけれど、アンティは、ずっとあの王女が妬ましくて羨ましくて大嫌いだった。

ハルヴェールの事がなければ大好きだった筈の可愛らしい人が、そんな身勝手な嫉妬心で大嫌いだった。


それなのに今はどうだろう。


彼女はもうとうに過去の人となり、その微笑みを防壁代わりに借りてハルヴェールに向けても、少しも心は痛まない。


時が問題を解決するとはこのような事らしいぞとふんすと胸を張りつつ、アンティは試練にも等しい朝食をとうとう全て食べ終える。


ナプキンで口元を拭き、優雅に微笑んで食後の紅茶をざっと喉の奥に流し込むと、貴婦人らしい所作で退出を詫びた。




「今日は、庭で朝の花を眺めようと思っていたのです。こちらを発つまでにはもう、霧雨の日の朝はないかもしれません。失礼させていただいても宜しいでしょうか?」

「好きにしろ。…………それと、今月の品物だが、」

「ご用意いただかなくて、結構です」



それは、あの舞踏会の夜に考えた事を、結局ハルヴェールに会えないままだったアンティではなく、この屋敷の家令から伝えて貰い始まったこと。


迷い子の為の支援金を、幾つかの辞退できる招待については、ドレスの仕立てや装飾品の購入の代わりに一月に一つの贈り物に変えて貰えるようになった。


ハルヴェールは、アンティが宝飾品や希少な魔術道具などを欲しがると思っていたようだったが、アンティが望んだのは、誰にでも買えるような土産物のオルゴールや綺麗な便箋のセット、薔薇の香水の入った小さな小瓶など。



もし、ハルヴェールがアンティを竜の宝として大切にしてくれたなら、そこから始まる何でもない普通の日に買いたかったようなものばかり。



それはただの気休めだったが、そんな贈り物は不思議なくらいに心を穏やかにした。

けれども、そうして埋めてゆく欠乏感があるからこそ、ハルヴェールに対する失望は深くなったのかもしれない。



だからアンティは、復讐をやめられたのだ。

ハルヴェールへの執着を、その失望が洗い流してくれたから。



穏やかに辞退したつもりだったが、思っていたよりも冷たい声になった事に気付き、アンティは溜め息を噛み殺す。


これでもし、ハルヴェールから離れたくなくて不機嫌になっているとでも思われたら癪ではないか。




「最初からそのつもりだ。その日にはもうここにはいないのだから、必要がないものだろう。今後、ガーウィン領からの補助金は向こうの聖堂の管理者に渡される」



けれども、そう落とされた声の冷淡さに、そう言えばこんなものかと拍子抜けしてしまう。

この竜は、そもそもアンティにさして興味がないのだから、微々たる声音の変化を読み取っての誤解が生まれる事もないのだった。



「はい」



ここで、話は終わったので行って構わないという顔をしかけたハルヴェールが、僅かに眉を寄せた。

おやこれは、伝達事項の何かを忘れていたのだろうなと思い少し意地悪な気持ちで見ていると、案の定言葉が足される。



「荷造りは侍女達に手伝わせるといい。転移門で近隣の町に移動し、そこからは馬車になるようだな。荷物の持ち込みに必要なら、魔術金庫の貸し出しがあるそうだ」

「それは必要ないと思います。舞踏会があるような場所とは思えませんし、教会での共同生活となれば、荷物は少ない方が良いでしょう。小さな鞄が一つあれば充分です」



そう答えたアンティに、ハルヴェールが先程とは違う表情で眉を顰めた。


だが、それ以上に興味を持ちはしなかったらしい。

短く頷き、給仕を呼ぶと紅茶のお代わりを淹れさせている。


もう用はないという意思表示だなと理解し、アンティは食堂を出た。




(……………あっという間に、こんな日が来るのね)





こつこつと、静かな廊下にアンティの靴音が響く。


窓は柔らかな雨に濡れ、庭の花々の瑞々しい彩りが滲んでいる。

そんな美しく青白い影の中を、どこか茫然とした思いでゆっくりと歩いた。


アンティはこの屋敷の令嬢ではないので、このような移動に侍女達が付き添う事はない。

一人でいられることを感謝しつつ、込み上げてきたものを押し戻せずに深い溜め息を吐いた。




(私は、…………悲しいのだろうか?)




この奇妙な落胆はなぜだろうと、しんと静まり返って少しだけ震えている心の中の湖を覗き込む。


ハルヴェールの心が今更欲しいとは思わないし、ここでの暮らしを惜しいとも思わない。

それでもなぜか失望している。


そして、その失望がどちらを向いているのかと言えば、アンティ自身の運命そのものかもしれなかった。



(私の運命は、何だかどこにも引っかからずに谷底へ転がり落ちてゆく小石のようだわ。一度跳ね返って思いもしないようなところへ転がったけれど、そこからはまた、ころころと転がり落ちてゆくばかり…………)




誰が望んで、そんな人生を選ぶだろう。


そう思えばむしゃくしゃしたので、アンティは粛々と庭に出る事にした。


とても淡白なこのお屋敷のご主人様は、霧雨とはいえ雨が降っているが大丈夫かい?と、紳士的な心配をしてくれる事はなかったが、アンティはふんと鼻を鳴らすと、髪と服と靴に雨弾きのまじないをかけてしまい、肌にだけは柔らかなヴェールのような雨が触れるようにする。




庭に出ると、ふわりと雨の匂いがした。



さあさあと立てる音は、霧雨が薔薇の茂みで葉を揺らす音だろう。

咲いているのは淡いラベンダー色の薔薇で、手前の花壇の細やかな水色の花が彩りを添える。


土を濡らす雨の匂いと、花を濡らす雨の香りは違う。

アンティは、どちらも大好きだった。



しゃわしゃわと、濡れた下草を踏む。

今日は兎妖精達の姿はなく、代わりに雨の妖精達が奥にある薔薇のアーチの上で輪になって踊っていた。



(……………あ、)



石畳の敷かれた散歩道に戻ろうとしたところで、三色菫の葉影に落ちていた星屑を見付けた。


スカートの裾を引き摺らないように手で持ち上げると、くすんだ檸檬色の水晶のようなその欠片を拾う為に屈み込んだ。




「……………綺麗」



明後日に旅立つ時には、この屋敷で揃えられたドレスも、月に一回の贈り物も、全てを置いていこうと思う。


それは最初から決めていた事で、ハルヴェールに意趣返しがしたいからではなく、彼への復讐をやめたように、彼というものに繋がるものを全て置いてゆこうと思ってのことだった。


迷い子になった日に支給された簡素なドレスと靴で旅立ち、初めましての気持ちで新しい土地に向かおう。

ここでの日々は、過去のべたべたどろどろした悲しみや怒りを捨ててゆく為の、心の洗濯の時間だったと思えばいい。



指先でつまみあげた星屑がきらきら光る。



(でも、この素敵な収穫だけは、持っていってもいいかもしれない。とっても綺麗だもの………)



なお、厨房についてはそこで調理されたものの痕跡を消す為にも、持てる限りの力を使って完全に消し去ってゆこう。

さすがに、犯罪者として追われるのは御免だ。




雨に濡れた薔薇の香りに心が解けて、気付けば小さく鼻歌を歌っていた。

歌はあまり得意ではないけれど、歌うのは大好きでついついこうして歌ってしまう。




(……………そうね。大丈夫そうだわ)



こんな風に歌えるのなら、新しい土地でもきっと自分は大丈夫だ。

そう考えられた事に安堵し、アンティは唇の端を持ち上げる。




しかしそれは、突然背後から何者かに掴み上げられるまでの事であった。









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