三.キスの練習?
「だ、誰っ?」
というか、今までのこと全部見られてた?
上を向いたままアホ面で『変な姉ちゃん』を連呼しながら歩いていたことを。
頭を真っ白にしながら視線を下ろすと――目の前に目をつむった女性が立っていた。
「あへっ?」
変な声を上げながら思わず僕は後ずさる。
が、女性は顔を僕の方に向けて唇を尖らせたまま、微動だにしない。
――まさかこれって、キスの体勢?
長いまつ毛に、きりっと筋の通った鼻。歳は二十歳くらいだろうか。
こんな女性とキスしてみたいけど、初めて会った人とそんなことをするわけにもいかないし。
「あ、あのう……」
僕はたまらず声をかけていた。すると女性のまぶたがゆっくりと開かれる。
大きめの二重の瞳の焦点が、僕の視線と合わさった。
――うわっ、可愛い……。
そして艶やかな唇から飛び出す身に余るお言葉。
「あれ? キスの練習って言ってませんでしたっけ?」
「そ、そそそ、それは、ただの語呂合わせで」
動揺まる出しのまま、僕は手に持っていた単語帳をパラパラとめくる。女性は興味深そうに中身を見つめていた。
「へぇ、面白そうですね。これって結構、手が込んでるじゃないですか。あなたが作ったのですか?」
「いえいえ、作ったのは悪友なんです」
イチゴパンツとかキスの練習とか、自分がそんなことを書く人間とは思われたくない。
「素敵な友達ですね。あなたへの愛が溢れてるじゃないですか」
愛といっても、いじめとか、からかいとか、そういう虐待的な愛だろう。特に今週の単語帳は。
「と、ところで、なんで、あなたは……」
「私のことはアルって呼んで下さいね」
「アルさんは、ぼ、僕なんかと、キスの練習をしてもいいって思ったんですか?」
「だって、あなたは私を呼び出してくれたじゃないですか。それくらいのお礼はしてあげるつもりです。ご要望のようですし。それに、温もりを伝える練習にもなりますしね」
「ご要望って、さっきも言いましたけど、あれは語呂合わせで……」
「そうでしたね、ゴメンなさい」
ペロっと舌を出すアルさんもまた可愛かった。
でも、呼び出してくれたって……どういうこと? そんなつもりは無いんだけど……。
僕は彼女の服装を観察する。
紺色のダッフルコートに温かそうな白いニットのセーター。厚手のフレアスカートは落ち着いて見えるけど、その下は……ええっ!?
「ごめんね、下の方は光が当たらなくてよく見えないと思うけど……」
あわわわ、視線を下げてガン見してるのがバレバレじゃないか。
「こちらこそごめんなさい。アルさんが綺麗でつい見とれちゃって」
「ふふふ、ありがとう。ところで私、そろそろ消えますけど、そういえばあなたの名前を聞いていませんでしたね」
「僕、新垣新治っていいます。言者山高校の二年生です」
もし彼女が死神だったら、名前を明かすと一緒に連れて行かれちゃうんじゃないかと一瞬思ったが、こんな美人の死神だったら名前を覚えてもらいたいと思ったのも事実だった。
「じゃあ新治クン、ちょっと目をつむっててくれませんか?」
目をつむるって、いよいよ魂を取り出す儀式か!?
そんなバカなことを考える僕の瞳をアルさんが覗き込む。彼女の懇願するような眼差しに負けて、ついに僕は目を閉じた。
「えっ!?」
不意に僕を襲う、唇の暖かい感触。
胸がきゅっと熱くなる。
ふっと暖かい風が僕の髪をなでたかと思うと、夜空の冷たさが再び降りてきた。ゆっくり目を開けると、そこには誰もいなかった。
「なんか、不思議な出来事だった……」
さっきまで目の前で起きていたことは実は夢だったんじゃないだろうか。そう思えるほどアルさんの存在には実感がなかった。
「最後のあれって、キス……だったのかな?」
さっきの唇の温かさが本物だとすると、僕は今晩、ファーストキスをしたことになる。
今でもなんだか心がふわふわだ。
単語帳に書かれていた語呂合わせの展開そのままだったことは気になるけど。
「とにかく可愛いかったなぁ……」
あの瞳で見つめられたら、どんな男性もイチコロだろう。
「でも……、アルさんの足が……見えなかった……」
アルさんって、いったいどんな存在なんだろう?
まあ、美人だからいいっか。
僕は宙を見上げる。ぼんやりと視界の隅に街灯の光を受けながら、彼女にまた会いたいと夜空に願った。