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12  思えば、イチサンはずっと、ずっと嘘つきでした。

「俺の代わりに、殺すって」


 上崎君が、静かに私の言葉を繰り返しました。私は、ナイフをくるくるとまわしました。少しだけ震えていましたが、失敗する気はしませんでした。


「殺したくなるほど憎んでいる人を、その人の代わりに殺してあげる。それが私の正義。

 人を殺してしまったときに、こんな思いをする人はいなくなるべきだって思ったの。

 でも、殺したいほど憎む気持ちも痛いほど分かる。


 だから、私が殺してあげるんだ。昨日までも、今日からも、これからもずっと」


 上崎君はイチサンを指差し、弱々しく叫びました。


「こいつは、このことを」

 言いかけたその言葉を、イチサンは静かに遮りました。

 両手を広げるその姿は、いつものように雄大でした。


「ヨーちゃんの正義は、ずっとずっと知っていましたよ。だからこそ、私の仕事にはいつも彼女を同伴させていたのです」


 私は、イチサンに向かって静かに笑いかけました。イチサンが、こくりと頷きます。私の後ろで、上崎君が震えた声を出しました。


「お前が殺す相手が、万が一お前を殺すほど憎んでいたときに、雅さんの正義を実行できるように……いつでも、雅さんが、師匠のお前を殺せるように、傍に置いていたのかよ」


「そうだよ、上崎君」

 笑いながら、私は奥歯を噛みしめました。

「この瞬間を、私は覚悟していたんだ」


「でも君は」

 私は振り返り、手の指を唇に当てました。上崎君が、ひるんで一歩、後ずさります。


 私はその瞬間を逃しませんでした。ナイフを背中に戻し、彼に近づくと、両肩の間接を順番にはずしました。耳をつんざくような悲鳴を上げ、上崎君は痛みにもだえ、その場で足をつきました。ついた足の右側を、私は静かに踏みつけて折りました。


「酷いことしますね、相変わらず」

 イチサンが苦笑します。わたしはイチサンの方に向き直って、イチサンと同じような笑みを浮かべました。


「死ぬほど痛いと思いますけど、あとで治る傷ですから」

「心の傷は治りませんか」

「治りませんね。ずっと私は、苦しいです。それでも、イチサン」


 私はナイフを抜きました。

「あなたがいたから、私は笑っていられるんだと思います。本当に、本当にありがとうございます」


 ずっと、イチサンは私の傍にいてくれました。

 人を殺したいと願ったときも、人を殺して混乱したときも、自分の新たな道を見つけたときも、ずっと、ずっと、私を支えてくれたのです。


「いいんですよ。私も今、幸せです。弟子の貴方と、こうやって対峙できるのですから」


 イチサンの言葉が素直に嬉しくて、私はふふ、と声を漏らして笑っていました。しかし、イチサンは私とは対照的に、口元から笑みを消しました。低い声で、イチサンは言います。


「でもね、ヨーちゃん、知ってますね。私は、あくまで恨まれた相手に殺されたいのです。

 私が本気で挑んで、本気で戦って、殺されたときに、安堵するのです。

 貴方は、その該当者では無い。それでも、私と戦いますか。私は、自分の身を守るために、貴方を殺さないまでも、ぎりぎりのところまで痛めつける気でいます。

 それでいいのですか」


「もちろんです。私を、彼だと思ってくれて構いません」

「そうですか。貴方は、私が死ぬまで、何度も私に向かうつもりですか」

「もちろんです。私の正義は、揺るぎません」


 イチサンはにたりと笑いました。

「そうですか。では来なさい」


 イチサンはそう言って、静かに構えてみせました。


 正義に例外はありません。あればそれは、エゴイズムになりさがるのです。イチサンに、私の新たな正義の話をしたときのことを、私は今でも鮮明に思い出すことができます。まるで今日の朝ごはんの話をするように、さらりと話しを切りだすと、イチサンはいつものようにうっすらと笑みを浮かべたまま、私に言いました。


「いつか君と戦うことになるんだね」

 その言い方が、とても嬉しそうだったと感じたのは、きっと私の気のせいです。


 彼が望む一番の幸せな死に方は、私にではなく、彼を恨んでいる人に殺されることでした。私が殺しにかかったら、イチサンに殺されるだろうという覚悟で臨まなければいけないことも、重々承知していました。


 いつか来るその日のために、私は日々、トレーニングを続けました。イチサンの仕事ぶりを見て、いつだって学んできたつもりです。


 そうしてそのときが来たのです。





 思えば、イチサンはずっと、ずっと嘘つきでした。

 私がナイフを向けながら、全力で彼に向かい、もう止まらない勢いがついたところで、


 彼は構えをといて、静かに両手を広げ、私を抱きしめたのでした。


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