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12 貴方が、生きてくれてよかった。


 彼の腕に抱かれたまま、私の持っていたナイフは、深々と彼の腹部に刺さっていきました。血が溢れ、私の口に入り、鉄の味が広がって初めて、私は現状を理解しました。


 どうして、という言葉が、かすれて音になりませんでした。イチサンは、静かに、私に語りかけました。


「嘘をついてごめん、ヨーちゃん。私はね、本当は君に殺されたくて仕方がなかった」


 イチサンが、そっと私の髪を撫でました。私は、イチサンが何を言っているか理解できませんでした。


「君に殺されることが、私の夢であり、希望でした」

 イチサンの足が崩れ、私がナイフの柄を離すと同時に、彼は静かに倒れていきました。



 血が、床にじわじわと広がっていきます。


 イチサン、と叫んだ気がしますが、よく聞こえませんでした。


 イチサンは相変わらず微笑んでいましたが、顔色はいつもよりも青白く、咳をすると苦しそうに顔をゆがめるのでした。


 私はすぐに彼の顔を抱きあげ、自分の胸に押しつけていました。



「ヨーちゃん、泣かないで」


 イチサンは、私の背中に静かに手をそえました。その手は、重力に逆らえず、床に向かって静かに落ちていきます。落ちた手は、血だまりの中に沈み、ぴちゃりと音をたてました。


「私の仮面を、とってください、ヨーちゃん」


 私は頷くと、すぐに腕に仕込んでいたナイフを取り出し、彼の仮面の紐を全て切り落としました。仮面は、イチサンの手と同じように、静かに落ちていきました。


 切れ長で黒目がちの目が、私をしっかりととらえていました。私は、そのとき初めて、彼の顔を見たのでした。


「雅、あんず、でしたね、貴方の名前は」


 私は頷きました。そのとき、何かを言葉にした気がしましたが、自分でもよくわかりませんでした。


「私の名前はね、ヨーちゃん、ああ、こっちのほうが、やはり、しっくり、きますね。ヨーちゃん、私はね、村井、善正って、言うんですよ。笑っちゃいますよ、善良に、正しい、なんて、名前の、男が、殺しを生業に、するなんて。

 殺す、ことが、私ができる唯一の、人助けの、方法だったん、です。貴方にね、会うまでは」


 彼の息が、途切れ途切れになっていきます。私は泣いていました。泣きながら、黙って彼の言葉を聞いていました。


「貴方、に会って、貴方を、この会社に、入れてね。貴方が、殺しをしたときに、ああ、私はこの子を助けた、と、思った、のですよ。

 結果として、あなたは、違う苦しみ、を味わった、かもしれない。でも、私はそれでも、生かして、貴方を生かして、助けたと、思っている。私はね、ヨーちゃん、彼の、上崎君のお姉さんを殺した、ように、簡単に、人を殺していた、のです。自分の尺度で、人をね。


 でも、貴方を殺そうとは、思えなかった。貴方は、辛くて苦しくて、でも、殺せなかった」


 はは、とイチサンは笑いました。笑ったときに、血がごぽごぽと音をたて、彼の口の奥から出てきました。私はその血から、目をそらすことができませんでした。


「なぜだか、分かりません。なんとなく、気まぐれで、貴方を生かしたの、かもしれません。

 でも、本当に、よかった。貴方を、生かしてよかった。貴方が、生きてくれてよかった。


 私は、貴方の新しい正義が、決まったときに、当たり前のように、貴方に殺されるほか、無いと、思えたのです。私の正義が揺らいでしまった、瞬間ですね。貴方が、誰かの代わりに、私に立ち向かってきたとき、私は、貴方に殺されることを、願ってしまう。私の正義は、ただの、エゴイズム、になってしまう。

 それでも、私は、いいと思えました。それこそが、幸せ、なのだと、信じて、やみませんでした」


 イチサンの声が、どんどん遠くなっていきます。血が、嘘みたいに、とめどなく流れていきます。それでも、私はイチサンの言葉を待ちました。それ以外に、何もできませんでした。


 イチサンは、私をじっと、見つめていました。


「ありがとう、ヨーちゃん。私は、今、満ち足りた気持ちで、すよ。私を、殺しても、ヨーちゃん、どうか、生きてください。彼のように、苦しんでいる人を、助けてください。

 貴方の、正義は、とても、とても、美しいのですから」


 イチサンは、ゆっくりと私に向かって微笑むと、小さな声で言いました。


「しばらく、貴方の、顔を見て、いません。仮面を取って、見せて、ください」


 私は仮面を取りました。目が合うと、ああ、とイチサンは目を細めました。



「素敵な、女性に、なりましたね。ずっと、見守って、いますよ」


 返事の代わりに、そして、私の想いを告げる代わりに、私は彼の唇に、自分の唇を重ねました。血の味がするキスが終わり、顔をあげると、イチサンはやっぱりいつものように笑っていました。



 私の頭をそっと撫でて。

 その手は静かに床を叩き、二度と動くことはなかったのです。


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