5 混ぜたら危険な薬品が、実はそこらへんで安価に手に入る。知ってた?
次の日は金曜日でした。私は学校に行き、席について早々、ため息をつきました。思えば、学校にいるときはいつでも、出社を楽しみにしていた気がします。
生活のルーティンにこういった、トレーニングもなにもしないような休みはありませんでした。しかし、仕事をしているのが大好きな私にとっては、苦痛でもなんでもありませんでした。
大好きなことをしているときは、まるでその対象に恋をしているように、一生懸命になる気がします。その対象は、人によって様々なのでしょう。
そういうのを生きがいというのだと、イチサンは教えてくれました。
かりかり、とノートに何かを書きしるす音がします。私はなんとなく、身体ごと振り向いて後ろの席の彼をまじまじと覗き見ました。
きっと、彼にとっては勉強こそが生きがいなのでしょう。
「おはよう」
ノートに難しい記号を書き連ねながら、上崎優斗君は言いました。
「おはよう。今日は何の勉強してるの」
「科学だよ」
「スイヘーリーベ、ボクノフネ?」
「それの難しいやつ。混ぜたら危険な薬品が、実はそこらへんで安価に手に入る。知ってた?」
「そうなの?」
「そうなの」
ノートのページをめくり、彼は一息つきました。
「危ないんだよ」
「……危ないのね」
そこで会話は終了です。私は何も言わずに前を向きましたが、上崎君は気にしていない様子で、勉強を続けていました。
昨日は物理、今日は科学。もしかしたら上崎君は、理科が大好きなのかもしれません。
黒路映画館に若きサイエンティストが入社したら、それは大きな利益になり得はしないだろうか、と私は思いました。彼の正義はなんでしょう。勉強し続けることが正義だとしたら、黒路映画館は喜んで留学費でも何でも出すような気がします。
上崎君をスカウト候補のひとりにして、私は自分の単純さに呆れてしまいました。
朝一早々、声をかけた人をさっそくスカウト候補にする。こんな調子では、きっと教室中の人がスカウト対象になってしまうと思ったのです。
しかし実際に、クラスメイトの中でスカウトができるかもしれないと思ったのは、上崎君のみでした。なぜでしょうか、その理由は、はっきりとはしません。
仲良くしている友達、そこまで話をしたことのない子、とりあえずクラスの子たちを誘えるか否か、授業中に考えてはみたのです。
結果として、全員なんらかの理由で「黒路映画館には不向きだな」と思えてしまいました。
家の事情や、性格や、雰囲気や、様々な理由があるとは思いますが、これという判断基準があったわけではありません。なんとなく、というのが一番分かりやすい理由です。
放課後、部活をしている人達を眺めながら、困ったものだと思いました。野球部のエースのあの子も、美術部部長のあの子も、黒路映画館には不向きな気がするのです。
学校中をうろうろして、最後に教室に戻りました。部活終わりの男の子たちが輪になって話していました。
「雅さん、珍しいね」
輪の中のひとりが、そう言って顔をあげました。そうかな、と私は笑います。そうだよ、と別の男子が言ったので、えへへと適当に笑っておきました。
机に置いていた鞄を取り、教室を出ました。学校を出る前に、なんとなく振り向き、校舎を眺めました。センチメンタルな気分になりたかったのです。
こんな箱の中に何十、何百もの人が毎日集まり、勉強をして、部活動をして、帰っていく。その繰り返しが当たり前でしたが、改めて見てみると、なんと混沌としていることか。
そんな気分に浸りたいために振り向いたのですが。
「……ちょっと!」
屋上に人がいるのが見え、慌てて私は校舎に戻りました。
屋上の手すりに身体を預け、ぼうっとしている上崎君の姿がはっきりと見えたのです。私の視力は裸眼で両目1.5。見間違いではないはずです。




