弟の立場 聯合艦隊司令長官の立場
食事が済んでしまえば、あとは慌ただしさだけが残った。
蔽九朗は海軍省への登庁時間だと言って、後片付けが唯一出来る堀川に申し訳なさそうに頼んで足早に家を出てしまうし、これからないがあってもいいように堀川も手早く後片付けをはじめる。
普段はひとりだけの食器で済むのだが、水も冷たいこの時期。
四人分の食器を洗うのは手が冷えてならなかったが、だが、この量は何だか嬉しくも思えた。
そうしている間も暁久も軍令部に向かわなければならないと言って、すでに座敷のほうで着替えはじめているし、――一二三だけがぽつんとしていた。
「……一二三はこれからどうするのだ?」
何をするわけでもなくひとり寝間着のまま居間の壁に寄りかかって座っていると、暁久が声をかけてくる。
「このまま柱島に戻るというのであれば、迎えに来る車に駅まで回るように指示するが」
「え……えっと……」
本来、一二三は聯合艦隊司令長官として瀬戸内にある柱島泊地にいなければならない。
予定も目的もなく、帝都で気分のまま腰を下ろしているわけにもいかない。
これまで抱えていた心の闇を、ようやく吐き出すことができた――。
あとは自力で戦艦《大和》を受け入れ、それを自身の旗艦だと認めるため、柱島に戻るのが筋なのだが、これまで散々駄々をこねてきたので何だかバツが悪い。
「何もいますぐ帰れとは言わないが、一二三も大事な立場にある身だ。理解と納得、覚悟と承諾の分別を忘れてはならないよ」
「――……はい」
先ほど蔽九朗は、暁久は一二三を甘やかすばかりだと酷評したが、じつはそうでもない。
やんわりとした気質はそのままだが、諭すときはきちんと諭している。
一二三もそれを理解して、思わず姿勢を正して返答する。
わかっている……わかっている。
自分は心の闇を吐き出すことを許された。
そしてそれは咎められることなく、「すまなかった」と詫びの言葉で返ってきた。もうこれで充分じゃないのか?
あとは全部が自分次第。
「弟」として泣いた以上、立ち上がったらもう「弟」ではいられない。
――覚悟を決めるために、ボクはここまで来たんだ……。
客間には一二三の軍装も丁寧に掛けられている。
階級章は最高位の大将章である、その軍装。
袖を通したら一二三は「聯合艦隊司令長官」に戻らなければならない。
その軍装を横目に、おなじく大将章をつけた軍装を纏う暁久が最後の声をかけてくる。
「そろそろ迎えの車が来る。私はこのまま軍令部に向かうから、一二三も戻るときは道中気をつけて行きなさい」
「……」
言って、長兄らしく頭を撫でてくれる。
優しいしぐさだったが、かえって胸が切なく痛む。
何も聞かずにいるのはきっと堀川に昨晩のことすべてを聞いて、腹に収めてくれたからだろう。だからこそ、あえて何も言わない。
一二三は唇をかるく噛む。
――ボクが帝都に来た理由……。
それは先に述べたとおりだが、それだけが帝都にこっそり足を向けた理由ではない。
――言わないと……。
ほんとうは何より重大な進言をしなければならない事柄を、一二三は抱いている。
それは戦艦《大和》よりも、弟の大和よりももっと重大で、――この大日本帝国の明日の命運にも関わる最重要な事柄だった。
――大和……。
笑った顔が消えていく……。
心中で切なくその名をつぶやき、一二三は震える手を伸ばす。
消えた大和ではなく、暁久の軍装のズボンを掴んだ。
「あの、兄さん……」
軍装を着ていない、ただの寝間着姿でこれを口にするのは怖い。
声が震える。
でも、――ミッドウェー……。
早くそれを進言しなければ。
いまは帝国海軍――その機動部隊である第一航空艦隊の快進撃がつづいているので、誰もがこのまま勝利をつづけていくことができるだろうと過信しているが、米国海軍大太洋艦隊はまだ一隻の空母も失っていない。
黒真珠湾は所詮、艦艇を停泊させる船着き場でしかない。
動く飛行場としてどんな場所にでも移動が可能な空母はいま、どこで腹に重油を満載して潜んでいるのかわからない。
いまは世界最強の機動部隊として第一航空艦隊に誰もが目をやっているが、それを捉えようとどこかで大太洋艦隊の空母が静かに目を光らせている。
舌なめずりをして、せせら笑いながら。
この大日本帝国がその射程圏に入る。その試算ができた。
早く進言しなければ……。
――ミッドウェー……。
早くここを叩いて、敵空母を壊滅させなければ!
「兄さん……いえ、本山総長」
一二三は声を震わせたまま、ゆっくりと立ち上がる。
「いますぐ着替えるので、ボクも軍令部に同行させてください」
「?」
「――聯合艦隊司令部より、総長に至急相談したい作戦がございます。総長の多忙は重々承知しておりますが、このままお時間をいただけないでしょうか?」
一二三が覚悟を決めて立ち上がり、暁久の目を見ると、――暁久のそれまで優しい長兄の目だったものが途端に揺らめき、静かに険しい光が変わりに宿った。
それは兄弟でいるときには絶対に見せない、暁久の意識が変わったことを意味している。
この瞬間、暁久はすでに帝国海軍軍令部総長としての容貌に変わっていた。
やんわりとした気配はそのまま、ただし、毒の沼よりも恐ろしい瘴気を漂わせてくる。
「では、――聯合艦隊司令長官、本山大将。これに関しては私の執務室に到着するまで口外しないように」
「――はい」
皿を洗い終わった堀川は偶然、その場に居合わせてしまう。
一二三と暁久が放つ尋常ならざる気配を感じ取り、しばらく無言を強いられた。
ここで何か声をかければ事態もまた変わったのかもしれないが、素手い退役した身ではそれとなく話は聞けても、現状に口を挟むことはできない。
いま堀川にできるのは、ふたりを静かに見つめるだけだった。
――それが堀川の見た、兄弟たちが顔を合した最後の姿でもあった。




