第一話 野分組
村の南の外れには、用水が流れている。
まだこの時代、村や集落は一つの点であり、点と点を道が結び、一つの線を作る。
やがて線は線とつながり、村や集落同士で郷を作る、更に拠点同士が往環という道で繋がり、一番強い点を中心に一つの藩となる。
そして藩と藩は街道で繋がり、中央へと向かい、中央を中心とした国家となるのであるが、おそらく村に暮らす天下百姓の民たちは、それほど気にも留めず、ほとんど自分達の暮らす村と、近隣の事のみで考えている。
大半の藩を治める藩主、そして藩主が任命した代官も、村に対しては税を徴収する代わりに、自治を認めており、村は村人から選出された村役人、複数の村役人を統治する庄屋によって治められていた。
そんな村の一つ。万斛郷の南端に上泉と言う名の集落が有った。
南にある本坂道の宿場町と、信州に向かう街道を南北に結ぶ往環路沿いにあり、自治体の南境にある地域で、流民たちを植民して開墾している。集落の南の境は、用水が走っていた。
当時、用水や小川は村の境界線であり、重要な水源であり、水争い等の自治体同士の争いの原因にもなる、いわば最前線とも言える。
そんな南の水路の往環沿いには橋が掛かっていた。橋と言っても大した規模では無いが、橋を渡らねば上泉側には入れない。
橋の上泉側には木戸が立ち、夜になると閉まる。当時は夜間の村同士の往来は禁止であったから、この木戸が閉まればお互いに行き来は出来なくなるのである。
木戸の脇には粗末な小屋があり、小屋の裏には火見櫓がある。小屋の北側には井戸を挟んで母屋があり、その北には祠、祠の裏には小さな畑があり、ちょうど母屋の裏手に厠がある。
そして、路を含みながらこれらの施設を柵が囲んでいた。この一見して砦にもなりそうな約百坪程の土地が上泉番所である。
泰平の世となってはいるが、戦乱の余波は各地に残り、この上泉のように流浪の民や落武者が居着きやすい土地もある。郷の内政を司る側用人は、色々な(頭を抱える)経緯の元、苦肉の策として流れてきた中の、落武者とみられる乱三夫婦と下男を、この上泉番所に住まわせ、金三枚一人扶持と言う足軽待遇でこの橋と上泉の集落を警備させたのであった。
夜が明け、禅寺が明け六つの鐘を鳴らす。この時代の生活は夜明けと共に始まるのだ。
番所の雨戸が外され、店先から腰に大小二本を差し、袴掃きな大男が現れた。おそらくは士分であるからこの番所の主であろう。
男はまず敷地内の祠に対して、手を合わせる。おそらくはこの番所の鎮守守なのだろう。
そして小屋から出てきた、粗末な着物の若者が、用水にかかる橋にある安普請の木戸の閂が外すと、これまた木戸は安普請らしい音を立てて開く。
袴掃きの男は、身の丈六尺とこの時代の人にしては大きい。この大男が上泉番所の主の野分乱三である。
朝に木戸を開け、日がな一日、ここで往来を見張り、日が沈むと木戸を閉め、集落の治安を守りながら、一日を終えるのが仕事である。万斛郷の名目上の主である、万斛殿の計らいで着いた役務であるこの番所詰を、乱三と、その妻とみられる奈緒と、下男の仁坊でやっている。
奈緒は乱三と共に起きて、家事をしながら裏庭で簡単な野良仕事をしており、無人になる場合だけ番所に入る。
大抵東の市場に出かける時や、毎日の朝の集落見回り、そして月に何度か万斛殿の屋敷や、村役人や集落の組頭の所に出かけるの以外は、乱三が番所を離れることは無いし、日中は大抵仁坊がいるので、奈緒は嬉々として最近仕入れた馬鈴薯なる芋を育て、収穫した馬鈴薯を番屋の店先で売っている。店先には他にも東の市場で仕入れた小物が販売され、主にワラジや蝋燭などの消耗品が売られていた。
この時代の番屋は、駐在所でありながらも貴重なよろず屋でもあり、村人も野良仕事を終えたのちに買いに訪れることもあり、時に野菜と馬鈴薯を交換していく時がある。
木戸を開けた男は仁坊。木戸脇の小屋に寝泊まりしている。
仁坊は木戸を開けた後に水路に行き、昨日しかけた小魚の罠を水路から引き上げた。罠にはタナゴ、モツゴ、ドジョウなどの小魚や小エビが掛かっており、用水の周りで採れるヨモギ等の野草や、扶持でもらう雑穀と共に、塩をふって鍋で煮込めば出汁の効いた粥となり、それで一日の食には困りはしない。
さらに用水の近くに住めば、水にも苦労はせず、肥やしは自分達が生産するので、畑の馬鈴薯を育てるには問題は無いのである。
そして、肥やしの管理や木戸の開閉、小間使いをするのは下男の仁坊の役目である。
木戸が開き、しばらくすれば路に人が見え始める。南にある宿場から、北にある郷の中心を中継して、引間藩の支城である二俣城に通じる街道に合流するこの往環は、比較的人の往来が多く、それだけに稀に不穏な人間が通る。
不審な荷を持つ輩、持ち出しを禁止されている長柄、火器、弓を持つ輩等は流石に少ないが、刀を差す輩は多い。藩士なら良いが、浪人等は注意が必要で、賊となれば捕縛せねばならない。
実権はほぼ無いとは言え、万斛殿は先主の側室であり、亡国の重臣の娘である。警戒するに越したことは無いのであった。
特に警戒を要する事態となると、木戸が閉められ、仁坊が火見櫓に登り、半鐘を鳴らすのである。
そうすれば半鐘を聞いた集落の民は、集落の中央にある禅寺に逃げ込み、集落の若衆が番所に集まる手筈となってはいるが、そこまでの事態にはなった事はない。
それ故、士分である乱三がここに詰めている訳である。その日は東の市場は開かれないので、買い出しなども無く、乱三は朝の集落の見廻りを終えて、番所に戻った。
集落の見廻りは、仁坊の仕事であるが、住民たちに変わりは無いかを確認したい乱三は、午前中に自ら一回りしている。途中、禅寺の住職と話をし、集落の情報を集め、禅寺の門前にある小さな茶屋では、住人たちの憩いの場でもあるから、禅寺と合わせて世間話がてら情報を集めるのだ。
週に一度は、そのまま万斛殿の屋敷に赴き、万斛殿に報告がてら世間話にも付き合うのが仕事の内となる。しかしながら、教養の薄い乱三は文雅に付き合わされても迷惑な話なので、その流れになる前に逃げてくる。目下の万斛殿の奉公人たちの願いは、文雅を解して尚且つ経理の才のある手代の出現だろう。
扶持の支給される日は、帰り道に扶持を大八車で運ぶ万斛殿付の下男と一緒に帰る。番所に帰ると、扶持を運んだ下男に駄賃を渡すのだが、本日は扶持の日ではなかった。
禅寺の正午の鐘がなり、午後は大抵奈緒の作る馬鈴薯料理の味見会が始まる。
馬鈴薯は腹に溜まるし、比較的簡単に栽培出来、蒸かして塩をふった物を、奈緒が上泉番所の名物として、安価で売り、北の街道沿いにある、田楽に対抗しようと画策しているために、味見を乱三と仁坊にさせているのである。
旅人なら、宿場町より出てすぐに手に入り、持ち運びしやすい弁当となる。集落の民なら、手軽に手に入る腹の足しとなると奈緒は主張する。
金銭で払ってくれれば、年に三回に分けて貰える金三枚(約一万二千文)と合わせて、生活必需品やよろず屋の商品を東の市場から仕入れる資金となる。
物々交換になっても、生活必需品なら有り難いし、野菜などの食料なら食費が浮く。さらに売れ残っても、自分達の食料になるし、さらに残れば種芋となると、奈緒は力説しているのである。
そして暮れ六つの鐘が鳴り、日が暮れる。
火見櫓に登った仁坊が、往来が絶えたのを確認したら木戸を閉めて閂を掛け、以降は基本的に木戸は朝まで通れなくなる。そして提灯を持った仁坊が、集落の巡回をする為に出掛け、軒先の商品を奈緒が片付ける。黄昏時の見回りは火の元や、迷い人、潜伏する外来者等を確認するための者であり、時に病人のいる家や、独り暮らしの者の家を訪ねて回る事もある。
仁坊は帰ると、木戸の脇の小屋に入り、そこで木戸の見張りを深夜までやり、夜六つの鐘がなってから、仁坊が眠ると、完全に番所は閉じられるのである。
上泉番所。だれと言うまでもなく、乱三の姓を取り、野分組と呼ばれる三人はここに居る。
【捕捉:万斛殿家臣団メモ】
作中内での万斛殿は、江戸時代で言う三百石取りの旗本格で扱う。これは史実と同程度の俸給であり、切米支給として三百俵とするので、一俵=金一枚の単純計算で俸給は金三百枚である。
ただし無役な為に扶持が無く、副業的な物も無い。
居住地は史実でも浜松時代に住んでいた、万斛村とするが、知行地では無く幽閉地であり、領内の自治権はあくまでも庄屋の朽木家ら村方三役にある。
家臣の数は、慶長年間に発せられた、江戸幕府の軍役規定を参考にするから、用人一名(庄屋権ェ門が兼任)、士分二名(隆起と乱三)、中間二名、女中二名が奉公人となる。
屋敷警護が隆起、番所詰が乱三といった感じで、隆起の方が格が上なので、隆起が二人扶持、つまりは部下を一人雇って役務するのが義務であり、乱三が一人扶持なので、本人だけ役務義務が付く事となる訳である。
万斛殿のモデルの阿茶の局は、旗本飯田家の娘ではあるが、設定上切り離されているので交流はなく、橘隆起は本来藩士であり、朽木の本来の役務はこの地の庄屋であるので、須和の局とは距離をとっている。
次に年に支給される金三百枚である。この金三百枚からまず人件費を支給する。
用人である朽木には金六枚と三人扶持が、橘隆起には金三枚と二人扶持、乱三には金三枚と一人扶持、中間二人には一人辺り金二枚、女中二人にはには金一枚半ずつとなる。
一人扶持は年間雑穀で十八俵が必要とされるので、これだけで約金十八枚、つまりは家臣だけで金三十九枚が必要となるが、これには下男と下女が含まれていない。
金二百枚から三十九枚を引いた百六十一枚から、下男と下女たちの扶持を出し、屋敷の普請をし、備品扱いの足軽、中間、女中の住まいになる長屋と上泉の番所の普請などを行う。
さらに普請を行えば、人足に俸給も出すし、使いの者には付け届けも出す。
そして身の回りは小綺麗にしなければならず、馬や輿にかかる経費もある。
また、作中でどうするか悩むのが手代である。要は民間採用の官僚なのだが、庄屋権ェ門以外に経理が出来る人間を入れれば、そこでまた金三枚一人扶持の出費となるが、雇わずに得ないだろう。
となれば、結構キツキツなのは確かだ。
それでも藩の財政的には、家老クラスの扱いなのは確かで、藩主の永見貞愛が須和の局に敬意を払っているのが分かる。
ちなみに作中内の貨幣は、織田が天下を取ったために、永楽銭が流通銭となり、永楽銭千文で銀一匁、銀六十匁で金が一枚となる。
物価は慶長年間の物価を参考とするので、乱三の番所で販売しているワラジが十五文、蝋燭一丁が十二文となり、禅寺の門前茶屋で饅頭と茶で八文、甘酒が一杯で八文となる。
そして米が一俵金一枚で買える。