第8話 さよならは、正しい判断のはずでした
全ての駒が揃った。
執務室の机に、書類を並べた。左から順に──辺境伯の功績報告書。エヴァンズ家の鉱山利権に関する係争資料。クラウスの不正経理を示す帳簿の写し。リゼットの証言の時系列矛盾を示すマルグリット様の調査書。そして、ナタリアが確保した断罪時の証人記録。
あとは、最後のひとつだけ。
伝書鳥が窓枠に止まったのは、朝の鐘が鳴り終わる頃だった。ナタリアからの、分厚い封書。
封を切る。
『セシリア様
お約束の書類が整いましたのでお送りいたします。
断罪の場にいた学園の教師一名、生徒二名から署名をいただきました。
内容は以下の通りです。
「セシリア・エヴァンズ嬢が、リゼット・フォーリア嬢に対し暴言や嫌がらせを行った事実を、私は確認しておりません」
「断罪の場におけるリゼット嬢の証言について、日付と状況に不審な点があると感じました」
全て本人の自筆と署名、日付入りです。
どうかお役に立ちますように。
ナタリア』
添付の書類を広げた。三枚の証言書。それぞれに、異なる筆跡で、同じ趣旨のことが書かれている。
──あの大広間の日、わたくしが退場した後にナタリアに頼んだことだ。「疑問を感じた人がいたら、証言を書面で残して」。あれから二ヶ月以上。ナタリアは、一人ずつ丁寧に当たってくれていたのだ。
(ナタリア。……ありがとう)
全てが揃った。
机の上の書類を、もう一度見渡す。
功績報告書は、辺境伯の実績を数字と物語で証明する。係争資料は、鉱山利権の不正を法的根拠で示す。帳簿の写しは、クラウスの横領未遂を反論不能にする。証言矛盾の調査書は、リゼットの嘘を時系列で崩す。証人記録は、わたくしの無実を第三者が保証する。
(これは──完璧なプレスリリースだ)
前世で、これほど完璧な危機管理資料を組み上げたことがあっただろうか。たぶん、ない。あの頃は、いつもどこかが足りなかった。証拠が一つ欠けていたり、証言者が翻意したり、締め切りに間に合わなかったり。
でも今回は、全部ある。
領主会議まで、あと二週間。
◇
資料を鞄に収めて、ギルバート様の執務室に向かった。
ノックする手が、少しだけ震えた。資料のことではない。今から言うことの、重さのせいだ。
「どうぞ」
低い声。扉を開けると、ギルバート様が机に向かっていた。わたくしの顔を見て、いつものようにペンを置く。
「ギルバート様。領主会議の準備が整いました」
「……そうか」
「資料は全て揃っています。辺境伯の功績報告、鉱山利権の係争資料、断罪の証言記録。正式な手続きを経て議題に上げてあります」
ギルバート様が頷いた。ここまでは想定通りの会話だ。
問題は、次の言葉。
「──それで、一つ、お願いがございます」
「言え」
「契約を、解消させてください」
沈黙。
ギルバート様の手が、机の上で止まった。
「……なんだと」
「領主会議で、わたくしの断罪の件を蒸し返すことになります。元婚約者の不正を暴き、聖女の嘘を証明する。──その過程で、『悪役令嬢として断罪された女』という話が、再び表に出ます」
声が震えそうになるのを、唇を引き結んで堪えた。
「そのわたくしが、辺境伯夫人として隣にいれば──ギルバート様の評判にも傷がつきます。せっかくここまで積み上げた信用が、わたくしのせいで崩れるかもしれない」
ギルバート様は、黙っていた。
「ですから、契約を解消し、わたくし個人として領主会議に臨みます。辺境伯家の名前は巻き込みません。それが──最善の広報判断です」
広報判断。
自分で言って、胸の奥が軋んだ。
ギルバート様は、長い沈黙の後──。
「わかった」
と、言った。
声は硬かった。表情は変わらなかった。鋭い目つき。深い眉間の皺。いつもの、あの顔。
でも、「わかった」の一言が出るまでに、十秒以上の間があった。時計の振り子が、何度か揺れた。
「……ありがとうございます。迅速にご判断いただいて」
(不快にさせてしまっただろうか。契約を一方的に解消されるのは──やはり、失礼なことだったかもしれない)
「手続きはヴィクトルに任せる。必要な書類があれば言え」
「はい」
それだけだった。
立ち上がって、一礼して、執務室を出た。
廊下を歩く。足音が、やけに大きく響く。自分の心臓の音が聞こえる。
──正しい判断をした。ギルバート様のブランドを守るために、わたくしが身を引く。それは広報として正しい。論理的に、戦略的に、正しい。
正しいはずなのに。
胸が、痛い。
(……何だろう、これ。なんで痛いの。正しい判断をしたのに。正しい──)
部屋の扉を閉めて、壁に背を預けた。目の奥が熱い。泣きたいわけではない。ただ、何かが──何かが、壊れかけている音がする。
(仕事の私と、個人の私。前世からずっと、分けてきたでしょう。仕事の判断に感情を混ぜない。それが鶴見沙織のルールだった。今だって同じ。同じはずなのに)
窓の外を見た。北の空は灰色だった。
明日、王都に向けて出発する。
◇
ギルバートの執務室。セシリアが出て行った後。
扉が閉まった音を聞いてから、ギルバートは拳を握った。
机の上で。力を込めて。指の関節が白くなるほど。
扉が再び開いた。ヴィクトルだった。
「……旦那様。契約解消の手続きを、とのことですが」
「ああ」
「本当に、よろしいのですか」
沈黙。
ギルバートの視線は、窓の外──セシリアの部屋がある東翼の方角に向いていた。
「彼女が、決めたことだ」
声が──震えていた。
ヴィクトルがこの男に仕えて五年になるが、その声が震えるのを聞いたのは初めてだった。
「……承知しました」
ヴィクトルは何も言わなかった。言うべき言葉は、自分の口からではない。
◇
出発前夜。
館は静まり返っていた。明日の旅支度は済んでいる。荷物は詰め終わった。資料は全て確認した。
やるべきことは、何も残っていない。
だから余計に、眠れない。
寝台の上で天井を見つめていると、廊下にかすかな足音が聞こえた。重い、けれど忍ばせるような足取り。
ギルバート様だ。この足音は知っている。
足音が、部屋の前で止まった。
……扉の向こうに、気配がある。
ノックは来なかった。
代わりに──何か、手を伸ばすような気配。扉に触れかけて、止まったような。
数秒の沈黙。
足音が、遠ざかった。
(……ギルバート様?)
起き上がって扉を開けた時には、もう廊下には誰もいなかった。暗い廊下の向こうに、大きな背中が消えていく──残像すら見えない。
気のせいかもしれない。
扉を閉めた。
……気のせいだ。きっと、夜の巡回だろう。
(でも、巡回ならヴィクトルの仕事のはず──)
考えるのをやめた。
明日は王都に発つ。領主会議。全ての決着をつける場所。
寝台に戻り、毛布を引き上げた。
あの書斎の夜のことを思い出す。暖炉の火。ペンの音。目が覚めた時に肩にかかっていた、大きな外套。
(正しい判断をした。正しい判断を──したはず)
目を閉じた。
頬に、一筋だけ。温かいものが伝った。
──明日。全てを終わらせに行く。




