黒猫亭②
「それで、バイトの話なんだけどどんなことをするの?」
ランチタイムサービスのコーヒーを飲みながら、有紗は本題を切り出した。
「まずは、バイトの内容からね。4時に出勤して、コーヒーと紅茶を淹れる準備をするの。
四時半に、社長の書斎にコーヒーと紅茶を持って行く。そして、1時間待機して、
五時半にコップを下げにいく。その後、食器を洗って元の場所に戻す。これでおしまい。
あとは、その日の日給5000円を受け取って帰るだけ」
「え?それだけ」
「そう、これだけ。あなたにも出来そうでしょ。説明は省略致したけれど、社長の書斎に入る前にノックをして、『失礼します。お茶をお持ちしました』と言って、社長の応答があってから部屋に入るのよ。あっ、あとお盆の持ち方とか、食器の洗い方の説明を省略しちゃったわね。説明不足?」
玲子がまた私をからかい始めたようだ。
「入室の仕方とかお盆の持ち方とか、細かい作法があるの?」
「いいえ、ないわよ。常識の範囲内のことをすればいいのよ」
「それじゃあ、説明を省略してくれたということは、私がある程度の常識を持っていると思っていてくれているということよね」
「そうよ。でなければあなたにこのバイトを紹介しないわ」
「ありがとう。でも玲子はいたって常識的な部分まで説明したそうだけど?」
「念のためにね」
「はいはい。ご心配痛み入ります。社長ってどんな人?」
玲子は楽しそうだったが、話題を先に進めることにした。
「白髪のご老人よ。とても落ち着いた方で、年齢は70歳くらいね。名前は、大木茂さん。不動産会社の社長のようだけれど、平日はいつも家にいらっしゃるわ。あと、太田登美子さんという60歳くらいの家政婦さんも住み込みで働いているわ」
「家政婦さんを雇っているなんて、お金持ちの家ね」
「大金持ちね。住んでいる家もお屋敷って感じで、びっくりするわよ。このバイト、受ける、受けない?」
「やるわ。他によいバイトなさそうだし」
「じゃあ、3時に札駅に集合ね。履歴書持ってきてね」
「履歴書はもう書いたよ。あと、顔写真をまだ貼ってないから、今から家に取りに帰る。就活で余ったのがあるし。でもいきなり行って大丈夫かな?」
「大丈夫よ。前々から、よい後任が見つかったらバイト辞めますって伝えてあるから。
その日がたまたま今日だったというだけ。じゃあ、もう出ましょうか」
「バイトを探してすぐ見つかるのはうれしいけどね。筧さん、お会計お願いします」
筧さんは、カウンターの隅でお皿を洗っていた。
「ミックス700円、豚玉600円ね。有紗ちゃん、いつもありがとうね。玲子さんもまた来てね」
有紗は、五百円玉1枚と、百円玉2枚を筧さんに渡した。玲子は千円札を筧さんに渡し、おつりを受け取っていた。
外はだいぶ暖かかったが、黒猫亭の室温が高いだけに、肌寒く感じた。
「黒猫亭のミックスは、やっぱり最高だったな。玲子もマスターと仲良くなれて良かったわね」
「そうね。感じのいい人だったわね。有紗とマスターほどじゃないわよ。有紗は『ちゃん』で、私は『さん』なんだから」
「言われてみればそうだね。でも、私とは初対面から『有紗ちゃん』だったよ」
「あらそう。じゃあ、筧さんが遠慮したのね」
「筧さんは、気さくな人だから人見知りとかはないと思うんだな」
「そうじゃなくて、有紗は、筧さんに筧ちゃんじゃなくて、筧さんなの?」
「それは筧さんが私より大人だからだよ。筧ちゃんは失礼でしょ」
「きっと筧さんも同じことを考えたんじゃないかしら。有紗より大人っぽい私に対して、ちゃんは失礼なんじゃないかって」
「あぁ、やっと何が言いたいか分かった。玲子が私より大人っぽい素敵な淑女と言いたいわけね?」
「そういうことよ。有紗ちゃん。じゃあ、3時に札駅ね」
玲子はそう言って小走りに信号を渡り、正門の方へ歩いていった。私は、自分の家の方に向かった。
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