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3話「安積智彦と由香里」

《登場人物》

安積智彦

安積由香里

 パチスロ店の自動ドアが開く。


 安積智彦は苛立ちながら、新台を宣伝するのぼり旗に痰を吐いた。日曜と言う事もあって、商店街は活気付いていた。


「クリスマスのご予約承ります」そんな張り紙がやたら目に付く。


カップル、家族連れ、楽しげな休日の学生たち。すべてを蹴散らし、踏みにじってやりたかった。


「くそが」


 薄っぺらくなった財布を開き、タバコの自販機の前に立つ。小銭が足りない。しわくちゃの唯一の万札が機械に吞み込まれていった。ショートホープの封を切りながら歩いてると、若いカップルの男の方にぶつかった。


「どこ見て歩いてんだ、こら」

 智彦は吐き捨てるように睨んだ。カップルの男の方は20代前半くらいで、背は智彦よりも少し低く、痩せている。


「すいません」

 そう言いながらも、彼女をかばうような仕草をしながら、おぞましいものを見るような視線を投げかけてきた。


 智彦はその足元にツバを吐いた。男の表情が凍る。侮辱された事への怒り、憤り、それでもトラブルになる事に対する恐怖、不安が勝ったのだろう。もう一度「すいません」と言うと、そそくさと歩いていった。


「くそが」

 智彦は誰にともなく、ひとりごちた。10年前、自分にも守るべき妻がいた。情熱を傾ける仕事があった。何より、若さがあった。

だが、今はどうだろう。些細なトラブルが元で大きな契約を失い、製薬会社の営業職を退職した。退職金も底をつき、失業手当ももう出ない。借金に借金を重ね、それでもギャンブルはやめられなかった。


◆◆◆


 いつの日か、智彦は妻の由香里に手を出すようになっていた。唯一、自分を同情してくれたあの濡れた優しい瞳は、数年同じ生活を繰り返すうち、憎悪と侮蔑のこもった視線へと変わっていった。


 もちろん、言葉で非難はしない。暴力によって応酬されるからだ。由香里は、手負いの獣のように静かな憎悪を込めた視線を智彦に向けるだけだった。智彦の母が、かつて父に向けたものと同じだった。


 母は父を捨て、自分をも捨てて、他の男に走った。

由香里は、自分を捨てなかった。子供がいないので離婚は簡単だったはずなのに、智彦の元を去らなかったのだ。


 だが、 由香里は「得体の知れないパート先」から帰宅すると、昼間から飲んだ暮れる智彦を疎ましそうに睨み、シャワーに直行するようになった。


 以前、勤めていたスーパーを、由香里がとっくに辞めているのを、智彦は知っていた。パチスロで負けが込んで追加の小遣いをせびりに、スーパーに行った時、「半年ほど前、とっくに辞めてる」と、店内にいたパートの中年女から訊いたからだった。その女は汚らわしいものを見るように智彦にこう続けた。


「あんだけ頑張って働いてたし、お店としてはもっと、いてほしかったんだけどねぇ」


 酔って機嫌が悪いとき、由香里の頬を張ったことがある。必死にファンデーションを塗りたくっても消えない青あざをそのままに、平然と出勤していた。無言の抗議だったのだろう。


「由香里さん、綺麗だから、レジではお客さんに人気だったんだけどねぇ。レジに立てない時、しょうがなく裏方やってもらう時もあったから。それが合わなかったのかもねぇ」


 皮肉めいた言葉を聞き流し、礼も言わず智彦はその場を去った。自分に隠し事をする由香里に、苛立ちが募っていた。


 その晩、由香里はパートの定時どおり帰宅した。敢えて、智彦は何も聞かなかった。心の中の怒りを押し殺し、観察した。久しぶりに直視する妻の姿。手入れされた肌、入念なメイク、ウェーブがかった巻き髪。香水、服装、バッグ。すべてが以前とは変わっていた。


 智彦は、由香里がユニットバスのシャワーを浴びている隙に、ヴィトンのバッグの中をあさった。最新機種のスマホが振動している。


 メールだった。着信には『シュウジ』と表記されていたが、パスロックがかかっているため、中身まで確認する事はできない。

 やがてシャワーの音が止まり、ドアの隙間から、バスタオルを取り出そうとする由香里と目が合った。


「ちょっと、なにしてんの」

 由香里は智弘からバッグごと、ひったくり睨みつけた。


「女房の携帯を見て何が悪い。シュウジって誰だ」

「あなたには関係ない。これでいいでしょ?」


 由香里はバッグからヴィトンのモノグラムの財布を取り出し、中から2万をつまみ、智弘に差し出した。バスタオルを巻いてはいるが、由香里の豊満なラインはくっきり浮かび上がっている。髪から、雫がダイニングの床に零れ落ちていた。


「このクソ売女が。俺をバカにしてんのか」

 智弘は由香里を平手打ちすると、馬乗りになり、バスタオルを引き剥がそうとした。


「やめて!」

 由香里は床に投げ出されたバッグに手を伸ばし、催涙スプレーを取り出すと智弘の顔に噴射した。


「くそ!くそアマが!」

 智弘は顔を両手で押さえ洗面台に走っていった。由香里は、恐怖で硬直した右手に掴んでいたスプレー缶を放り投げた。

「なんで。なんでこんな事に。貴方はお金さえあればいいんでしょう?私に一切、干渉しないで!」


 泣き喚く由香里を他所に、智彦はヒリヒリと痛む目を開き、洗面台の壁のシミを見つめていた。新婚当初からあったものだ。


 あの頃は気にならなかった小さなシミだったが、二人の行く末を暗示していたのかもしれなかった。


「くそが」


 それ以来、智彦は由香里に詰め寄る事もなくなった。由香里も、黙って金をテーブルに置いて、家を開けることが多くなった。なぜ、由香里が離婚を切り出さずに、自分と同居しているのか分からなかった。いや、分からないふりをしていた。智彦は無関心を装い続けた。由香里に「俺が悪かった」と縋り付くこともしなかった。



 ある日、定食屋で何気なく開いたページ。「主婦の裏の顔」という文字が目に入った。風俗業に勤しむ主婦たちの匿名のインタビュー記事だった。彼女たちから語られる日々の行動パターン。家庭環境。経済状況。すべて由香里と重なった。おまけに、冗談か本当かは分からないが、彼女たちは客とのトラブルに備えて催涙スプレーを携帯しているとも語っていた。ほどなくしてやってきた生姜焼き定職。柔らかいはずの豚肉は、萎びたゴムのようで、何度咀嚼しても、味をまったく感じなかった。


◆◆◆


 陽が落ち、どんよりとした灰色の雲が空を覆い始めていた。ショートホープの箱を握りつぶす。吸いきらずにアスファルトに投げ捨てるせいで、あっという間に箱の中身は空になった。商店街を抜けて、路地に入ったため、コンビニなど見当たらない。線路の向こうのタバコ屋が一番近かった。


 遮断機が閉まり、ランプが転倒する。向こう側に主婦のカタマリがお喋りに興じている。年齢は自分や由香里と同じくらいだろうが。足元にまとわりつく小さな子供が線路に飛び出さぬよう、しっかりと手を握っている。


 智彦の右横に、スーツを着たサラリーマン風の男が立った。距離は微妙に不自然さを感じる近さだった。


「こんばんは」


 男が話しかけてきた。顔もまた不自然だった。パーツのすべてが作り物に見える。整形に失敗したのだろうか、一昔前のCGゲームのキャラクターのようだった。


 気味の悪い男を無視してショートホープの箱を地面に投げ捨てた。


「失礼します」


 いつの間にか両脇に男の手が滑り込み、重力を失った。


「なにしやが…」


 線路に投げ込まれた智彦は、尻餅をついたまま迫りくる電車を見ていた。


 瞬間、これまでに感じた事のない大きな衝撃を受け、手足があらぬ方向へ砕けた。車輪に引き込まれ内蔵が破裂する。


 苦痛。


 しかし、苦痛は長くは続かなかった。頭蓋骨が砕け散ると同時に、すべてが消滅した。

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