1話「殺し屋と死体と柘植一樹」
《登場人物》
柘植一樹
死体(海野竜也)
殺し屋
1DKアパートの102号室。窓側の梁で、首にロープをひっかけ、宙吊りになったこの部屋の住人、海野竜也が死んでいた。デニムの股間から糞尿が滴っているらしく、異臭が漂っている。
時折、十一月の薄ら寒い風が窓に吹きすさび、音を立てていた。
その玄関。柘植一樹の身体の上に、海野と同じ顔をした男が、覆いかぶさっている。額から汗が流れ落ちる。馬乗りになった男は、小刻みに身体を震わせ泣きべそをかいた一樹をどうしようか、と思案しているようだった。
一樹は、死の恐怖に怯えながらも、勇気を振り絞り、男にこう言った。
「お、おれの事も、殺すのか」
男は薄く嗤った。海野そっくりの顔に、不自然なシワが寄る。冷静に考えると、それがマスクだと判別できた。一樹の首元で、革製の黒いグローブをはめた男の右手がゆらゆらと浮いている。
男が飛び掛ってきた3分前から、ずっとそのポーズのままだった。
「今、考えている」
男は一点を見つめたまま、口をパクパクと動かし、何かを呟いていた。床が背中に押し当てられている。男が視線を落とした瞬間、冷たい刃物で脊髄を貫かれたような寒気が走った。
「お前。なんでメールが送信されて10秒もしないうちに、ここへ来た」
「お、おれはこのアパートの2階、に、201号室に住んでるんだ。海ちゃんから、先週、この部屋で宅配の荷物を受け取ってくれ、って、あ、合鍵は預かったままだったから、だ、だから」
「だから、メール送信10秒後に、ここに到着したってわけか。冗談みたいな話だな。俺のミス。誤算だ」
男は声を抑えながらも忌々しそうに呟き、深く細いため息をついた。
「今日はシフトが休みだし、海ちゃんから、自殺するってメールを見て慌てて来たらあんたがいた。あんたの事は誰にも話さない。海ちゃんは自殺だった。な、そうだろ?助けてくれ、誰にも言わないよ」
海野そっくりのマスクが不自然な形相を示し、一樹を睨みつけた。
「そうだ。よく分かってるじゃないか。こいつは自殺した」
男はかったるそうに腰を浮かし立ち上がり、一樹の身体から重力が消えた。立ち上がった男の背は180ほどで、海野本人よりも5、6センチ高かった。
「じゃあ、おれの事、殺さないでくれ」
「確かに、お前をここで殺しちまったら、死体が2つ。面倒な事になるな」
男は、落ち着いた様子で、椅子を引いて座ろうとしたが、すぐに止めた。
「お前には発見者になってもらう。でもそれだけじゃ心細いんだ、俺は」
「ああ。何でも協力する」
一樹は汗を拭いながら、脱げかけたコンバースのランニングシューズを玄関に並べ、床の上に立て膝をついて、へたり込んだ。
「お前、こいつのツレだろ。俺が憎くないのか?」
「ああ、海ちゃんは友達だったさ。でも自分の命が、い、一番だよ」
「そこに吊る下がってるこいつも相当なクズだったらしいが、お前も相当だな。まぁ、いい。保険として、俺と取引しろ。財布を出せ」
「取引?財布?」
「そうだ、さっさと出せ」
しぶしぶ、一樹は汗ばんだ尻ポケットから赤茶けたノーブランドの革財布を男に渡した。
「柘植一樹、二十八歳。ほう、ここの2階に住んでるというのは本当らしい」
男は、感心するように、一樹の免許証を二本の指で挟み、眺めながら言った。続けて財布から、不恰好に端っこの折れたATMの明細書をつまみ出す。
「残高三百四十二万か。交渉成立だ。お前、三百万で俺を雇え。殺してほしい奴の名前と、そいつに関するありったけの情報を教えろ」
「な、何を言ってるんだ」
「そうだ。お前自身が俺の依頼人になるんだ。ウチの会社のルールで、依頼人には手出しはできない。そして、お前も余計な事はできなくなる」
意地悪く、薄ら笑いを浮かべる男を見て、生前の海野が重なった。
「あんた、正気か?」
「おれの気が変わらないうちに、さっさと殺してほしい奴の名を言え。一人や、二人くらいいるだろう」
汗が再び、額から噴きしていた。これ以上この男といるのは危険だった。
男が言うように、一樹には、この世から消えて欲しいと願う人物が確かに一人いた。一樹が『その人物』の名を告げると、男は笑い顔を引っ込め真剣な表情になった。
「これから外に出て依頼金を用意してもらう。自殺の発見者になるのは、その後だ。いいな」
何も言わず、頷く俺の肩を叩き、男は言った。
「そう深刻な顔をするな。お前が知らないだけで、よくある話だ」
その発言の意味を男に訊ねようと思ったが、薮蛇にならぬように、一樹は言葉を飲み込んだ。
「そいつには恨みはあるのか?」
男は嬉しそうに聞いてきた。
「そいつがいなくなれば救われる人がいる。あんたが誰かを殺すって言うなら、そいつを殺してくれ。他には、殺して欲しい人間なんていない」
「いなければ誰かが救われる?ほぉ。そこにいる海野の殺害依頼した奴も、そんな事を言っていたぜ。まぁ、いずれにせよそいつの事を色々調べて、一ヶ月以内には殺してやる。お前には容疑がかからないよう慎重にな。さぁ、ここから出るぞ」
男はドアノブに手をかけながら言った。




