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序: 春待ちの地下牢と癇癪持ちの乙女




記憶の中のあの日で、こつこつと踵が鳴る。

漆黒のケープを翻して夜水晶と泉結晶の階段を登るその後ろ姿を、何度胸の中で繰り返し思い浮かべただろう。



瞼を閉じると現れるのは、いつだってあの凍えるような光を孕んだ水色の瞳だ。

漆黒の軍服めいた装いには、妖精の金糸刺繍が施されており、魔術の風に揺れた長いケープの裏地は、はっとする程に青い。



それは、美しい竜であった。



彼は冬の星を司る竜の王で、この国では唯一の信仰の在り処として、王にも等しい権限を与えられていた。


幾つかの竜種のように人型となった頭に角はなく、襟足に触れるくらいで切り揃えられた流れるような銀白の髪に、流星雨の夜を溶かしたような冷たい水色の瞳。


冷ややかな美貌にすらりとした竜種らしい長躯で尊大に王座に座る彼は、気紛れな虐殺も珍しくはなかったし、人間の国の王に請われてこの土地に守護を与えたものの、これまでにただの一度も微笑んだ事はなかったと言う。



彼がどれだけ微笑まないのかと言えば、アンティ程にそれを思い知らされた人間もいないだろう。


その手の長剣で足を払われて跪かされ、指先すら触れずに断罪された。

あの時、磨き抜かれた床に映ったその姿をじっと見つめ、何て冷たい宝石のような瞳なのかと嘆息したものだ。


こちらを振り向きもせず、目障りなものを片付けておけと、衛兵達に冷たい声だけを残して立ち去った王の表情には、確かに微笑みの欠片も見当たらなかった。




竜は、ごく稀に、そして生涯にただ一度だけ、その宝を得られるという。



その宝は、魔術の誓約において主従を定める契約の子供とは違い、運命や因果の魔術に根差した特別なものだと言われている。


しかし、因果と成就の魔術で結ばれたその恩寵は、決して誰にでも訪れる幸運ではない。

その結果、契約の子供を得て愛情をかけたり、どうしても竜の宝が欲しい者たちは、宝珠を作りそれを宝として慈しむ事も多いのだとか。




だからアンティは、竜が大嫌いだった。



そんな風に竜の宝を慈しむと言いながら、自分では竜の宝が見付けられない竜は、なんて愚かな生き物だろう。


泣いて取り縋る程に優しい心など、もはや無残に引き裂かれてしまい、明日には断頭台に登るアンティは、心からその美しい生き物を呪う。




(………竜なんて大嫌いだ)



たった一度だけでも、その手袋を外してこの手に触れれば気付いただろうに。

それをせずにアンティを殺す竜が、心から大嫌いだ。




だからこれは、アンティが仕組んだ最後の復讐である。





今のこの国の社交界では、一人の可憐な少女の話題で持ち切りであった。



人間より遥かに長きを生き、残忍で気紛れなその竜の王が心を開いた、竜の宝だというただ一人の乙女。


意地悪なアンティの目にはほんの少しの変化しか認められなかったが、それでもあの陽だまりのような可憐な微笑みを湛えた第二王女は、この国に守護を与えた古き竜の氷の心を溶かした。


その一方で、王女が竜に出会う前からこの王宮に滞在していたもう一人の少女が、自分こそが竜の宝だと託宣を偽り王に近付こうとしたことはあまり噂には登らない。


とある高位貴族の推挙により連れて来られたそちらの少女は、王の不興を買い、明日の朝には処刑されてしまうという。


だとしても人々は、その哀れな乙女を無理やり王都に呼び寄せ、王に差し出したことはどうしても忘れていたいようだ。



これから王都は春を迎える。



美しい春の花が咲きこぼれ、花の中に稀少な祝福の結晶石を育むチューリップや、明るく光を宿すようなミモザの花が咲き乱れる優しい季節を前に、残虐な冬星の竜の王が伴侶を得るであろう慶事に沸き立っていた。



興味のない悲劇をぽいと放り出し、乱暴に打ち捨てられた贈り物の包み紙のように、くしゃくしゃになったアンティの事は、誰も顧みない。



だからこそアンティは、自分を殺すと決めてしまった残忍な竜を、この世界に一人ぼっちで置き去りにしてゆこうと思う。


竜の宝を失った竜は、ゆっくりと狂気に蝕まれやがては崩壊するか狂乱するというし、であれば、あんな我が儘な竜はそうなるがいいと願ってしまうくらいには、もうアンティは充分に傷付いた。



矜持を傷付けられ、絶望し、咽び泣いた。



省みられないどころか、ただの一度も気付かれないまま、どうでもいい路傍の小石として葬り去られる竜の宝は、私こそが正しい運命なのだと声高に叫ぶ程に優しい心根の人間ではないのだ。



誰しもが真っ当で優しく、善良で聡明だと思わない方がいい。



特に、自分は誰からも愛されないのだと思い知らされてしまった人間にまでそうあれと願うのは、あまりにも酷な話だろう。



そうして、この身を蔑ろにした報いを受ければいい。



そんな最後の反撃が、明日には文字通りに我が身をも滅ぼすのだとしても、だからといって傷付けられて受けたこの痛みを、どうしてアンティだけが一人で飲み込まなければならないのか。


そう考えてしまうアンティは、説明するまでもなく盛大に性格が捻くれていた。


だが、考えてみても欲しい。


何年も試験に臨みやっと手に入れた国立博物館での仕事を辞さねばならず、そうして呼びつけられた王宮でこの扱いなのだ。

それはもう、心はけばけばになるし、最後に嫌がらせの一つでもしてゆこうかという気にもなるだろう。

私の人生をどうしてくれるのだと怒ってこの拳を振り上げても、許される筈なのだ。



(だから、…………あなたは私がもういなくなった後で知ればいいのだ。私を喪った事を後悔せずとも、自分の失態にむしゃくしゃすればいい…………)



地下牢は暗い。

地下の冷たい水の匂いに辟易し、がしゃんと音を立てて閉まるどこかの牢獄の扉の音を聞きながら、アンティは、人生で最後の夜になる冷たい暗闇の中で、とても満ち足りた思いで目を閉じる。



本当は、こんな牢獄から逃げ出す事など簡単だった。



アンティは敢えて公言せずにひっそりと暮らしていたけれど、有能な魔術師である。

さしたる能力もない女だと皆が油断しているのをいいことに、ここから逃げ出してどこか別の国にでも行き、そこで新しい人生を立て直すという手もなくはない。



(けれど……………、)



けれど、アンティが貴族達の権力闘争に使われただけの被害者であると薄々気付きながら、けれどもお気に入りの王女の為に露払いをしようとこの身を断頭台に送り込むあの竜に報復してやるのだとしたら、これ以上の手段はないだろう。



アンティは、ハルヴェールが自分の竜の宝を自分の手で壊すその機会を、自分を生かす為にだって失うつもりはなかった。



心の狭い人間を怒らせたらどうなるのかを、その身を以って知るがいい。

これがあまりにも破滅的な癇癪だとしても、もう意地でも絶対に彼を許さないと決めたのだ。




だからその夜はもう、たまたま用事があって牢獄を訪れたハルヴェールが、何かの偶然でうっかりアンティに触れ、ここにいる乙女こそが竜の宝だと気付くというようなご都合主義の夢は見なかった。



どれだけの日々を、そんな夢を見て、そんな奇跡を思い描いて、この心をずたぼろにしてきた事か。


跪かされ牢に放り込まれたあの日に、たった一度だけ私を見て欲しいと願ってしまったあの言葉を思い出すたび、アンティは牢獄の壁に頭を打ち付けたくなる。



可愛らしく微笑む王女に、ふっと眼差しを和らげて瞳の色だけで微笑んだ彼の姿に、浅はかな期待を粉々にされた日のことも忘れよう。




(次に生まれ変わるなら、絶対に竜がいない国にしよう………)




ただ、そんな願いだけはしっかりと心に刻み、アンティは眠りに落ちた。







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