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26*Afraid

 Afraid――恐怖


▼C11H17N2NaO2S‬

 ――わからない。

 メチルフェニデートが転級してきてから、出てきた情報が多すぎる。


 最初から知っていること。

 それは、『はじまりの薬』のこと。

 この学校が学校ではないこと。

 特定ではあれど、多数の人間に目をつけられていること。

 サリンが取り付いている、三川みかわ早織さおりという人間のこと。


 最初からは知らないこと。

 それは、メチルフェニデートのこと。

 メチルフェニデートを服用している、神宮寺じんぐうじ彼方かなたという人間のこと。

 数日前まで神宮寺彼方の夢の中に現れていた、メチルフェニデートによく似た少女――『黒の少女』のこと。


 三川早織のことは、サリンから聞かされて知っていることもある。けれど、神宮寺彼方のことはどうだ。

 神宮寺彼方について知っていること。

 それは、三川早織と同じ学校の生徒であること。

 今はメチルフェニデートの参考服薬者レシピエントであること。


 それより、今は否定する9人(ナインズナイン)のことだ。

 否定する9人のことなら大方知っている。特にそれを率いるメイン4人は、いずれも上位会議に数えられている。


 麻薬界の女帝、C21H23NO5・ジアセチルモルヒネ。

 生徒会長のモルヒネさんを、無水酢酸で数時間煮ることによってアセチル化した結果があいつだ。今はその強すぎる薬効と依存性により封印されているものの、封印を解かれてしまう可能性もないわけではない。

 もしそうなるなら、面倒な相手だ。


 荒神の操り手、C17H13ClN4・アルプラゾラム。

 ベンゾジアゼピン系の抗不安薬で、ジアゼパムに似たバランス型の薬だ。あいつの断薬は、その深刻な反跳と離脱症状のため特に困難であるとされている。フェンタニルとの相乗効果で、とあるラッパーが犠牲になったのは知るところであろう。

 一見無邪気で純粋に見えるのが、あいつの恐ろしいところだ。


 百発百中の殺戮兵器、C22H28N2O・フェンタニル。

 あいつは俺やケタミンと同じ全身麻酔薬だ。2018年8月14日には、アメリカ・ネブラスカ州にて死刑執行に使用された。彼もまた強力で、単純な薬効だけでもジアセチルモルヒネの50倍は強い。

 あいつは物事に感情を挟むことがないから、そこに訴えることはできないと見ていい。


 篭絡の皇帝、C21H27NO・メサドン。

 依存症の治療に用いられるオピオイド系合成麻薬だ。俺と同じく代謝されるのが遅く、非常に高い脂溶性を持つ。適正な使用量においてはジアセチルモルヒネへの欲求を減少させる効果があるが、ジアセチルモルヒネよりも彼から抜け出すことのほうが難しいと感じる者もいる。

 あいつからは、どこかケタミンに似た狂気を感じさせる。


 彼らが狙っているのは無色のジョーカー、C14H19NO2・メチルフェニデート。

 彼女とは会ってそこまで長くないため、周りから彼女について聞かされるまでは知らなかったことも多い。


 もちろん、薬物としての彼女の特徴は把握している。

 彼女はスイスのチバ社、現ノバルティス社によって1944年に合成された精神刺激薬である。分身わかちみは1954年に特許が取得され、ドイツで発売された。日本ではリタリン、コンサータとして流通している。

 それぞれの適応症は、リタリンがナルコレプシー、コンサータが注意欠陥・多動性障害である。それぞれ流通管理委員会が設置され、流通が厳格に管理されている。

 比較的依存形成しにくいものの、精神的依存の報告がある。一般的な副作用は、眠気、不眠、頭痛・頭重、注意集中困難、神経過敏、性欲減退、発汗、抗コリン作用などである。

 麻薬及び向精神薬取締法で第一種向精神薬に、医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律で処方箋医薬品・劇薬に指定されている。


 メチルフェニデートは、デキストロ体のみが薬理活性を持つ。

 その薬効部分を司る『黒の少女』――デキストロメチルフェニデートが、ある特定の条件で暴走し、彼女の体を支配するようだ。『黒の少女』は薬効とは別に、触れたものをボロボロに壊す能力を持っているとのこと。

 メチルフェニデートが専用の装置を身につけることでとりあえずは制御しているが、それもいつ壊れるともわからないらしい。


 今のところ否定する9人、『はじまりの薬』、ヨコハマ市薬剤師会が『黒の少女』に目をつけている。否定する9人と『はじまりの薬』は前々から、薬剤師会は神宮寺彼方の夢に出てきたことで、それぞれ目をつけるようになった。

 

『黒の少女』が暴走する、ある特定の条件とは何か。それが俺にわかれば、対策ができるかもしれない。

 だが、その条件を知った者が、わざと暴走させようとする可能性もないわけではない。ジアセチルモルヒネやアルプラゾラムならそうするだろう。

 俺が防ごうとすればジアセチルモルヒネ達や、薬剤師会の人間に取り憑いているパラモルフィンさん、彼と協力しているメチルモルヒネさんと戦うことになってもおかしくはない。もしかしたらデソモルヒネやシロシビンあたりも面白がって乗ってくるだろう。その場合、協力できるのはフルニトラゼパムやジアゼパム、トリアゾラムさんやエフェドリンさんなど、比較的人間寄りのスタンスを取る薬だろうか。


 ――いや、ここはサリンを呼びつけることもできるだろう。

 サリンは俺が連絡をすれば確実に飛んでくるし、何より有事の際は松本先生に協力すると言っていた。もしかしたらの話だが、ソマンやそのふたりの仲間だと言っていたタブン、イペリットやルイサイトも戦力に加えられるかもしれない。…ちょっと待て、タブンはどうだろうか。俺に敵愾心てきがいしんを持っている彼女が、果たして協力してくれるだろうか。

 彼女らはジアセチルモルヒネとは別ベクトルで人間に多大な影響を与えるため、原則として使用は禁止されている。だが、薬同士の戦闘の際は特に制限を受けない。

 ――彼女らならば、『黒の少女』を止められるのだろうか。


 ふと浮かんでくるのが、ある一つの可能性だ。

『あちら側』…ジアセチルモルヒネ側に、ケタミンが乗ってきたら。


 俺は、彼女には大きな借りがある。

 ヒスタミンの遊離作用を有する俺は、喘息患者に使用すると気管支が痙攣してしまう恐れがあるため、喘息患者に対する薬効の行使は禁忌とされている。その時代わりをいつも務めるのがケタミンだ。故に俺は頭が上がらない。

 だが彼女は、状況次第で彼女自身が憎んでいるジアセチルモルヒネの側に乗じることがある。それを俺は懸念しているのだ。


 松本先生は、一体どこまで知っている――?


 ***


▼三川早織


 RRRRRR…RRRRRR…

 卓上のスマートフォンが鳴る。凛々りりかからだった。

「もしもし…凛々香?」

『ああ、アタシだ。…早織?早織なのか?』

「そうよ。私以外に誰がいるのよ」

朱紗つかさとか、真結まゆとかじゃね?』

「…そうかもしれないわね。でも私よ。で、用件は何かしら」

『あー…うん。もうすぐ年末だろー?』

「そうね。それがどうしたと言うの」

『だからアタシ、日本に一時帰国するわー』

 凛々香は親の仕事の都合でアメリカに引っ越した。その凛々香が、一時帰国すると言っているのだ。

 今はちょうど帰省の時期だから、普通なのかもしれない。

「…そうなの。で、質問いいかしら?」

『別に構わねーよ?」


「最近、眠れているかしら?」


 凛々香は慢性的な不眠症のため、ロヒプノール――フルニトラゼパムという薬を飲んでいた。

 だが、フルニトラゼパムをアメリカに持ち込むことはアメリカ側の法規制上不可能なため、手放さざるを得なかったらしい。


『心配すんなって!アタシは寝れてるぞ?』

「薬は飲んでいるの?」

『ああ、レンに…レンドルミンって薬に切り替えたぞ!なんかロヒプノールとおんなじ系統の学校にいる薬なんだって。アタシのことお姉ちゃんって呼んでるんだよなー』

「レンドルミン…ね。調べてみるわ。で、いつ頃帰ってくるの?」

『クリスマスの日は無理そうだから、その次の日に帰ってくるよ!』

「そう…真結達にも伝えておくわ。それじゃ!」

『またなー!』


 私はそこで電話を切った。


 ――サリン、レンドルミンを知っているかしら?

 ――『うーん…知らない薬ね。チオペンタールのところに電話して訊いてみるわね!』

 ――ありがとう、よろしくね。

 ――『勿論よ!私もチオペンタールの声が聞きたいから!』

 ――貴方達は一体どういう関係なのよ…?


 サリンの情報を待っている間、私もレンドルミンについて調べてみることにした。

 こちら側からだと薬としての情報しか手に入らないが。


 検索窓に『レンドルミン』と入力する。

 ――あった。


『C15H10BrClN4S・ブロチゾラム。チエノトリアゾロジアゼピン系の睡眠導入剤、麻酔前投与薬の一種。短時間作用型。商品名レンドルミン、ほかで販売される』


 ――へえ、こういう薬なの。

 ――でもここからだと…人となりは分からないわね。

 ――『やっぱり訊くしかないじゃないの!』

 ――そうね。今から向こうに電話するから、代わってくれる?

 ――『ええ、お願い』


 チオペンタールのいるところ――ヒュギエイア機関日本支部に電話を掛ける。


 RRRRRR…RRRRRR…


「もしもし、三川です」

『ええ、松本よ。何か…?』

「レンドルミンってどういう薬ですか…?」

『あの子…ブロチゾラムはここの管轄ではないわ。アメリカ支部の薬なの』

「そうなんですか…あ、チオペンタールは…」

『代わってほしいの?…じゃあ』


 松本先生がチオペンタールと代わったのを見越して、私もサリンと代わる。


▼C4H10FO2P


『…C11H17N2NaO2S・‬チオペンタールだ』

「もしもし、サリンよ‬。レンドルミンを知っているかしら?」

『レンドルミン…?ああ、ブロチゾラムか。彼女についてはあまり知らないが…そうだな、エチゾラムってわかるか?』

「そうなの…エチゾラムって、早織の先輩の明菜あきなさんって人が使ってた薬ね?」

『ああ、その人間については彼女から聞いたぞ。ブロチゾラムはエチゾラムと同じ、チエノトリアゾロジアゼピン系の薬だ』

「そういうことではないわ。人となりが知りたいのよ」

『人となりとなるとな…すまん』

「知らないということね、いいわ。…チオペンタールはこちらに言いたいことあるかしら?」

『ああ、頼みがあるんだ』

 チオペンタールの頼みとは、一体何だろうか。


『デキストロメチルフェニデートは、サリンも知っているな?』

「神宮寺さんの夢の中に出てくると言っていた子ね?それがどうしたのかしら?」

『そいつはある特定の条件で暴走するらしいんだが、その条件を知った奴がわざと暴走させようとする可能性もあるんだ。それを防ごうとすれば、暴走させた奴と戦うことになってもおかしくはない。その時――』

「…私が?」


『――一緒に戦ってくれないか?』


 チオペンタールと共に戦える。

 あの組織にいた時はチオペンタールが自白剤として、私が兵器として使われていたので、結局共に戦うことはなかった。

 けれど、今度は違う。同じ場所で戦える。


「勿論よ。アメリカで製造停止になってから腑抜けてるんじゃないでしょうね?」

『そんな訳はないだろう。むしろお前はどうなんだ』

「決まっているでしょう?プラリドキシムヨウ化メチルやアトロピンが来ない限り、大丈夫よ」

 プラリドキシムヨウ化メチル。有機リン剤中毒の特異的な解毒剤である。

 アトロピン。抗コリン作用を有する薬物である。


 あの時も――1995年3月20日の地下鉄サリン事件の時も、原因の化学兵器が私だと特定されると、特効薬だとしてあいつらが大量に使われた。


 私のような有機リン剤は、神経の化学伝達物質・アセチルコリンの分解酵素・コリンエステラーゼの酵素活性中心に結合することで、本来のアセチルコリン分解作用を失活させる。そのことによりアセチルコリンの作用を増長させ、意識障害、徐脈、血圧低下、縮瞳などの中毒症状を引き起こす。

 けれどプラリドキシムヨウ化メチルは結合した私達を切断解離させ、コリンエステラーゼ活性を回復させる。アトロピンはアセチルコリン受容体に結合し、アセチルコリンが受容体に結合するのを妨げる。


 そうやってあいつらは私達の毒を解毒――私達の邪魔をしてしまう。

 それが私達の弱点でもあるのだ。


 ただし、私達がコリンエステラーゼに結合して一定時間が経つと、エイジングと呼ばれる不可逆変化が起こり、あいつらは効かなくなる。私のエイジング時間は約5時間なので、曝露してから5時間が経てば確実に解毒はされない。


「あいつらが来るまでに5時間稼げればいいのだけどね…ソマンは私よりエイジング時間が短いから、手伝ってもらうかもしれないけど…」

『構わない。むしろ俺もそれを望んでいる。…だが、プラリドキシムヨウ化メチルはこの学校の代謝科に、アトロピンは器官系科に所属している。だからお前が来れば、戦うことになる可能性も高いだろうな』

「そうね…でもそうなったら私はイペリット達を呼ぶわ。彼女達にあいつらは効かないと思うから」


 イペリット――マスタードガスと、ルイサイト。

 遅効性であるイペリットと即効性であるルイサイトとを組み合わせて、マスタード-ルイサイトとして使うことがある。

 イペリットは蛋白質やDNAの窒素と反応しその構造を変性させたり、DNAのアルキル化により遺伝子を傷つけたりすることで、ルイサイトはピルビン酸デヒドロゲナーゼ系酵素の阻害をすることで毒性を発揮する。その為、彼女達にプラリドキシムヨウ化メチルやアトロピンは効果がない。

 さらに彼女達は繊維やゴムを透過する性質があるため、普通の防護服では防ぐことができない。


『…頼んだぞ』

「勿論よ。神宮寺さんの為でもあるけど、チオペンタールの為なら私は幾らでも頑張るから…信じなさい」

『ああ、お前には信頼を置いているからな。…俺はケタミンには頭が上がらないが、お前はケタミンと特に確執はないのだろう?』

「ケタミンね…ええ、ないわ。誰かが貴方の邪魔をするならば、誰彼構わず斬るだけよ」


 ――『貴方達は付き合っているのかしら?』

 ――ええ、そんなところよ。

 ――『薬同士なら…いいんだ…』

 ――人間と薬じゃないんだし、いいのよ。


 薬が人間と付き合うことは、それなりのリスクがある。

 まず、私達には人権がない。人間のように保障されて生きることはできない。本来は私達がこのように人格を持つこと自体が化学的あるいは生物学的に有り得ないことで、ヒトの姿や人格を持つのはただの神様の気まぐれのようなもの。

 それに、私達には寿命という概念もない。分身という依り代がある限りは何処かで半永久的に生き続ける。だから、人間の方が先に寿命が来てしまう。

 だから、あまり人間に深入りしないスタンスを取る薬が多い。


『それでこそお前だな、サリン』

「当たり前でしょう?誰が霞ヶ関駅で13人も始末したと思っているのよ?」

『お前しかいないだろう?』

「そうよ…別に好きでやったんじゃないんだからね?仕方なくよ、仕方なく」


 あの時――

 始末したのは、13人。

 重軽傷を負わせたのは、6000人余り。


 最も私が好きでやったことではなく、組織の命令だった。実際、私はそれに疑問を抱いていたが、私の意思は届かなかった。

 それもそのはず、私は意思を持ち得ない者――薬だからだ。


 ――『あの時…って、いつのこと?』

 ――早織は知らないのね…『地下鉄サリン事件』よ。

 ――『そう…貴方、本当に』


 ――『…薬なのね』


 ――今更何を言っているの。

 ――私はサリン。イソプロピルメチルフルオロホスホネート。

 ――薬として私を使う者がいるのならば。

 ――私はただ、使われるだけよ。


 そう。私はただの一化学物質に過ぎないのだから。

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