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私が悪役? なら全力で炎上を鎮火いたします  作者: 九葉(くずは)


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第7話 最後のリリースを準備しましょう

 レヴィントン侯爵家の紋章が押された封蝋──ではなく、今度は生身の使者だった。


 雪がやんだ朝。辺境伯の館に、一台の馬車が乗り入れた。侯爵家の家紋を掲げた、仰々しい装飾の馬車。王都から五日かけて来たそれは、この質素な館には不釣り合いなほど派手だった。


 わたくしは別室で待機していた。ギルバート様が「先に話を聞く」と言い、応接室に一人で入ったのだ。


 ヴィクトルが、応接室でのやり取りを後から教えてくれた。


「使者は二名。表向きは『レヴィントン侯爵家からの友好の挨拶』です。ですが、実際には辺境伯夫人──奥方様への面会と、エヴァンズ家の鉱山に関する『ご相談』を求めてきました」


「ギルバート様は、何と?」


「一言だけです。『我が妻への面会は、妻が望まない限り許可しない。鉱山の件は当家の管轄外だ。帰れ』」


 ……帰れ。


(容赦ないわね)


 でも、正しい対応だ。非公式な使者による「相談」は、記録に残らない。記録に残らないやり取りで鉱山利権の譲歩を引き出そうとしている──クラウス様の手口が見えた。


「使者の顔色はどうでしたか」


「真っ青でしたよ。旦那様が腕を組んで立ち上がった時点で、椅子から腰が浮いていました」


 ヴィクトルの口元に、薄い笑みがあった。あの怖い顔で「帰れ」と言われたら──まあ、そうなるだろう。


 ◇


 使者を追い返しただけでは足りない。


 わたくしは執務室に戻り、クラウスへの返書を書き始めた。


 前世でいう「お断りの公式回答書」。丁寧で、紳士的で、しかし一文字たりとも譲歩がない文書。広報部主任が最も得意とした書類の一つだ。



 『クラウス・レヴィントン様


 お手紙ならびにご使者による訪問、確かに承りました。

 ご厚情に感謝申し上げます。


 しかしながら、過去の婚約に関する一切の事項につきましては、王立裁定院の正式な手続きを通じてのご対応をお願い申し上げます。非公式な場でのご相談には、遺憾ながら応じかねます。


 なお、エヴァンズ伯爵家の鉱山に関するお問い合わせにつきましては、エヴァンズ伯爵家の当主に直接ご確認いただきますようお願いいたします。当家はこの件に関する権限を有しておりません。


 末筆ながら、ご健勝をお祈り申し上げます。


     ヴァイスフェルト辺境伯夫人

     セシリア・ヴァイスフェルト』



 ペンを置いた。


(これで、非公式ルートは完全に塞いだ)


 「王立裁定院の正式な手続き」──この一文が鍵だ。クラウス様が正式な手続きに持ち込めば、こちらにとっては望むところ。証拠は揃いつつある。正式な場でこそ、事実が力を持つ。


 逆に、非公式の場でこそクラウス様は強い。社交界の人脈と噂を操る力は、法廷では通用しない。


(どちらが不利か──分かっているでしょう、クラウス様)


 返書を封じ、伝書鳥に託した。


 ◇


 その日の夕刻。ギルバート様の執務室を訪ねた。


 ノックをして入ると、ギルバート様は書類に向かっていた。わたくしの顔を見て、ペンを置く。


「クラウス様への返書を送りました。内容をお伝えしてもよろしいですか」


「……ああ」


 返書の写しを渡した。ギルバート様が目を通す。いつものように一字一句。


「王立裁定院、か」


「はい。正式な場に持ち込む意思を示しました。クラウス様が非公式に動きたがるなら、それを封じるのが最善です」


 ギルバート様がわたくしを見た。鋭い目だが、怒りではない。考えている目だ。


「……あの男から、先日の書簡以外にも何か来ているのか」


「書簡は一通だけです。ただ、使者の口ぶりからして、鉱山利権が本当の狙いだと確信しました」


 沈黙。


 ギルバート様が、視線を一度落とし、それからもう一度わたくしを見た。


「セシリア」


「はい」


「……読んだ後、俺に話してくれるか」


 ──くれるか。


 命令ではなかった。「話せ」でも「報告しろ」でもなく、「話してくれるか」。


 この人は普段、「しろ」「帰れ」「好きにしろ」で会話を済ませる人だ。問いかけの形をとること自体が珍しい。しかもその声が、いつもより半音ほど低い。


「もちろんです。何かあれば必ずご相談します」


「……ああ」


 ギルバート様が頷いた。その目がわたくしの顔を一瞬だけ見て──逸れた。


(今後もクラウス様から何か来るかもしれない、という意味だろう。契約相手の問題を把握しておきたいのは当然だ)


 返書の写しを受け取り、執務室を出た。


 廊下を歩きながら、あの「くれるか」の響きが頭に残っていた。喉の奥から絞り出すような、不器用な音。


 ──どうして、あんな言い方をしたのだろう。


 考えても分からなかった。分からないまま、胸の奥がほんの少しだけ温かかった。


 ◇


 その夜は、眠れなかった。


 クラウスの動き。鉱山利権。リゼットの噂攻撃。父の状況。──考えるべきことが多すぎて、天井を見つめたまま頭が回り続ける。


 前世でもこうだった。大きな案件の前は眠れなくなる。深夜のオフィスで、一人でパソコンの画面を見つめていた、あの頃と同じだ。


 ……同じか。


 あの頃は、隣に誰もいなかった。


 起き上がって、部屋を出た。足は自然と書斎に向かっていた。この時間なら誰もいないだろう。一人で考えを整理したい。


 書斎の扉を開けて──止まった。


 ギルバート様が、まだいた。


 暖炉の前の机に向かって、書類を広げている。灯りは暖炉の火だけ。その橙色の光の中で、大きな背中が影を作っている。


「……あ、すみません。お邪魔でしたら」


 踵を返しかけた。


「眠れないなら、ここにいればいい」


 低い声が、背中を引き留めた。


「俺は仕事をしている。気にするな」


 振り返ると、ギルバート様はこちらを見ていなかった。書類に目を落としたまま。ただ、ペンが止まっていた。


「……お言葉に甘えます」


 書斎のソファに腰を下ろした。古い革の、くたびれた、でも体に馴染む座り心地。暖炉の火が赤く揺れている。薪の爆ぜる音。ペンが紙を走る微かな音。


 不思議なくらい、安心した。


 一人ではない、ということ。同じ空間に誰かがいるということ。何も話さなくていい。ただ、同じ暖炉の火を共有している。それだけのことが──前世でも今世でも、わたくしにとっては初めての体験だった。


 瞼が重くなった。


(……だめだ、こんなところで……)


 抗えなかった。疲労と安堵が、同時に押し寄せてきた。


 ◇


 書斎に、寝息が響いていた。


 ギルバートはペンを置いた。


 ソファで眠り込んだ女が、小さく丸くなっている。膝を抱え、頬をソファの背にもたれかけて。起きている時のあの隙のない表情は消えて、年相応の──いや、ひどく無防備な寝顔だった。


 暖炉の火が弱くなっていた。薪を一本、足した。


 それから、自分の外套を取った。壁の掛け具にかけてあった、使い込んだ黒い外套。広げて、彼女の肩から膝にかけて、そっとかけた。


 指先が、毛布を──いや、外套をかけた時に、彼女の肩に触れた。


 細い肩だった。


 手を引いた。


 ギルバートは椅子に戻らなかった。暖炉の前に立ったまま、しばらくそこにいた。火が照らす寝顔を見ていた。


 何分経っただろう。


 やがて、書斎を出た。足音を殺して。扉を、聞こえないほどの音で閉めた。


 ◇


 目が覚めたのは、夜明け前だった。


 窓の外がうっすらと白い。暖炉の火は新しい薪が入って勢いを保っている。──寝る前より、火が強い。


 そして、肩にかかっている外套。


 黒い、大きな外套。ギルバート様の匂いがする。──いや、匂いなんて分からない。革と、薪の煙と、北方の冷たい空気の匂い。


(……いつの間に)


 書斎にギルバート様の姿はなかった。書類は片付けられ、ペンは洗われて机の端に置かれている。まるで、誰もいなかったかのように。


 でも、この外套が証拠だ。


(契約上の配慮──と言うには、少し)


 思考がそこで止まった。止めた。今は、考えるべきことが他にある。


 外套を丁寧に畳んで、ソファの背にかけた。


 廊下に出ると、ヴィクトルが朝の巡回から戻ってくるところだった。


「おはようございます、奥方様。……書斎でお休みでしたか」


「ええ。昨夜、少し考え事をしていたら寝てしまって。ギルバート様にはご迷惑を──」


「迷惑、ですか」


 ヴィクトルが、足を止めた。


「奥方様。旦那様は昨夜、私に『彼女を守るために何が必要か全て洗い出せ』と命じました。深夜に、です」


「……それは、契約上の──」


「義務であんなことはしません」


 ヴィクトルの声は穏やかだったが、芯があった。


「……あの方は、不器用なだけです。言葉にする方法を知らないだけなのです」


 それだけ言って、ヴィクトルは一礼し、廊下を去った。


 残されたわたくしは、しばらく動けなかった。


(……義務で、あんなことは、しない?)


 なら──何だと言うのだろう。


 考えようとして、頭がそれを拒んだ。今は、考えるべきことが他にある。感情の整理は後回しだ。広報のプロは、締め切りを優先する。


 執務室に入ると、机の上に新しい手紙が届いていた。ヴィクトルからの報告書。


 封を切る。


 中身を読んで、息が止まった。



 『奥方様


 ご指示の通り、レヴィントン侯爵家の経理について独自ルートで調査いたしました。

 添付の帳簿の写しをご確認ください。

 エヴァンズ伯爵家の鉱山利権に関する優先取引権について、レヴィントン家が婚約破棄の正式手続き完了前に、既に一部の取引先に対し「権利を保有している」と偽って契約を進めていた形跡がございます。

 これは契約違反であり、横領未遂にあたる可能性があります。


     ヴィクトル』



 帳簿の写しが同封されていた。数字の羅列。日付。取引先の名前。そして──レヴィントン家の経理担当の署名。


 手が震えた。怒りだった。


(……正式手続きの前に、既に動いていた。つまりクラウス様は、あの断罪劇の時点で鉱山を奪う算段をしていたということ)


 全部、最初から。


 心変わりなんかじゃなかった。リゼットの涙も、断罪の場も、婚約破棄も──全ては利権のための段取りだったのだ。


 深く、息を吸った。吐いた。


 震えが止まった。


 怒りは消えない。でも、怒りを燃料にして前に進むことは、前世で学んだ。


 机の上に、全てを並べた。


 ナタリアが確保した断罪時の証人記録。マルグリットが発見したリゼットの証言の矛盾。婚約契約書の原本(父が保管中、写しは手元にある)。辺境伯の功績報告書。そして今──クラウスの不正経理を示す帳簿の写し。


 全てが、揃った。


(領主会議まで、あと一ヶ月)


 年に一度、王都で開催される全領主の会議。国王陛下が臨席し、功績報告と係争処理が行われる公式の場。


 ここで、全てを終わらせる。


 ペン先にインクを含ませた。新しい紙を広げる。


「──最後のリリースを、準備しましょう」


 窓の外、朝日が北の空を金色に染め始めていた。書斎に残してきた外套の温もりが、まだ肩に残っている気がした。

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