わしの家に咲く桜
花というのはまことに美しいものじゃ。
わしは中でも年寄りらしく盆栽が好きなのじゃが、いやどこから見ても「あっぱれ」と言えるようにそろえるというのは、中々大変なものでな。美的感覚の乏しい人間としては苦労が絶えないものじゃ。
それに比べ、お隣さんの庭に生えるは、放置し放題の美のなんたるかも感じさせないただの木じゃ。
ピンク色の花を咲かせただけの桜の木が、四メートル弱の図体をこれでもかとアピールするかのように堂々と立っており、わしの家まで侵入を心みている。
なんとも嘆かわしいものじゃ。わしが苦労して完成された日本の美を『桜』ともいえない『ただの木』が邪魔をしている。もう一度言う。なんとも嘆かわしい。
「ばあさん、ばあさん! あの枝を切り落としても良いかのう。あの佇まいは、わしの寿命を二年は縮めているような気分になる」
「そんなことできるわけないじゃないですか。お隣さんにはお隣さんの事情があるのですよ」
ばあさんは呆れたように目線も合わさず洗濯物を干す。
「なにが事情じゃ」
わしのストレスは日に日に増加していった。
そしてその日は訪れた。
数カ月たったある日、桜の枝はとうとうわしの顔にまで触れるほどになっていた。頬に触れた時、その瞬間、わしの沸点は一秒で全身を駆け巡り、怒りは頂点に達した。
「もう我慢ならん! わしを怒らせたらどうなるか、わからせてくる!」
「やめておきなさいって」
ばあさんの呆れた顔を横目に、わしはお隣さんの玄関に向かった。
「田中さん、田中さんはおるか!」
その声量は近所迷惑とまではいかなくとも、大音量で聴こえる演歌くらいの音量はあったじゃろう。
「どうしたんですか、宮永さん? そんな大声だして」
大学受験を控えている女子校生が眠そうな顔で欠伸をかき、のろのろ出てきた。
「どうしたもこうしたもあるか! 見ろ、この木を! わしの庭を枝で埋め尽くす気か!」
わしの顔色がどれほど赤面していたかわからぬが、田中さんは眠気が吹き飛んだように目を丸くしておった。
「す、すみません! わたし全く気付かなかったもので、ほんとうに申し訳ありません! ご迷惑をおかけしました!」
そう言ってきっちり九十度のお辞儀をして、謝罪する田中さん。意外と律儀な態度じゃったので、いつの間にか、わしの怒りは六十パーセントほどに低下していた。
「ま、まぁわかってもらえたなら良い。ではわしの庭に入らぬよう頼んだぞ」
田中さんはみるみる顔色を変えていき、みるみる女子学生ならぬ真っ青な表情に変化させおった。
「……すみませんが……それはできません」
「なんじゃと!」
話が違うではないか! 近頃の若者は礼儀の一つも知らん罰当たりしかおらんのか?
「どういうことじゃ! 現にそなたの家から生えているこの桜は、わしの家まで侵入を試みておるではないか!」
わしの怒りは九十パーセントまで戻りつつあった。
「す、すみません……」
「すみませんで済む問題か!」
怒りに身を任せて怒鳴り散らす準備はとっくにできていた。
が、
「えっとですね、わたしの妹が病気なのは知っていますか?」
田中さんの思わぬ返答に、わしは思わず冷静になってしまった。ほとんど会ったことのない子じゃからのう。あぁ一度ばあさんに聞いたことがあったな。
「たしか、数日に一回程度しか学校に通えないほどには病にかかっているとのことじゃったな。じゃがそれと木に関係はないではないか」
「……では宮永さんは、あの裏口がいつも空いていることはご存知でしょうか?」
「裏口じゃと?」
指を指された先に目をやると、確かに戸は全開に開いた状態になっておった。
「それがなんじゃというのじゃ」
「はい、私の妹はほとんど寝たきりの生活を送っていまして、外の景色を見る機会があまりありません」
「なるほど、それは気の毒なことじゃな」
「妹は空と桜の花が交わる景色がとても好きでして、毎日そのことばかり話してます。しかし、運の悪いことに家の構造的に私の庭だけでは桜の花は見えないのです」
そこでわしは、はっとした。そうか、そうじゃったのか。
「では、妹に空と桜を見せる為に、わしの家にまで枝を伸ばしていたのじゃな」
田中さんは、はい、とわしの瞳を見つめ、力強くうなずいた。
「ご迷惑をおかけしたことは、ほんとうに申し訳ありません、ですが、妹の笑っている姿が彼女の生きる目的になっているのなら、わたしは何度土下座してでも宮永さんの許しをこいたいと思っています。自分勝手なのはわかっています。それでも――どうか」
なるほど、そういうことか。
「もう良い」
「え?」
「もう良いと言っておる。むしろ謝罪しなければならないのはわしのようじゃ。こんなにも妹思いの若者が日本にまだいたとはの。わしはとても清々しい気持ちになったぞ」
「で、では、枝を切り落とさなくても――」
「あぁ、存分に伸ばしてくれ。わしに姉妹の絆を桜という形に変えて、見せておくれ」
「はい! ありがとうございます!」
その日を境に、桜の木は、わしの庭を象徴する美の一部となったのは言うまでもない。