重い手
目覺めはいつも、首の根元に鈍い痛みを感じることから始まる。薄汚れた天井の板目。雨漏りの染みが、何かの地圖のやうに廣がつてゐる。
佐竹は煎餅布團の上で身じろぎをし、喉の奧にこびりついた砂のやうな渇きを咳拂ひで追ひ出さうとした。體を起こさうとする。だが、起きられない。布團が重いわけではない。ただ、見えない「何か」が、のしかかつてゐる。
「……くそ」
呻き聲を洩らし、脂汗を額に滲ませながら、佐竹は這ふやうにして上體を起こした。骨の軋む音が、體の奧から響く。
一九四六年、秋。東京はいまだ燒け跡の匂ひを殘してゐる。バラックの隙間から吹き込む風が、佐竹の痩せた肋骨を冷やす。自分が生きてゐるのか、それとも死にそこなつて、ただ腐る順番を待つてゐるだけなのか、わからなくなることがある。
その「手」を感じ始めたのは、去年の冬、復員して半年ほど經つた頃だつた。最初は、肩に埃が積もつた程度の重さだつた。誰かが後ろから肩に觸れたやうな、はつきりしない違和感。振り返つても誰もゐない。それでも、その感觸だけが皮膚に殘つた。
日が經つにつれ、それは確かな重さを持ち始めた。今ではそれは佐竹の體よりも大きく、彼といふ人間まるごとを上から押さへつける重みになつてゐた。
よろめきながら土間に降りる。屈んで靴を履かうとすると、背中の「手」がぐつと體重をかけてくる。
『下を見ろ』
聲にならぬ聲が耳の奧で響いた。
『空を見るな。前を見るな。お前は足元の泥だけを見てゐろ』
齒を食ひしばり、震へる指で靴紐を結ぶ。
新宿の闇市は、騷ぎと腐れた匂ひが入り混じつてゐた。横流しの軍の品、出所の知れない罐詰、密造酒、春を賣る女たちの白粉の匂ひ。人々は追ひ立てられるやうに步き、獲物を狙ふ獸のやうな目で通りを睨んでゐる。
仕事は、この雜踏の中で拾ひ物をすることだつた。鐵屑、銅線、吸ひ殻。金になるものなら何でも拾つた。
人混みの中にゐると、背中の重みはいっさう強くなる。すれ違ふ男たちの視線、赤ん坊を負つた女の疲れ切つた顏、片足を失つた傷痍軍人のアコーディオンの音。それらすべてが、背中の「手」に積み重なつていくやうだつた。
「おい、佐竹。今日は澁いな」
聲をかけてきたのは、故買屋の親父だつた。
「……ああ。背中が重くてな」
麻袋を差し出すと、親父は鼻で笑つた。
「またか。その化け物の話か」
「化け物ぢやねえ。ゐるんだ、ここに」
首の後ろを指す。
「まあな、誰だつて何かは背負つてる。俺だつて、死んだ女房と子供三人を背負つてるやうなもんだ」
汚れた紙幣を數枚、放るやうに渡される。
「どこかで一杯引つかけてけ。カストリでも飲めば、少しは樂になる」
――
壁際に、色のきつい洋裝の女が立つてゐるのが目に入つた。眞つ赤な口紅。壁にもたれ、煙草を吸つてゐる。奇妙な親近感を覺えた。女の背中にも、何かが乘つてゐるやうに見えたからだ。
「……重くないか」
「何が」
「あんたの背中だ」
しばらく見てゐたが、女はふつと笑つた。
「重いわよ。鉛の外套を着てるみたいにね」
「俺には、手が見える」
「手?」
「でかい手が、上から押さへつけてくる」
煙を吐き出し、ゆつくり首を振る。
「手かもしれないわね。……私は、蓋だと思つてる。甁の中の蟲よ、私たち。出やうとすると、上から指で押さへられるの。“お前の居場所はそこだ”つて」
吸ひ殻を地面に落とし、踵で踏み消す。
「でもね、潰されるまでは、這ひずり回つてやるのよ」
女は人混みに消えていつた。
――
午後、日雇ひの解體場。燒け殘つた鐵骨を切り分ける。酸素バーナーの青白い火が鐵を溶かし、火花が雨のやうに散る。焦げた鐵の匂ひが鼻を刺す。
重いI形鋼を肩に擔がうとした、その時だつた。
――ぐぐつ。
背中の「手」が、これまでにない力で地面へ押し伏せる。膝が崩れ、視界が白く瞬く。
(潰される……)
鐵骨が地面に落ち、鈍い音が響く。
「何やつてる、馬鹿野郎! 人を殺す氣か!」
怒鳴り聲は、遠い場所の音のやうにしか聞こえない。地面が、顏のすぐそばにある。土と錆の匂ひ。
影を見た。西日を受けた自分の影の上に、もう一つ、巨大な影が重なつてゐる。それははつきりと手の形をしてゐた。
恐怖よりも先に、腑に落ちる感覺があつた。
首を上げれば叩き落とされ、背を伸ばせば折られる。燒け跡の空氣と、寒さと、腹の減りが、一つの重みになつて、身體の上に乘つてゐる。
「……あ……」
這ふやうにして解體場を拔け出す。怒鳴り聲も視線も振り切つて。逃げ込んだのは、燒け落ちた工場跡。半分だけ殘つたコンクリートの壁。内臟のやうに飛び出した鐵筋。壁際までたどり着き、崩れ落ちる。息が切れ、心臟が早鐘のやうに鳴る。もう一歩も步けない。
「……もういい」
かすれた聲で呟く。
「潰せよ。樂にしてくれ」
背中の「手」が、最後の力を込める。首が無理やり下に向けられ、背骨が弓なりに曲がる。視界には、膝と黒ずんだ地面だけ。
だが、不思議と恐怖はなかつた。ただ、冷たいコンクリートの感觸と、骨に食ひ込む重みだけが、はつきりとある。
『今はただ、この重さの下で息をしてゐろ。首を上げるな。先を見るな。寒さと腹の減りと、地面の冷たさを、骨の奧まで覺えておけ』
抵抗をやめ、小さく身體を折り疊む。石ころのやうに、うづくまる。兩肩の上に、巨大な指がある。右の肩に親指、左の肩に殘りの指が深く食ひ込んでゐる。目は大きく開いたまま、地面を見つめてゐる。そこには、まだ消えてゐない光がある。
もし誰かがこの燒け跡を通りかかつたなら、巨大な手の下で潰れさうになりながら、それでも確かに在る男の姿を目にしただらう。
佐竹は動かない。だが、死んではゐない。
この重すぎる手の下で、次の時代が來るまで、彼はぢつと耐へ續けるつもりだつた。




