舞踏会のドレスと美味しいお肉
しゃりんと、夜の片隅に小さな星が落ちてきた。
今日の夜空は随分と賑やかで、時折押し出された星がこうして流れ落ちてくる。
花壇の横に落ちた星屑の煌めきに目を細めて唇の端を少しだけ持ち上げていると、その小さなきらきらしたものは、素早く走ってきた兎姿の妖精が大喜びで持ち去ってゆく。
窓の向こうの庭園は美しく、一介の騎士の屋敷にしては贅沢なほどの花々が咲き乱れていた。
夜の光の中で滲むような花明りを灯した鈴蘭は、夜風に揺れてちりんと音を立てている。
薄紫色のライラックは細やかな宝石のようにぼうっと光っており、ここが、どれだけ祝福豊かな土壌なのだろうと思わせる程。
美しい春の夜の窓辺に置いた椅子に舞踏会帰りのドレス姿のまま腰掛け、アンティは、自分が迷い子としてこのガーウィンという土地の大聖堂に呼び落とされた日の事を思う。
アンティがこの時代のこの土地に招かれたのは、ただの事故であった。
信仰を主とするこの土地では、アンティが呼び落とされる少し前に、精霊が造り放置していた召喚門を使って迷い子を集めた悪い輩がいたらしい。
色々政治的な思惑や組織の不都合もあるのだろう。
その事件の詳細が末端にいるアンティまでは降りくることはなかったが、それがつまりの始まりである。
事件が解決した後、さて、元凶となったこの門をどうしたものかという議論が紛糾している間に、放置されていた門からアンティが呼び落とされてしまったのだ。
即ち、完全なる事故だ。
おまけに、あの聖堂でアンティを見付けた教区の人々は、いささか戸惑っていた。
それもその筈で、あの門は本来、迷い子と呼ばれる子供達を呼び落とす為に作られたものだ。
それなのに、現れたアンティがあまりにも凡庸だったので、どうしたらいいのか分からなかったのだろう。
(私にも、どうして迷い子になったのかは、さっぱり分からない)
迷い子と言えば、才あり美貌あり運命の特赦ありという、運命の大転換の粋である。
名もなき乙女がそこから国母になったり、歴史に名を残すような魔術師になったり、はたまた、高位の人外者の伴侶として選ばれたり。
物語であれば、迷い子になったという一言さえ付け加えれば、それはもう物語の主人公に違いないと確信出来るくらいの特別な肩書きなのである。
だがアンティは、願いの成就に恵まれず寄る辺ない人間だからと言って、おとぎ話の幸運に相応しい、心清らかな頑張り屋という訳ではない。
また、多少性格や嗜好に難ありだからといって、誰もが手のひらを返して喝采を贈るような才能を隠している訳でもない。
残念ながら、この心の中から才能までを救済が必要かどうかと一考した誰かに運命を紐解かれても、これはいいやとぽいっと捨ておかれそうな人間だということくらい、自分でもよく知っているのだ。
寧ろ、事件に用いられた召喚門であるのだし、危険思想などを抱く者を集めていたのだと言われた方が余程腑に落ちる。
それならば、牢獄に入った死刑囚というだけでもう、充分に条件を満たしているに違いない。
(…………うん。きっと、迷い子にも外れはあるのだわ)
かくしてその時の状況は、巻き込まれた側としてはあまりの不可解さに遠い目になりつつも、たいへん申し訳ありませんと言うしかない状況であった。
魔術の才については隠したままだが、例えそれをどうだと披露してみせたところで、迷い子というものの基準としてはいささか希少価値が低めと言わざるを得ないので、申告せずにいる。
魔術というものは、可動域さえ高ければ万能という訳でもないのだ。
使用回路の潤沢さは、そこに流れる魔術を生かしてこそ意味がある。
この地には既に、あの門を使った事件で攫われてきた迷い子が何人も保護されており、正統な迷い子としての稀少性を持つ彼等の才能と比較すると、アンティの扱う魔術はあまりにも地味過ぎる。
(私は、………ここでもまた、外れ籤枠だったということなのだ…………)
それならばいっそ、下手に高い可動域を晒して残念な迷い子になるよりも、さしたる才能もない一般人が、管理の甘かった召喚門の犠牲になったという同情心をいただいた方が生き易い。
狡猾な人間はそう計算してしまい、抜け目なく迷い子としての国家への貢献の責務も回避した。
巻き込まれ事故も二度目となると、自分もなかなかに狡賢くなったなとほくそ笑んでいたアンティが躓いたのは、当面の間の後見人となる人を決める選定の儀式での事である。
(……………だって、あのような選出方法をするだなんて、思いもしなかったのだ)
事件でも事故でも、ガーウィンの管理不足で呼び寄せられてしまったアンティは、ガーウィン領が責任をもって保護することが決まり、それに伴っての後見人の選定は、翌日の内に進められた。
あまりの手際の良さに驚いたが、潤沢な魔術に恵まれている土地だという事は即ち、ここは迷い子の多い国であるらしい。
国内での保障水準はまぁまぁのところらしいが、ガーウィン領でも幾つかの迷い子の保護制度が法制化されていたのだ。
アンティの面倒を見るのは勿論、呼び落としを行った門を有する銀白と静謐の教区である。
教区に務める者達の中から迷い子の後見人に相応しい人物が何人か選定され、フードで顔を隠した数人の男女の中から一人を選ばされた。
あの時の謎のフード運用は、迷い子というものの管理には政治的な益も生じるので、どこかの派閥が見目のいい候補者を送り込んで迷い子を独占するという事がないよう定められた運用なのだとか。
以前は魔術符をカードのように引かせて選定していたらしいが、それでは迷い子の側に不親切であると国の調査が入った際に指摘を受け、現在のような儀式に落ち着いたのだそうだ。
(あれはあれで、どうかと思うけれど……………)
見ず知らずの土地に落とされ、突然フード姿の男女の区別もつかないような怪しい者達の中から、あなたの生活を預ける人物を選べと言われる側からすると、どっちもどっちだという気がしないでもない。
とは言え、実際に対面させて貰うことで、所作や身に纏う雰囲気、有する魔術の質などの僅かな情報が得られるのも確かであった。
アンティは、その中から迷わずに一人を選んだ。
随分と身長が高いので男性なのだろうなとは思ったが、その人物の身に宿した魔術がとても好きで、入って来た瞬間からもう決めていたくらいだ。
しかしここで忘れてはいけないのが、アンティの不運の飛び抜けた有能さで、残念ながら本人は、その不運に連鎖性があることをすっかり失念していたのである。
何の危険も感じ取れなかったのかと問われると、確かに、その人物を選んだ途端、周囲の空気が強張ったなとは思っていた。
あまり良くない派閥の者なのかもしれないし、気難しい御仁なのかもしれない。
でもまぁ、竜の宝の筈なのに、その竜から断頭台に送られる仕打ちよりはましだろうと思っていたところ、引いていたカードは思っていた以上に悪いものだったという訳で。
(だから、……………彼がここにいるだなんて、思いもしなかったのだ………)
あの日、凍えるような瞳で不快感を示しながらフードを外したのは、召喚門の向こう側に置き去りにしてきた筈のハルヴェールだったのである。
しゃりんと、また庭のどこかに星屑が落ちた。
その澄んだ音に耳を澄まし、アンティは今夜の夜空は賑わい過ぎではなかろうかと眉を顰める。
あまり沢山の星が落ちると、後で系譜の調整が難しくならないだろうか。
だが、夜空を見上げて臨戦態勢でいた小さなもふもふの妖精達にとっては、待ちに待った瞬間であったらしく、わぁっと走ってゆく姿は愛くるしいの一言に尽きる。
そんな様子を見ていてふと、泉結晶の窓に映る自分の姿に気付き、アンティは小さく溜め息を吐いた。
「霞んだ紺色のくしゃくしゃの髪に、ちっとも光らない灰色の瞳。顔も……………中段の端っこというところかしらね」
一般人を装った以上、今更魔術擬態をしていたと告白する訳にもいかず、アンティはそのまま姿を変えて暮らしている。
だからこれは本当の姿ではないけれど、どれだけ複雑に髪を結い上げても、艶やかなドレスを着せて貰っても、それがことごとく似合わないアンティはどこか滑稽だった。
(………容姿的な問題ではなくて、私の気質なのだと思う。両親が生きていた頃も、お金がなくてドレスなんて作れなかったし、そもそも、あの竜の守護に甘えてろくに国防に重きをおかなかった王族達のせいで、辺境伯の領地は舞踏会なんて滅多にないくらいの田舎の荒野のままだったし…………)
率直に言わせて貰えば、これまでに参加した舞踏会の広間にいた女性達の中には、アンティよりもぱっとしない面立ちの女性達も何人かいた。
だが彼女達は、上品なドレスをとても素敵に着こなしていて、誰か親しい人や家族達と軽やかにダンスを踊っていた。
その笑顔や所作は惚れ惚れとするくらい綺麗で、アンティはぽかんとして彼女達を見つめるしかなく。
ああ、私はどれだけ美しいドレスに憧れても、この空間には不似合いなのだと悲しくなった。
今夜もそうだ。
ハルヴェールは、どちらも人任せだったが、後見人としての義務があるからと舞踏会の準備は整えてくれたし、会場となる領主館へ連れて行ってくれる馬車も手配してくれた。
だが、誰と踊るでもなく友達がいる訳でもない会場ではすぐに手持ち無沙汰になってしまい、辛うじて並んだご馳走の幾つかをお口に詰め込み、アンティは早々に逃げるようにこの屋敷に帰ってきている。
普通であれば後見人がエスコートするべきなのだろうが、アンティが選んでしまった人物は、気難しいと有名な騎士の一人で、彼であればエスコートを放り出しても仕方あるまいと皆が納得してしまうようだ。
その結果、誰からも気遣われる事なく、アンティは見事なくらいに放置されていた。
(…………不本意だったのだからと、それを隠しもしないのだわ)
ガーウィンのハルヴェールは、かつてのような漆黒の儀礼軍服めいた華やかな姿ではない。
けれども同じく漆黒の騎士服は、かつての彼を彷彿とさせる余所余所しさであった。
装飾などは全て銀白の冬星の流星結晶を使い、擬態をするでもなく変わらぬ容姿でいる。
彼はガーウィンの中央からこの教区に派遣されたばかりの騎士で、後見人選定に巻き込まれたのは不本意だったらしい。
この教区の責任者達が、彼も招かねば失礼だろうと勝手に気を回して混ぜ込んでしまったのだ。
あの時も、この時も。
いつだってアンティは、彼の足元の邪魔な小石なのか。
誰だって好んで蹴られたい訳ではないので、そんな役割は一度で充分だったのに。
ふうっと溜め息を吐き、ドレスのリボンを引っ張る。
あまりにも美しいドレスなので乱暴には出来ないが、この自分をとても惨めにするものなどは、早々に脱ぎ捨ててしまいたかった。
(前の時と、さして変わらないわ。あの時は無関心さから断罪されて、今は、無関心さから見捨てられている…………)
どちらがいいのだろう。
そして、一体誰がアンティをここに呼び落としてしまったのだろう。
そこに召喚門があったとは言え、何某かの意思が働かなければ魔術は動かない。
けれどもあの時、アンティは確かに一人きりだった。
こちらで保護されるにあたり身元の調査などもなされたが、生まれ育った国はもう隣国に統合されており、今は政情が不安定な紛争地になっているという。
ハルヴェールがいる以上、アンティが履歴の全てを詳かにする事は出来なかったが、あの牢獄で過ごした夜から既に四百年以上の月日が流れていた。
「いつか……………」
いつか、あなたは後悔するだろう。
あの星の加護を受けた国で、アンティは、ハルヴェールにそう告げて死にたかった。
ここにいるのが竜の宝だと知らず、その手で殺してしまって自らの心を壊せばいい。
彼もまた取り返しのつかないものを失えば、沢山のものを奪われたアンティも溜飲を下げることが出来るだろう。
ちっとも優雅さも賢さもない復讐だったが、そう考えると胸がすっとしたし、それ以外の策を講じるには、アンティは多分疲れ果てていた。
しかし、今はもうない星の竜を祀った国で殺される筈だった修復魔術師はそう考えていたとしても、こんなに遠くまで来てしまうと、果たしてそれでいいのだろうかと考える。
(私は、ハルヴェールに仕返しがしたかったのだけれど、それは、…………私を幸せにしてやるよりも大事な事かしら?もう後がないのなら兎も角、これから先もこの国でのんびり暮らしてゆけるのなら、ここでまた、ハルヴェールへの復讐を続ける利点はあるのだろうか)
ここはもう冬星の竜を崇拝する土地ではなく、なぜか竜の王の一人であることを隠し騎士の肩書に収まっている今のハルヴェールには、アンティを死刑にする権限はない。
どうしても同じような復讐がしたいのなら、かなり綿密な作戦を練る必要があるし、処刑されずにこの先も生きてゆくのだと思えば、復讐程度のものでは一人の我が儘な人間の心を満腹にするのは難しいだろう。
復讐はとても魅力的だ。
けれど、自分だけが過去の苦しみを引き摺ってじたばたするだなんて、結局負けに転ぶようで、強欲なアンティは真っ平だった。
(………そもそも、よく考えたらあの竜は、私が竜の宝だと知ったところで、今更態度を変えるかしら…………?)
ここが、あの夜から四百年も後の時代だとすれば、ハルヴェールは、竜の宝を無くしてもあまり影響を受けなかったようだ。
アンティは死んだ訳ではないので、影響はあまり出なかったのだとしても、近くにいたものが数百年間もどこかへ行ってしまってもぴんぴんしているのだから、なかなかに鈍感な竜だと言えよう。
そんな現状を冷静になって分析すれば、考えうる復讐が有効なのかどうかも怪しいものだ。
(例えば私が……………、)
例えば、アンティがここぞとばかりに竜の宝だときっちり示してみても、とは言えこんなものはいらないとあっさり言われてしまったらどうするのか。
その結果、また最初の夜のようにひと欠片の興味も向けられなかったとしたら、そこで壊れるのは、アンティの心の方かもしれない。
「……………むぅ」
窓の向こうの美しい庭園を眺め、ほろほろとこぼれ落ちるのは、四百年前の冷たい王宮で凝った怒りや憎しみだった。
人間とは不思議なもので、国も時代も違う場所にぽこんと放り出されると、生まれ変わってもいないのに生まれ変わった気分になってしまい、新しい選択肢が幾らでも増やせるような気持ちになる。
ガーウィンは夜が長く、朝が遠い。
命を奪われる事はなくなった一人きりの部屋では、ただひたすらに色々な事を考えられた。
であれば、この地に呼び落とされ、あの復讐を取り上げられたことは幸いだったのだろうか。
数奇な運命の巡り合わせで再会しても、やっぱりアンティに気付かないハルヴェールに出会えて良かったのだとしたら。
ゴーンゴーンと鐘の音が重なる。
この国の信仰を司るガーウィン領には、数えきれない程の教会があって、祈りの時間になると森のさざめきのように鐘の音が聞こえた。
その響きの荘厳さも厳しさも、どうしてこんなに美しいのか。
そんな事を考えている内に三人の侍女達が部屋にやって来て、慌ただしく着替えが始まる。
予定外の時間に戻ってしまった為に、他の仕事を切り上げ、こちらに来て貰ったのだ。
こちらは後回しでいいと言ったが、さすがにそうもいかないらしい。
「……………むぐぐ」
「アンティ様、何かあちらで不愉快な事がございましたか?」
着替えの間もあれこれ考えてしまい、眉を寄せて苦悶の表情になったアンティにそう尋ねたのは、この部屋付きの侍女の一人で、アンティに好意的な数少ない使用人である。
使用人というものは、主人が客人を蔑ろにすればそれを敏感に感じ取るもので、柔らかな蜂蜜色の髪をしたリセルスのように、それでもと心を砕いてくれる者はとても少ない。
他の使用人達は、どこか慇懃無礼と言うか、心のどこかでアンティを軽視しているのがどうしても透けて見えていた。
ここは、アンティが少なくとも今後一年は暮らすことになる、ハルヴェールの屋敷だ。
召喚門事件の前までは教区主が暮らしていた屋敷だったが、事件が起きて教区主がこの地を去ると、ガーウィン領の中枢となる教会からこの教区の管理の為に派遣されたハルヴェールが、教区の監視者として住むようになったという経緯らしい。
つまりのところ、一部の使用人を除けば、彼等は主人であるハルヴェールとの関係も浅い。
主人の顔色を窺い、その振る舞いでアンティの扱いを決めるのは賢い使用人の証でもある。
(そしてつまり、ハルヴェールは、この教区では少し特殊な立ち位置なのね………)
彼がガーウィン領の中央からの預かり物だと思えば、良かれと思って後見人の選定儀式に呼ばれてしまったのも致し方ない。
「不愉快というよりも、場違いだったわ。私はやはり、あのような場所にはそぐわないの」
「ハルヴェール様は、またご一緒ではなかったのですか?」
「ええ。馬車も用意して下さっているので困る事はないし、それは別に構わないのよ。ただ、…………あのような場所は不向きだという事をお話した方がいいわね。こんなに素晴らしいドレスを、これっぽっちの顔見せの時間の為に仕立てる必要はないもの」
「支度金にはある程度の補助も出ますから、こちらにいらっしゃる間は楽しまれては如何ですか?」
そう言ったのは、アンティにあまり好意的ではない侍女だ。
迷い子に後見人がつけられるのは、正式な行き先や引き取り手が決まる迄となる。
こちらの侍女としては、長居する訳でもないので、今の内に恩恵を受けておけと言いたいのだろう。
勿論そこには、美しいドレスや靴の準備が、この屋敷の主人の意思ではないという主張も含まれている。
(あらあら、私が本当に舞踏会に辟易しているとは思わないのね…………?)
だが、そんな発言はアンティの心を傷付けることはなかった。
思ったよりも早く帰ってきてしまった迷い子に、慌てふためき部屋に来てくれた彼女達は仕事には忠実であるし、辺境伯の娘であっても貧乏暮らしだったアンティには、このようなドレスは誰かに手伝って貰わなければ脱げないものだ。
舞踏会用のドレスを脱ぎ、いつもの簡素なドレスに着替えてほっと息を吐く。
窮屈なドレスから解放してくれただけで、彼女達の存在は充分に有難かった。
「そのお手当てを迷い子に使う必要があるのなら、浮いたお金で午後のお茶の時間に美味しいチョコレートでも付けて貰った方が、私は嬉しいかもしれないわ。………勿論、ハルヴェール様の体面上の問題もあるでしょうから、そうもいかないかもしれないけれど………」
「であれば、ご相談してみた方がいいかもしれませんね。恐らく、今回のような領主様の催しは辞退が難しいかもしれませんが………」
「そうよねぇ…………」
侍女達が退出すると、部屋はまた静かになった。
窓の向こうの遥か遠くには、高台にある、光に煌めく領主館が小さな宝石のように佇んでいて、くるくると人形の踊るオルゴールのよう。
ガーウィンが大国のいち領地として統合されるまでは王宮の一画だったという領主館では、今頃ハルヴェールが誰かと踊っているのだろう。
ここでもまた、ハルヴェールにはその関係を噂される美しい乙女がいた。
となると、竜の伴侶になったならまだ生きている筈なあの王女はどうなったのだろうかと思わないでもないが、長命高位な人外者はとても気紛れなものだ。
どれだけ人間と近しくしていても、彼等は違う種族の生き物の価値観でくるりと態度を変えてしまう。
ハルヴェールに至っては、元々穏やかな気質の人外者ではないので、何をどうしようが不思議はない。
(でも、心を偽る必要のない彼等は、無垢な程に真っ直ぐだわ。誰にも膝を折る必要がないからこそ、動かした心は有りの侭のものなのだ……………)
だからきっと、あの王女は大事にされたのだろう。
その期間に限りがあっても、どこかで飽きられたのだとしても、指一本触れないままに拒絶されたアンティとは違い、彼の眼差しはあの時、確かに彼女に据えられていた。
きりりと痛んだ胸を押さえ、アンティは暗い目で部屋の中を見回す。
迷い子として日々の生活の面倒を見て貰えるのは有難いが、その弊害もある。
ここでの暮らしでは、部屋の中に小腹が空いた際につまむお菓子などが用意されている事はないのだ。
むしゃくしゃした時には美味しいものが食べたいアンティにとって、それは、手痛い誤算であった。
舞踏会の会場では、いかに人目につかずに早く帰るかを画策していたので、殆ど食事らしい食事を取れていない。
本当はお菓子と言わず、じゅわっと音を立てる焼きたてのお肉などがいただきたいところだ。
そう考えてしまったアンティは、自分の想像の中の美味しいお肉に心を殺されてしまい、一人になった部屋の中で苦しみ暴れた。
(ただでさえガーウィンには、私が食べたいような、美味しいお肉の名物料理がないのに……………!!)
ヴェルクレア国内でアンティが心を躍らせるような料理があるのは、王都を有するヴェルリアと、雪と魔術の潤沢なウィーム領だろうか。
その二領には、鉄板ステーキや甘辛いたれに漬け込んで焼いた燻製肉、ローストビーフやシュニッツェルなどの名物料理があるのに対し、このガーウィンの名物料理は激辛スープのみである。
そのあんまりな仕打ちに加え、日々の食卓に並ぶ料理も上品で繊細だが物足りないものばかりとくれば、そろそろアンティの精神状態は限界に近かった。
(博物館で働いていた頃は、自分のお給金で好きなものを食べられたのに…………)
そう思えばいっそうに空腹感が募り、アンティは喉の奥で小さく唸る。
ここで出される料理の味付けが自分に合わないと察してから、参加させられた舞踏会でこっそり塩と胡椒の小瓶は盗み出してある。
祝祭の朝に戸口にかけられていたまじないのリースから盗んだ小枝を修復の魔術で根付かせ、この部屋に面した庭の一画にこっそりローズマリーも育てていた。
となるともう、後は食材さえあればいいのだ。
「……………ふむ」
窓の向こうの領主館では、まだまだ舞踏会が続いているのだろう。
それはつまり、まだ暫くの間この屋敷の主人は帰ってこないということだ。
ゆっくりと立ち上がったアンティは、儚く微笑んだ。
今日の舞踏会はさすがに領主館での開催とあり、給仕たちの質が高く、淑女の作法を脱しない程度にしか料理がつまめなかった。
とは言え、それは言い訳に過ぎない。
評判なんてものを気にして食事を疎かにした己の浅はかさを悲しく笑い飛ばし、ここからは自分の為のほんの少しの我が儘を許して貰おう。
この夜程、アンティがハルヴェールの無関心さに感謝した事はなかっただろう。
だが、後に事件の解決に追われる教区の警備兵にとっては、その限りではなかったのかもしれない。