11 「イチサン、私は人を殺しましたね」
あの日。殺したくてたまらなかった犯人を、やっとの思いで殺したあの日。
私は人殺しになりました。
これ以上ないほどに憎んでいた犯人、私の姉を殺した犯人を刺したときの感触は、一生忘れることはできません。ナイフを腹に刺したそのとき、私は驚愕したのです。こんなにも簡単に刺さるものかと、思ったのです。
まるで、鶏肉や牛肉を食べるときに、ナイフでそれを切るのと同じぐらいに簡単でした。
その後、血が出てきたのにも驚きでした。その量に驚いたのです。
赤い液体が噴水のように溢れでるのを見ながら、犯人のみならず、私にも、私の姉にも、私の後ろで私のことを静かに見ていたイチサンにも、こんなに血液が流れていることを初めて認識しました。
刺したときより、ナイフを下におろし、犯人の腹部を切り裂いたときの方が、抵抗があったように感じます。
ナイフを抜くと、犯人は背中から倒れていきました。手を横に広げ、その手がびくびくと震えていたのを覚えています。
初めての人殺しは、思い返せば驚愕の連続でした。さらに溢れる血も、そこから見える骨や内臓も、私にとっては始めて見るものばかりでした。
人間の中に、こんなにもたくさんのものが入っていて、常に動き、生きているのだと思うと、私は怖くなりました。不気味にもなりました。生きていることに対し、初めて恐怖の念を抱いたのです。
犯人は、大量出血で死にました。生きることはこういうことで、殺すことはこういうことなのだと、無言のままに教えられました。
ナイフを握り締めたまま、私はしばらく、死体を見つめて放心していました。後ろからイチサンに抱きしめられたときに、初めて私は、身体ががたがたと震えていたことに気がつきました。
風が強い日でしたので、私に振りかかった犯人の血が、私の身体を冷やしていきました。
イチサンは、何も言いませんでした。とても長い時間、ただ、私を抱きしめているだけでした。
私の耳の奥で、どくどくと脈打つ音と、血を流れる音がしていました。
犯人の身体から溢れる血を思い出しました。同じ色をした液体が、私の中に流れているのだと再認識します。
犯人のことを、人間では無い、別の物体だと思っていました。何の罪も無い少女、私の姉を殺したのに、のうのうと生きている、君の悪い別の、人に似た何かだと思っていたのです。しかし、切り裂いてみると、犯人は私のなんら代わりの無い、人間だったのです。
私は人間を殺しました。
人を殺したのだと、自分の鼓動音を聞きながら、はっきりと認識したのです。
ナイフが落ちて、私の足元を転がっていきました。
私は、震えながら、イチサンの腕をつかみました。
「殺しました……連絡を」
私は、何度もこの言葉を繰り返しました。連絡を、はやく、本部に連絡を。
犯人を殺した後、私は何もできない日々を過ごしました。何をするにしても、血と内臓と、切り裂いた感触を思い出してしまうようになったのです。
眠るときは、心臓の音が邪魔でした。
やっと寝ついたと思ったら、内臓と血にまみれた夢を見るのです。食事をしているときは、飲みこむたびに、私の内臓にそれらが運ばれているのだと思うと、それだけで気分が悪くなっていくのでした。
自分が今までどうやって生きてきたのかも分からなくなってしまいました。歩くことから、喋ること、笑うこと、全てに違和感を覚えるようになってしまったのです。
自分の発する声が、別のどこかから、それこそ、館長のように私の後ろから聞こえてくるような感覚に陥りました。
恐怖に泣き叫ぶような発狂の仕方はしませんでしたが、静かに、私は狂っていったのだと思います。
私が狂い、苦しんでいる間、イチサンは私の傍にずっとよりそってくれていました。彼は、特に何かをするわけでもなく、私と黙って食事をし、黙ってとなりを歩き、黙って傍にいてくれたのです。
私が質問をするとき以外、彼は私に話しかけてくることはほぼありませんでした。沈黙に、確かに私は救われていたのだと、後になって思います。
「イチサンは、こうなることを知っていましたか」
犯人を殺してから一か月ほど経った日、私はぽつりと彼に聞きました。イチサンは、答えを準備していたかのように、迷わず即答しました。
「知りませんでした。人それぞれですよ」
「イチサンは、どうなったんですか」
初めて人を殺したとき、と言うことはできませんでしたが、私の言いたいことをイチサンはすぐに汲みとってくださいました。イチサンは読んでいた本を閉じ、うーんとうなり、しばらく考えてから答えてくれました。
「どうでしたかね」
と、彼は思い出すように言いましたが、きっと言葉を慎重に選んでくれていたのだと思います。そのときはもちろん、そんなことを考える余裕はありませんでした。ただ黙って、イチサンの言葉を待っていました。
「……ショックは受けましたよ。衝撃、ですかね。人を殺す感覚も、血の溢れ方も、骨の色も、内臓の形も、自分で切り裂いて確かめるのは初めてでしたから……私も、初めて人を殺したのは、ナイフでしたよ。初めてのことばかりで、びっくりして、しばらくはそのことばかり考えていました」
イチサンの言葉を聞きながら、私は泣いていました。
何に対して泣いているのか、分かりませんでした。恐怖なのか、後悔なのか、興奮なのか、安堵なのか。自分の気持ちを言葉にできず、ぐちゃぐちゃになったまま、私はイチサンの隣で泣きました。
確実だったのは、人を殺して一か月ほど経って、やっと私はそのことを認識できた、ということです。
「イチサン、私は人を殺しましたね」
泣く私を、イチサンは黙って抱きしめてくれました。私の目からは、呼吸をするように、ゆっくりと、何粒も何粒も涙が流れ落ちていきました。
「私は人殺しですか?」
イチサンは、はっきりと言いました。
「そうですよ、ヨーちゃんは人を殺した、人殺しです。私と一緒ですね」
「私は人殺しを殺して、人殺しになったのですか」
「そうですよ」
「じゃあ、私も誰かに殺されるのかもしれないんですね?」
言うと、イチサンは私の頭をゆっくりとなでながら、少しさみしそうに言いました。
「そうです。貴方は誰かに、殺したいと思われるほどに恨まれるのですよ」
イチサンは、とてもまっすぐで、正直で、ごまかさない人でした。私は、彼のそういうところが、本当に本当に大好きでした。




