兄弟最後の朝ごはん
こんなふうに朝から不機嫌極まりない状態で台所に立つ羽目になった蔽九朗だったが、それでも彼の作る朝ごはんはおいしく、胃袋を優しく満たしてくれた。
ご飯にお味噌汁、簡単な総菜も幾種類。
どれも家庭的な味で美味しかったが、とくに美味しいと思えるのは蔽九朗が作る味噌汁だった。
一二三はずいぶん前に亡くなった母の味噌汁の味を思い出そうとするが、もう明確に思い出せない。きっと、こんな味だったのだろう。
なので、何気なく問う。
「蔽九朗兄さんって、お母さんから味噌汁の作り方を教えてもらったの?」
「いや、俺だって子どものころは十七郎と遊んでばかりだったし、一二三ほどではないけど、早くに特待として海軍兵学校に入学したからね」
だから、台所で母の手伝いをするという機会はなかった。
一二三同様、その間に多くを失っている。
「帝都で家を再建したあとは、俺も兄さんも海軍省や軍令部での務めで忙しいし、かといって身の回りのことはできるからお手伝いさんを雇うほどでもないし。でも、家にいる以上、ご飯は作らないとならない。どうにかこうにか作れるようになっただけさ」
「でも、すごいよ。ボクなんか最近まで、お味噌汁やご飯はお鍋や釜が勝手に作ってくれるものだと思っていたからさ。ご飯って、まずは台所で食材と刻まないとはじまらないんだね」
「……お前という子は」
ほんとうに、つい最近までそうだと思っていた。
調理器具が勝手に作った後、女たちがそれを茶碗や皿に盛りつけて運んでくるものだと思っていたのだ。
一二三が情けない真実を暴露すると、蔽九朗は朝からめまいを起こす。
「一二三の発想は――アレだな。帝都維新後にはじめて通った電話線に荷物を括りつけて、これで遠くに住む娘家族のところにまで運んでもらえると勘違いしたり、鉄道の乗り降りのときにホームで履物を脱いで、下車で騒ぐのとおなじ種類だな」
「酷いッ、ボク、そこまで古い人間じゃないよ」
「そうだな、お前は世間知らずの度を越えた、もの知らずだからな」
「蔽九朗兄さんッ」
「何だ、この恥かきっ子」
見た目より口が悪い蔽九朗に心底呆れられ、一二三はムッと頬を膨らませる。
その傍らで箸を進める暁久がやんわりと微笑み、一二三を擁護する。
「蔽九朗、そのように一二三を苛めるものではない。一二三は台所に立ったことがないのだから、作業工程を知らないのも無理もない。知らなかったのなら、これから覚えればいい。それでいいではないか」
「……兄さんはすぐに一二三を甘やかす」
昔からこうだ。
暁久は事あるごとにこうやって一二三を庇い、咎めたためしがない。
けれども、
「よくもまあ、そんな頭で聯合艦隊司令長官になれたものだな」
蔽九朗と同種のため息をつきながら堀川が総論したので、蔽九朗はすこしだけ救われた。
料理も、掃除も、洗濯も。
時代的にそれらは女性が徹してするべきことなのだが、父母を失い、自分たち兄弟を支える長兄のために蔽九朗が自然と手を伸ばし、行うようになってきた。
おかげで蔽九朗は何だってできる。
縫物だって、そこそこだ。
――ただ……。
こんなふうに兄を支え、ともに生活する面で不自由がないせいで、とっくに適齢期を越えた暁久も堀川もこの生活に慣れて未婚なのでは……と思うときがある。
とくに暁久は、帝国海軍軍令部総長。
見合いの話など、昔から腐るほどあっただろうに……。
そう思って油断をしていると、
「家のこともできて、作る飯も充分にうまい。これなら蔽九朗はいつでも嫁に行くことができるね」
などと、いきなりとんでもないことを言ってくるので、蔽九朗は危うく味噌汁を吹きこぼしそうになった。
「ち……ちょっと、待ってください。婿に行くならまだしも、どうして俺が嫁に行くんですかッ。表現がおかしいですよ!」
「いや、一応私が本山家の跡取りだからね。蔽九朗も一二三もいずれは分家というかたちで家を出ることになるが、婿養子として差し出すつもりはない。だからと言って、家名を背負えというのも重苦しいものがあるからね」
「とはいえ嫁はおかしいでしょう、嫁は」
蔽九朗は暁久に訂正を求めるが、
「こういうのも何だが、蔽九朗はとにかく器量よしだ。そこらへんの娘さんよりもできた妻としての器がある。私はそう思うぞ」
「あのですねぇ~~っ」
暁久ののんびりとした気性はこういうところで発揮される。
蔽九朗は堪らず堀川に救いを求めたが、堀川はこれ以上巻き込まれぬようさっさと湯飲みを取る。
一二三はというと意味も分かっていないのに、にやんにやんと冷やかす表情だけは一人前ときている。
ほんとう、この顔は殴り倒したい。
目の前に暁久さえいなければ、蔽九朗はとっくに一二三の胸倉を掴んでいただろう。
そんな兄弟たちを見て、事実を知る堀川だけが胸中を複雑にさせる。
――じつのところ。
この本山兄弟にしても、帝国海軍内にしても。
総合的婿候補の上位は蔽九朗に軍配が上がっている。
まだ充分に若くして海軍省の大臣官房。階級は大佐相当で、将来有望。
顔よし、性格よし、仕事は熟せる、家事もできる。
こういった面から「ぜひ娘婿に!」という熱望があって、堀川はときおり周囲から打診の相談まで受けているのだ。
蔽九朗なら婚期を逃すことはないだろうが、兄が帝国海軍軍令部総長、弟が聯合艦隊司令長官。
現実的にこれと縁戚関係になるのは、かなり度胸もいるだろう。――父親は。
それはともかく――。
こんなふうに朝から食卓をにぎわす兄弟を見て、堀川はすこしだけほっとしていた。
三人とも腹に闇を抱えたまま、あえて普段を演じているだけなのかもしれないが、――昨晩。一二三がこれまで抱えてきた心の闇を知って、聯合艦隊司令部旗艦の変更を嫌がる理由を知って、いま兄弟は無理やりでも私的な面で顔を合わせなければならないと、そう思えるものがあった。
とくに一二三は公的な面で暁久との衝突がはじまり、意識的に距離を取りはじめている。
それは大規模な戦争へと突入した大日本帝国にとっても、望ましくはない。
だから兄弟三人が確実に顔を合わすことができるよう仕組んだ堀川としては、表面上でも体裁を取れたのなら、と思う。
――何せ、堀川にとってもこの兄弟は自分の兄弟そのものなのだ。
仲違いは嫌だった。失うのは――もっと嫌だった。
食事を終えた後、根源の一二三が堀川に向かって頬を掻いてくる。
「……堀川サン」
「ん?」
「あの、その、――ありがとう」
それは突然の感謝だったが、一二三にとってもこのタイミングがぎりぎりだったのだろう。
ひと晩の宿の恩と、泣き場所になってくれた恩。
何より、どんどん兄弟として会いにくくなってきた兄たちと兄弟として会うことができた、その恩と。
これが偶然の朝ではないことを悟った一二三は、心から感謝する。
堀川が小さく笑って一二三の頭を撫でると、かつて乱暴に頭を撫でまわしてきた三兄の十七郎を思い出したのか、一二三は懐かしさのあまり涙を浮かべそうになっていた。




