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「あなたのために選んだ婚約者よ!」――そうですか。では、浮気者だった責任は取っていただけますか?

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/10/29

 エレノア・ウィンスレットの人生は、本人が何も言っていないにもかかわらず、勝手に物事が決まってしまう日々の連続だった。


 例えば、婚約。ウィンスレット伯爵家の一人娘として生まれたエレノアには、かつて心から慕っていた男性がいた。リーヴェル子爵家の次男、アーネスト・リーヴェルである。二人は幼い頃から家族ぐるみの付き合いがあり、エレノアが十六歳になる頃には、互いに将来を考えるほど親しい間柄になっていた。アーネストは穏やかで誠実な青年で、決して口数が多いわけではなかったものの、彼女が何かを話すときには必ず最後まで耳を傾けてくれた。休日には王都の書店を訪ねたり、季節の花々が咲く庭園を散歩したりして、二人で過ごす時間を楽しんだ。エレノアは彼との結婚を夢見ていたし、アーネストもまた、いずれ正式に婚約を申し込むつもりだと話してくれていた。


 ところが、そんな二人の関係は、エレノアが知らないところで終わらされてしまった。十六歳の春、父親からアルヴェイン侯爵家の嫡男セドリックとの婚約が決まったと告げられたのである。驚いたエレノアが理由を尋ねると、父親は侯爵家との縁談がいかに名誉なことかを説明し、母親は娘の幸せを願っているのだと嬉しそうに語った。しかも、先方にはエレノア自身も婚約を望んでいると伝えていたらしい。もちろん、そんなことを言った覚えは一度もない。そもそもセドリックとは夜会で数回顔を合わせた程度の関係であり、彼との結婚を考えたことさえなかった。それでも両親は、エレノアが侯爵家の令息を褒めていたことを理由に、本人も婚約を喜んでいると判断したのだという。


 エレノアは必死に反対した。自分には好きな人がいること、アーネストと将来を約束していること、ほかの男性と婚約するつもりはないことを何度も訴えた。けれども両親は、娘の言葉を真剣に受け止めようとはしなかった。父親は若い頃の恋愛など結婚すれば忘れるものだと言い、母親は侯爵家に嫁げば今よりずっと幸せになれると繰り返した。どれほど説明しても、二人はエレノアがまだ若く、結婚について十分に理解していないのだと思っているようだった。さらに悪いことに、両親はアーネストに対しても、エレノア自身が別れを望んでいると伝えていた。


 アーネストが王都を離れることになったのは、それから間もなくのことだった。彼は地方の行政官として働くために赴任することになり、出発前にエレノアへ一通の手紙を残していた。そこには、彼女が侯爵家との婚約を望んでいると聞いたこと、自分はその幸せを妨げたくないこと、そして今まで一緒に過ごせた時間への感謝が綴られていた。手紙を読んだエレノアは、すぐに返事を書いた。自分は別れたいなどと言っていない。侯爵家の令息と結婚したいとも思っていない。今でもアーネストのことが好きで、できることならもう一度会って話がしたい。そう書いた手紙を何通も用意したが、父親は彼の赴任先を教えてくれず、屋敷の使用人たちにも娘の手紙を取り次がないよう命じていた。


 結局、エレノアは好きだった男性と無理やり別れさせられ、望んでもいない婚約を結ぶことになったのである。婚約が正式に発表された日のことは、今でも鮮明に覚えていた。祝福の言葉をかけられるたびに笑顔を作り、隣に立つセドリックから手を取られながら、どうして誰も自分が望んでいるかどうかを尋ねてくれないのだろうと考えていた。両親は満足そうだったし、侯爵夫妻も喜んでいた。周囲の人々は羨ましい縁談だと口を揃えたが、その場にいた誰一人として、エレノアが幸せそうにしていない理由を気に留めることはなかった。


 それから一年が経ち、エレノアは十七歳になった。


 現在の婚約者であるセドリックは十九歳。アルヴェイン侯爵家の嫡男として社交界でも将来を期待されている青年であり、金色の髪に青い瞳を持つ端整な容姿もあって、令嬢たちからの評判は悪くなかった。礼儀正しく、誰に対しても穏やかに接するため、周囲からは理想的な婚約者だと羨ましがられることも多かった。両親も彼のことを大層気に入っており、エレノアが何か不満を口にするたびに、あれほど立派な婚約者は滅多にいないのだから感謝するようにと諭していた。


 もっとも、エレノアは彼のことを少しも理想的だとは思っていなかった。セドリックには、他人の言葉を自分に都合よく解釈してしまう困った癖があったのである。例えば婚約して間もない頃、彼から休日の予定を尋ねられたことがあった。エレノアが特に予定はないと答えると、翌日には二人で王都の劇場へ出かけることになっていた。驚いて理由を尋ねれば、セドリックは彼女が暇だと言っていたから誘いを受けてくれると思ったのだと説明した。予定がないことと、誘いを受けることは別の話ではないかと指摘しても、彼は不思議そうにするばかりだった。


 また、あるときは侯爵夫人が所有している宝飾品について、エレノアが美しいと褒めたことがあった。すると数日後、セドリックから同じ意匠の首飾りが贈られてきた。しかも、その代金は婚約後にエレノアへ渡される予定だった衣装費から差し引かれていたのである。頼んでもいない品物に自分のお金が使われたことを抗議すると、彼は不思議そうに首を傾げた。


「君が欲しそうにしていたから、わざわざ用意してあげたんじゃないか」

「私は美しいと申し上げただけです。欲しいとは言っておりません」

「同じようなものだろう?女性は綺麗な宝石が好きなんだから」

「美しいと思うことと、自分で購入したいと思うことは別です。そもそも、私に確認もせず衣装費から代金を支払うのはおかしいのではありませんか?」

「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。君が喜ぶと思って選んだのに、まるで僕が悪いことをしたみたいだね」


 セドリックは困ったように笑い、それ以上の話し合いを避けるように紅茶へ手を伸ばした。エレノアが何かを否定しても、彼は決まって自分の判断が正しいと信じて疑わなかった。彼女が言っていないことを言ったことにし、了承していないことを了承したことにしてしまう。最初のうちは誤解を解こうと努力していたエレノアも、最近では彼と話すこと自体に疲れ始めていた。


 両親に相談しても、状況は変わらなかった。父親はセドリックの判断を尊重するよう命じ、母親は婚約者がそこまで気を遣ってくれることに感謝しなさいと諭した。エレノアが何を言おうとしても、二人は娘の言葉を最後まで聞かず、自分たちの考えを押しつけてしまうのである。いつしかエレノアは、何かを話す前に相手がどのように解釈するのかを気にするようになっていた。何気なく口にした言葉が、翌日には自分の意思として周囲に伝わっていることさえあったからだ。


 そして、エレノアが十七歳になって初めて迎える春、またしても彼女の知らないところで話が進んでいた。その日、エレノアはセドリックに招かれ、侯爵邸を訪れていた。応接室へ案内されると、そこには婚約者だけでなく、見知らぬ若い令嬢が座っていた。淡い桃色のドレスに身を包んだ令嬢は、エレノアの姿を認めると、少し緊張した様子で立ち上がった。栗色の髪を丁寧に結い上げ、胸元には小さな真珠の首飾りをつけている。年齢はエレノアと同じくらいだろうか。可愛らしい顔立ちの令嬢だった。


「初めまして。ミリア・ローデンと申します」

「エレノア・ウィンスレットです。よろしくお願いいたします」

「二人とも、これからは仲良くしてほしい。ミリアはしばらく、この屋敷で暮らすことになっているんだ」


 挨拶が済むと、セドリックは満足そうに頷きながらそう告げた。エレノアは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。侯爵家に縁のある令嬢が滞在すること自体は珍しくないものの、それならばわざわざ婚約者である自分を呼び出して紹介する必要があるのだろうか。しかも、セドリックはミリアの隣に腰を下ろすと、彼女の肩へ親しげに手を添えていた。


「……こちらで、ですか?」

「ああ。彼女の実家は少し事情があってね。しばらく侯爵家で面倒を見ることにした。君も以前、困っている人がいれば力になりたいと言っていただろう?」

「それは孤児院への寄付についてお話しした際のことです」

「同じことじゃないか。ミリアも困っているんだから」

「申し訳ありませんが、同じことだとは思えません。寄付についてお話ししたことと、こちらの令嬢のお世話をすることは別ではありませんか?」


 セドリックは何を難しく考えているのかわからないといった様子で首を傾げた。ミリアは二人のやり取りを聞きながら、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていたが、やがて遠慮がちに口を開いた。


「セドリック様から、エレノア様も私がこちらで暮らすことに賛成してくださっていると伺っていたのですが……」

「いいえ。今、初めて聞きました」

「えっ……?」

「私には何の相談もございませんでしたよ?」


 ミリアの顔色が変わった。ところがセドリックは、そんな二人の様子を見ても平然としていた。むしろ、エレノアが何かを勘違いしているとでも思ったのか、穏やかな笑顔を浮かべながら説明を始めた。


「相談するまでもないと思ったんだ。君なら喜んでくれるだろうし、結婚後はミリアの面倒も見てもらうつもりだからね」

「私が、ですか?」

「もちろん。君は侯爵夫人になるんだから、客人の世話くらいできるだろう?」

「お引き受けするとは申し上げておりませんし、その予定もございません」

「今はそう思っているだけだろう。君は優しい女性なんだから、いずれ理解してくれるさ」


 エレノアは返事を控えた。目の前の青年は、自分が何を頼んでいるのか理解しているのだろうか。婚約者に一言の相談もなく若い女性を屋敷に迎え、その世話まで任せようとしている。しかも、エレノアが当然了承するものと考えているらしい。ミリアもまた、セドリックの説明を疑うことなく、自分が歓迎されているものと信じていたようだった。


 そこでエレノアは、以前から気になっていたことを尋ねることにした。セドリックがミリアに向ける視線は、単なる客人に対するものとは思えなかったからである。


「セドリック様。お二人は以前から親しくしていらっしゃるのですか?」

「ああ。ミリアとは半年ほど前に知り合ったんだ。彼女はとても優しくてね。僕のことをよく理解してくれるんだよ」

「そうですか。随分と親しいご様子ですね」

「君も彼女を見習うといい。ミリアは僕の話を最後まで聞いてくれるし、何より素直なんだ」


 セドリックは嬉しそうに語り、ミリアも頬を赤らめていた。二人の様子を眺めているうちに、エレノアは自分がこの場に呼ばれた理由を少しずつ理解し始めていた。どうやらセドリックは、婚約者である自分にミリアを紹介し、今後も彼女と親しく付き合うことを認めさせたいらしい。もっとも、彼のなかではすでにエレノアが了承していることになっているのだろう。


「セドリック様。私はミリア様のお世話をお引き受けするつもりはございません。それから、お二人がどのような関係でいらっしゃるのかは存じませんが、婚約者として不適切な振る舞いはお控えいただきたいと思っております」


「どうしてそんなに冷たいんだ?君らしくないな」

「私らしいかどうかを、あなたに決めていただく必要はございません」


 セドリックは驚いたように目を見開いたが、すぐに困ったような笑顔を浮かべた。エレノアが一時的に機嫌を損ねているだけだと考えたらしく、落ち着けば理解してくれるだろうと繰り返した。これ以上話しても同じことになると判断したエレノアは、早々に侯爵邸を辞することにした。


 それから数日後、エレノアのもとに一通の手紙が届いた。差出人は、王都に暮らす友人のクラリス・ベルモンドだった。彼女とは幼い頃からの付き合いがあり、互いの屋敷を行き来するほど親しい間柄である。手紙には、少し気になる噂を耳にしたので、できれば直接会って話をしたいと書かれていた。


 エレノアは翌日、クラリスを屋敷へ招いた。応接室で向かい合うと、クラリスはしばらく言い出しにくそうにしていたが、やがて意を決したように口を開いた。


「エレノア。驚かないで聞いてほしいのだけれど、セドリック様が最近、別の令嬢と親しくしていらっしゃるという噂があるの」

「ミリア・ローデン様のことでしょうか?」

「知っていたの?」

「先日、侯爵邸でお会いしました。しばらく屋敷で暮らすことになったそうです」

「侯爵邸で?婚約者がいるのに、ほかの令嬢を住まわせているの?」

「ええ。しかも、私がお世話を引き受けることになっていたようです」


 クラリスは額に手を当て、信じられないといった様子でエレノアを見つめた。彼女は以前からセドリックの振る舞いに疑問を抱いており、エレノアが婚約を喜んでいないことも知っていた。それでも、婚約者のいる屋敷に別の令嬢を住まわせ、その世話まで任せようとしているとは思っていなかったらしい。


「実はね、二人が何度も一緒に出かけているところを見た人がいるの。劇場や宝飾店だけじゃなくて、郊外の別邸にも泊まっていたらしいわ」

「……別邸に、ですか?」

「ええ。しかも、セドリック様は周囲に、エレノアも二人の関係を理解してくれていると話しているそうよ」


 エレノアはしばらく黙り込んだ。理解しているという言葉に、妙な既視感があったのである。セドリックは以前から、自分の判断をエレノアが当然受け入れるものと考えていた。劇場への外出も、宝飾品の購入も、ミリアを侯爵邸に住まわせることも、すべて彼女が了承したことになっていた。どうやら今度は、浮気まで了承したことにされているらしい。


「……クラリス。教えてくれてありがとう」

「エレノア、大丈夫?こんなこと、許せるわけがないでしょう?」

「ええ。もちろんです。私はセドリック様がほかの女性と恋愛関係を持つことを認めた覚えはございませんし、これから認めるつもりもありません」


 エレノアは穏やかに答えたが、クラリスはなおも心配そうだった。彼女は友人の手を取り、必要であれば証人を探すことにも協力すると申し出てくれた。エレノアはその言葉に甘えることにし、セドリックとミリアの関係について、できる限り詳しく調べてみることにした。


 もっとも、調査は驚くほど簡単だった。二人は隠れるつもりがなかったらしく、王都の劇場や高級料理店に何度も姿を現していた。宝飾店ではセドリックがミリアに指輪を贈ったことまで記録に残っており、郊外の別邸にも二人で滞在していたことが確認された。しかも、セドリックは周囲から関係を尋ねられるたびに、婚約者も理解してくれていると答えていたのである。


 さらに、エレノアにとって決定的だったのは、セドリック本人から届いた手紙だった。そこにはミリアとの関係について長々と説明が綴られており、彼女と今後も親しく付き合っていきたいこと、エレノアとの婚約を軽んじているわけではないこと、そして二人とも大切にしたいと考えていることが書かれていた。最後には、エレノアが理解を示してくれたことへの感謝まで添えられていた。


 エレノアは手紙を読み終えると、思わず笑ってしまった。理解を示した覚えもなければ、二人を大切にしたいなどという話を聞いた覚えもない。そもそも、婚約者が別の女性と恋愛関係を続けることを認めたことなど、一度もなかったのである。


 彼女は便箋を取り出し、短い返事を書いた。ミリアとの交際を了承していないこと、婚約者以外の女性と恋愛関係を持つことを認めるつもりはないこと、そして今後の婚約について正式に話し合いたいことを伝えた。これまでにも何度も訂正してきたが、今度ばかりは曖昧な返答で済ませるつもりはなかった。


 返事を送った翌日、セドリックが伯爵邸へやって来た。応接室に現れた彼は、少し不機嫌そうな表情を浮かべていた。エレノアが挨拶をすると、セドリックは椅子に腰を下ろすなり、彼女の手紙について話し始めた。


「エレノア。君は少し誤解しているようだね」

「何をでしょうか?」

「ミリアとの関係についてだよ。僕は彼女を大切に思っているけれど、君との婚約を解消するつもりはないんだ」

「そうですか。ですが、私は解消したいと考えております」

「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。君は以前、僕の幸せを願っていると言ってくれただろう?」

「ええ。婚約者として、幸せでいてほしいとは申し上げました」

「ならば、ミリアとの関係も理解してくれるはずだ。彼女と一緒にいると幸せなんだから」


 エレノアは目の前の青年を見つめた。どこから指摘すればよいのか、少し迷ってしまった。婚約者の幸せを願うことと、浮気を許すことが同じ意味になるとは、これまで考えたこともなかったからである。しかも、セドリックは自分が浮気をしているという認識さえないようだった。婚約者と別の女性を同時に大切にすることができると、本気で信じているらしい。


「セドリック様。私があなたの幸せを願っていると申し上げたことは事実です。ですが、それは私以外の女性と恋愛関係を持つことを許したという意味ではございません」

「君は随分と融通が利かないんだね」

「そのように思われても構いません。私は婚約を解消したいと考えております」

「だから、そんな大げさな話にする必要はないと言っているじゃないか。ミリアとの関係を続けたとしても、君が僕の妻になることに変わりはないんだから」

「私は、そのような結婚を望んでおりません」

「まあ、君もまだ若いからね。少し時間を置けば、自分が感情的になっていたと気づくだろう。僕は君を責めるつもりはないし、これからも婚約者として大切にするつもりだよ」


 そう言うと、セドリックは一方的に話を終わらせ、席を立ってしまった。エレノアは引き止めなかった。これ以上彼に何を伝えても、自分の都合のよいように解釈されるだけだと理解していたからである。むしろ、彼の口から婚約者と別の女性を同時に大切にするつもりだと聞けたことで、婚約を解消する決心がより固まっていた。


 その日の夕方、エレノアは父親の執務室を訪れた。父親は書類に目を通していたが、娘の姿を見ると、何か用かと尋ねた。エレノアは持参した手紙と調査の記録を机の上に置き、セドリックがミリアという令嬢と恋愛関係にあることを説明した。


 最初、父親は信じようとしなかった。セドリックは侯爵家の跡取りであり、礼儀正しく将来有望な青年なのだから、そのような不誠実な振る舞いをするはずがないと考えていたらしい。けれども、本人が書いた手紙を読んだ途端、その表情は険しいものに変わった。


「セドリック殿に限って、そんなことがあるはずがないと思っていたが……」

「こちらをご覧になれば、おわかりになると思います。ご本人が、ミリア様との関係を続けたいと書いていらっしゃいます」

「……これは、少し困ったことになったな」

「ええ。ですから、私は婚約を解消したいと考えております」

「待ちなさい。確かに褒められた行いではないが、若い男には多少の過ちもあるものだ。侯爵家との縁談を失うほどのことではないだろう」


 エレノアは父親の顔を見つめた。かつて自分とアーネストを無理やり引き離した人物が、今度は婚約者の浮気を見過ごすよう勧めている。あれほど娘の幸せを考えて選んだ相手だと自慢していたにもかかわらず、その相手が不誠実な男性だとわかっても、婚約を維持することしか考えていないのである。


「お父様。私はセドリック様との婚約を解消したいと思っています」

「ならん。侯爵家との縁談を無駄にするつもりか?」

「ですが、浮気をしているのですよ?」

「だから、多少のことは我慢しなさいと言っているんだ。お前が正妻になることに変わりはないし、結婚すればセドリック殿も落ち着くだろう」


「私は、そのような結婚をしたいとは思っておりません。そもそも、最初からセドリック様との婚約には反対しておりました」

「お前はいつまで昔のことを持ち出すつもりなんだ。侯爵家の嫡男と結婚できるだけでも、十分に恵まれているというのに」


 父親は呆れたように首を振ったが、エレノアは引き下がらなかった。これまでは怒鳴られたり、娘のためだと言われたりするたびに、自分が間違っているのではないかと考えてしまっていた。けれども、今は違う。両親が選んだ婚約者がどのような人物だったのか、エレノア自身が十分に理解していたからである。


「……お父様は、アーネストとの結婚を反対なさいましたよね」

「またその話か。子爵家の次男では、お前に相応しくないと何度も説明したはずだ」

「ええ。ですが、彼は私を裏切ったことなど一度もありませんでした」

「身分と誠実さは別の問題だろう」

「そのとおりですね。ですから、身分だけで結婚相手を選ぶべきではなかったのだと思います」


 父親は不愉快そうに眉を寄せた。エレノアが反論してくること自体が気に入らないようで、机の上に置かれた書類を乱暴に揃えながら、何が言いたいのかと尋ねた。


「私が好きだった男性を無理やり諦めさせてまで、お父様たちが選んでくださった婚約者が、浮気者だったのですから。随分と、見る目がなかったのですね」

「……エレノア!」

「間違ったことを申し上げましたか?お父様は私のためだとおっしゃいました。お母様も、侯爵家に嫁げば幸せになれるとおっしゃいました。ですが、そのお相手は婚約者がいるにもかかわらず、別の令嬢と恋愛関係を続けているのですよ?」

「口を慎みなさい!」

「私は、最初から嫌だと申し上げておりました。それなのに、お父様は私が望んでいると勝手に話を進めてしまいました。アーネストにも、私が別れを望んでいるとお伝えになったのでしょう?」


 父親は言葉に詰まった。エレノアはその反応を見つめながら、一年前のことを思い出していた。どれほど頼んでもアーネストに会わせてもらえず、何通も書いた手紙を届けてもらえなかった。父親は娘の将来を考えた結果だと説明していたが、その判断によってエレノアがどれほど傷ついたかについては、一度も尋ねようとしなかったのである。


「私は別れたいなどと、一度も申し上げておりません。セドリック様と婚約したいとも言っておりません。それなのに、お父様は私がそう望んでいると周囲に伝え、すべてを決めてしまいました」

「それは、お前の将来を考えて……」

「その結果が、今の状況なのですね」


 エレノアは机の上に置かれた手紙へ視線を向けた。そこにはセドリック自身の筆跡で、別の女性と恋愛関係を続けたいという希望が綴られている。父親はしばらく黙り込んでいたが、やがて婚約解消については改めて考えると答えた。もっとも、侯爵家との縁談を惜しむ気持ちは変わらないようだった。


 エレノアは父親の返事を聞き、静かに首を振った。


「婚約解消については、私の方で正式な手続きを進めます。お父様が反対なさるのであれば、母方の叔母様に相談するつもりです」

「勝手なことをするな!」

「……勝手に、ですか?」


 エレノアは思わず首を傾げた。自分が望んでもいない婚約を勝手に決め、好きだった男性に別れを望んでいると嘘を伝えた父親から、そのような言葉を聞くとは思わなかったからである。


「今まで私の意思を確認せずに、何もかも決めていらしたのは、お父様ではありませんか?」


 父親は黙り込んだ。エレノアは一礼して執務室を出ると、自室へ戻り、翌日の外出に必要な準備を始めた。父親が理解してくれるまで待ち続けるつもりはなかったし、セドリックとの結婚を避けるためには、できるだけ早く行動する必要があった。


 翌日、エレノアは母方の叔母であるマーガレット・フェルディナンドを訪ねた。マーガレットは亡き夫から受け継いだ財産を管理しながら、王都で静かに暮らしている女性だった。若い頃から自分の意見をはっきり述べることで知られ、エレノアの父親とは折り合いが悪かった。もっとも、エレノアにはいつも優しく接してくれており、幼い頃から何かと気にかけてくれていた。


 事情を聞いたマーガレットは、呆れたように額に手を当てた。姪が望まない婚約を結ばされたことは以前から知っていたが、相手が浮気をしていたうえ、婚約解消まで拒んでいるとは思っていなかったらしい。エレノアがセドリックから届いた手紙を差し出すと、彼女は眉をひそめながら内容を確認し、読み終えるなり深いため息をついた。


「まあ……。あなたのお父様は、まだそんなことをしているのね」

「叔母様。私は、セドリック様との婚約を解消したいのです」

「ええ。それがあなたの希望なのね?」

「はい。もう、あの方と結婚するつもりはございません」

「では、そうしましょう。必要な手続きについては、私も協力するわ」


 あまりにもあっさりと返事が返ってきたため、エレノアは驚いてしまった。これまで何かを望むたびに、両親やセドリックから考え直すよう求められていたからである。マーガレットはそんな姪の様子を見て、優しく微笑んだ。


「あなたが婚約を解消したいと言っているのでしょう?もちろん、必要な手続きはあるけれど、本人が嫌がっている結婚を無理に進める理由なんてないわ。それに、婚約者が浮気をしているのであれば、解消を求める理由としても十分でしょう。証拠は揃っているの?」

「はい。こちらに」


 エレノアは持参した手紙と記録を差し出した。マーガレットは一枚ずつ丁寧に目を通し、必要な書類を確認すると、知り合いに相談することを約束してくれた。エレノアはその言葉に深く感謝し、これまでの経緯についても詳しく説明した。アーネストとの別れについて話した際には、マーガレットは痛ましそうな表情を浮かべたが、最後まで口を挟まずに聞いてくれた。


 その日から、エレノアの婚約解消に向けた準備が始まった。正式な手続きが進むにつれ、セドリックとミリアの関係は社交界でも知られるようになった。二人は以前から頻繁に外出していたうえ、セドリック自身が婚約者も理解してくれていると周囲に説明していたため、証言を集めることは難しくなかった。


 さらに、セドリックがミリアに贈った宝飾品や、二人で利用した別邸の記録も確認された。婚約者がいるにもかかわらず、別の女性と継続的に恋愛関係を持っていたことは明らかだった。侯爵家が当初主張していた、単なる親しい友人関係という説明も、本人の手紙によって否定されることになった。


 アルヴェイン侯爵家は当初、婚約解消に反対していた。侯爵夫人は息子の行動を若気の至りだと説明し、エレノアに寛容な態度を求めた。けれども、マーガレットはその申し出を受け入れなかった。


「婚約者の浮気を許すかどうかは、エレノア自身が決めることです。あなた方が決めることではございません」


 その一言に、侯爵夫人は返す言葉を失った。マーガレットはさらに、婚約契約に定められていた不誠実行為の条項について説明し、侯爵家が解消に応じない場合には正式な裁定を求めるつもりだと告げた。すでに社交界にはセドリックとミリアの関係が広く知られており、このまま争いを長引かせれば侯爵家の評判にも影響が出ることは明らかだった。


 最終的に、両家の婚約契約に定められていた不誠実行為の条項に基づき、婚約は正式に解消された。侯爵家はエレノアに対して謝罪し、婚約中に発生した費用についても整理することになった。ウィンスレット伯爵も、侯爵家との関係がこれ以上悪化することを恐れ、ようやく婚約解消を受け入れた。


 セドリックは最後まで納得していなかった。最後の話し合いの席でも、彼はエレノアが婚約を解消するつもりなのかと何度も尋ね、少し考えれば自分がどれほど誠実に接してきたかわかるはずだと訴えていた。


「エレノア。君は本当に僕との婚約を解消するつもりなのか?」

「はい。何度も申し上げております」

「でも、君は僕の幸せを願ってくれていただろう?」

「ええ」

「だったら、どうして……」

「セドリック様。私はあなたの幸せを願っていると申し上げました。ですが、だからといって、私が浮気を許すと申し上げたわけではございません」

「……そんなに怒らなくても」

「怒っているかどうかは関係ありません。私は婚約を解消したいと申し上げております」


 セドリックは黙り込んだ。エレノアはその様子を見ながら、ようやく彼との関係が終わるのだと実感していた。これまで何度も同じことを説明してきたが、彼は自分が納得できない答えを受け入れようとしなかった。婚約が解消された今でも、エレノアが本当は自分との結婚を望んでいると考えているのかもしれない。


「これから先、どなたかと婚約なさることがあれば、その方のお話をきちんと聞いて差し上げてくださいませ。相手が何も言っていないのに、勝手に了承したことにしてしまうのは、おやめになった方がよろしいと思います」


 セドリックは不満そうに眉を寄せたが、エレノアはもう気にしなかった。婚約が解消された以上、彼が今後どのような人生を歩むのかは、彼自身が考えることだからである。エレノアは最後に礼を述べ、叔母とともに侯爵邸を後にした。


 もっとも、セドリックの評判は婚約解消を境に大きく変わってしまった。以前は理想的な婚約者だと評判だった青年が、実際には婚約者の意思を無視し、別の令嬢と浮気をしていたことが知られたのである。侯爵家という身分に魅力を感じていた家々も、娘を嫁がせることには慎重になった。セドリックが新しい縁談を望んでも、以前のように簡単には話がまとまらなくなったという。


 さらに、ミリアとの関係も長くは続かなかった。彼女はセドリックがエレノアとの婚約を解消するつもりだと信じていたものの、実際には正妻としてエレノアを迎え、自分とは恋愛関係を続けるつもりだったと知り、強い不満を抱いたのである。結局、ミリアは侯爵邸を出て実家へ戻り、セドリックのもとには誰も残らなかった。


 一方、エレノアは叔母の屋敷で新しい生活を始めていた。父親は婚約解消後も娘を伯爵邸へ戻そうとしたが、マーガレットが間に入り、しばらく自分のもとで預かることを認めさせた。母親からは何度か手紙が届いたものの、その内容は相変わらず娘の将来を案じる言葉ばかりで、エレノア自身が何を望んでいるのかを尋ねるものではなかった。


 それでも、以前ほど心を痛めることはなくなっていた。マーガレットの屋敷では、朝食の献立から休日の過ごし方まで、エレノアの希望を尋ねてくれた。最初は戸惑うことも多かったが、次第に自分の考えを素直に口にできるようになっていった。自分で選んだ本を読み、好きな色のドレスを仕立て、気の合う友人たちと出かける。そんな当たり前の暮らしが、エレノアには何より嬉しかった。


 そして、婚約が解消されてから二か月ほど経ったある日、思いがけない手紙が届いた。差出人は、アーネスト・リーヴェルだった。エレノアは封筒に書かれた懐かしい名前を見つめ、しばらく動くことができなかった。手紙を開くと、そこには彼が王都へ戻ってきたこと、エレノアの婚約が解消されたと聞いたこと、そして一度会って話をしたいという願いが綴られていた。


 最後には、もし迷惑でなければ返事をもらえると嬉しいこと、会いたくないのであればその気持ちも尊重するつもりだという言葉が添えられていた。エレノアは何度もその文章を読み返し、胸の奥に懐かしい温かさが広がっていくのを感じていた。アーネストは以前と何も変わっていなかった。自分の気持ちを伝えながらも、相手の意思を確かめようとしてくれる。彼女がどうしたいのかを、きちんと尋ねてくれるのである。


 エレノアは机に向かい、返事を書いた。会いたいこと。話したいことがたくさんあること。そして、一年前に別れを望んだことなど一度もなかったことを、今度こそ自分の言葉で伝えたいと綴った。書き終えた手紙を何度も読み返し、誤解を招く表現がないことを確かめてから封筒に収めた。


 数日後、二人は王都の小さな庭園で再会した。アーネストは以前より少し背が高くなり、青年らしい落ち着きを身につけていた。エレノアの姿を見つけると、彼は懐かしそうに微笑み、ゆっくりと歩み寄ってきた。久しぶりに顔を合わせた二人は、互いに挨拶を交わしたものの、しばらく言葉を続けることができなかった。話したいことは山ほどあるはずなのに、いざ顔を合わせると、何から伝えればよいのかわからなかったのである。


「久しぶりだね、エレノア」

「ええ。お久しぶりです、アーネスト」

「君が侯爵家との婚約を望んでいると聞いたとき、正直に言えば、とても驚いたんだ。けれども、君が自分で決めたことなら、僕が引き止めるべきではないと思った」

「私は、そんなことを望んでいませんでした。アーネストと別れたいなんて、一度も思ったことはありません」

「……うん。今は知っている。あのとき、直接君に確かめるべきだった。ごめん」

「私も、もっと早く伝えたかったです。何度も手紙を書いたのですが、届けてもらえなくて……」


 アーネストは悲しそうに眉を寄せた。エレノアは彼の前で、無理に平静を装う必要がないように思えた。一年前、突然別れを告げられたときの悲しみも、両親に何度訴えても理解してもらえなかった悔しさも、少しずつ言葉にすることができた。アーネストは途中で口を挟むことなく最後まで話を聞いてくれた。エレノアが言葉を探しているときには静かに待ち、話し終えると、ゆっくりと頷いてくれた。


 やがて、アーネストはエレノアの方へ向き直った。彼は少し緊張した様子で手を握り、何かを言おうとしては言葉を探していた。以前から大切なことを伝えるときには慎重になる青年だったが、その姿を見たエレノアは、懐かしさと嬉しさで胸がいっぱいになった。


「エレノア。僕は今でも、君のことが好きだよ」


 思いがけない言葉に、エレノアは顔を上げた。彼は恥ずかしそうに微笑みながらも、まっすぐ彼女を見つめていた。


「けれども、すぐに返事をしてほしいわけじゃない。君はようやく自由になれたばかりなんだから、これから何をしたいのか、ゆっくり考えてほしい。もし、その先に僕との未来を考えてくれるなら、とても嬉しい」

「……アーネスト」

「でも、そうでなくても、君が幸せになってくれることを願っているよ」


 エレノアは目元を押さえた。ずっと聞きたかった言葉だった。自分が何を望んでいるのか、どうしたいのかを、誰かに決められることなく考えてもよいのだと、ようやく思えるようになった。両親もセドリックも、彼女の将来について話すときには、自分たちが正しいと考える答えを押しつけてきた。けれども、アーネストはエレノア自身が選ぶことを望んでくれていた。


「私も、アーネストのことが好きです。ずっと好きでした。別れたいと思ったことなんて、一度もありません」

「本当に?」

「はい。ですから、もしよろしければ、もう一度お付き合いしていただけませんか?」


 アーネストは驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに微笑んだ。二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。かつてのように一緒に過ごせることが嬉しくて、エレノアは胸がいっぱいになった。失われた一年を取り戻すことはできないけれど、これから先の時間は、自分たちで選んでいくことができる。


 その後、エレノアとアーネストは以前のように親しく交際するようになった。休日には二人で街へ出かけ、書店や菓子店を巡った。ときにはマーガレットの屋敷で一緒に食事をすることもあり、叔母も二人の関係を温かく見守ってくれた。アーネストは地方での仕事を終えて王都へ戻ってきたばかりだったため、新しい職場での出来事を話してくれることも多かった。エレノアも叔母の屋敷で学んでいることや、最近読んだ本について話し、二人で過ごす時間を楽しんだ。


 やがて、エレノアの両親にも二人が再び交際していることが伝わった。父親は当然のように反対した。アーネストは子爵家の次男であり、侯爵家との縁談を失ったばかりの娘には、もっと相応しい相手を探すべきだと主張したのである。けれども、エレノアはもう迷わなかった。


「お父様。私はアーネストとお付き合いしたいと思っています」

「だが、あの男ではお前を幸せにできるとは限らん」

「ええ。将来のことは、誰にもわかりません」

「だったら、もっと慎重に相手を選ぶべきだろう」

「そのとおりですね。ですから、今度こそ私自身が慎重に選びたいと思っております」

「我々はお前のためを思って……」

「お父様。私のためを思ってくださるのであれば、どうか私の話を最後まで聞いてくださいませ」


 父親は口を閉ざした。エレノアは自分の気持ちを整理しながら、これからもアーネストと交際を続けたいこと、すぐに結婚を決めるつもりはないこと、そして今後は自分の将来について勝手に話を進めないでほしいことを伝えた。


「私は、アーネストと結婚したいと思っています。もちろん、私も彼もまだ若いですし、これから二人で将来について話し合っていきたいと考えております。それに、以前お父様がお選びになった婚約者は、結局浮気をなさっていたのでしょう?」


 父親は不満そうに眉を寄せたが、エレノアは穏やかな表情のまま続けた。


「私が大切に思っていた人との関係を無理やり終わらせてまで、あの方を選んでくださったのですよね。それなのに、あのような結果になってしまったのですから、今度は私自身に選ばせてください」


 父親はしばらく黙り込んでいたが、やがて疲れたようにため息をついた。以前ならば怒鳴りつけて娘の考えを変えさせようとしただろう。けれども、セドリックとの婚約が失敗に終わった以上、自分の判断が正しかったと主張することは難しかった。最終的に父親は、アーネストとの交際についてはしばらく様子を見ると答えた。


 エレノアはその返事に満足し、礼を述べて部屋を後にした。父親が心から納得しているとは思わなかったが、少なくとも今度は自分の希望を伝えることができた。これから先も意見が食い違うことはあるだろうが、そのたびに話し合い、自分の考えを伝えていこうと思っていた。


 数日後、エレノアはアーネストと一緒に王都の庭園を訪れていた。秋の花々が咲き始めた小道を並んで歩きながら、二人はこれからの予定について話していた。来週は新しくできた菓子店に行くこと、その次の休日には郊外の湖を訪ねること。どれも二人で相談して決めた約束だった。


「エレノア。来週の菓子店だけど、午後からで大丈夫かな?」

「ええ。午前中は叔母様のお手伝いがありますから、午後の方が嬉しいです」

「わかった。それじゃあ、午後に迎えに行くよ」


 アーネストはそう答えると、穏やかに微笑んだ。エレノアも嬉しそうに頷き、彼の隣を歩き続けた。これまでの人生では、自分の知らないところで何もかも決められてしまうことが多かった。好きだった人との別れも、望まない婚約も、休日の予定も、贈られる宝飾品も、誰かが勝手に決めたものばかりだった。


 けれども、今は違う。自分が何をしたいのかを伝えれば、アーネストはきちんと聞いてくれる。彼にも希望があれば、それを話してくれる。意見が違ったときには、どちらかが勝手に決めるのではなく、二人で相談して答えを出せばよいのである。


 エレノアは隣を歩くアーネストの手をそっと取った。彼は少し驚いたようにこちらを見たが、すぐに嬉しそうに握り返してくれた。以前は人前で手をつなぐことさえ恥ずかしがっていた二人だったが、一年ぶりに再会してからは、互いの存在が以前にも増して大切に思えるようになっていた。


「アーネスト。私、これからもずっと、あなたと一緒にいたいです」

「……僕も、同じ気持ちだよ」


 彼の返事を聞いて、エレノアは幸せそうに微笑んだ。自分が言っていないことを、誰かに勝手に決めつけられる必要はない。自分の人生を、他人の都合で進められる必要もない。これから先の未来は、自分の言葉で、自分の意思で選んでいきたい。


 そして、その隣にアーネストがいてくれるのなら、これほど嬉しいことはなかった。エレノアは彼の手を握り直し、二人でゆっくりと庭園の小道を歩いていった。明日も、その先の未来も、互いの気持ちを確かめ合いながら、一緒に過ごしていくつもりだった。

他の短編もあります


『婚約破棄されたので、これからは好きなものを仕立てて生きていきます』

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