第6話 ファクトチェックの結果をお知らせします
「弟が女性の好物を聞いてきたの。世界が終わるかと思ったわ」
マルグリット・ヴァイスフェルト──ギルバート様の実のお姉様にして、ロートリンゲン伯爵夫人は、実に印象的な登場をなさった。
辺境伯の館に馬車が着いたのは、昼下がりのことだ。王都から五日間の旅路を経て、一切の疲れを見せない笑顔で馬車を降りてきた女性は、ギルバート様と同じ黒髪だが、雰囲気はまるで正反対だった。
よく通る声。快活な目元。人懐っこい笑み。
──これが、あの寡黙な辺境伯のお姉様?
「あなたがセシリアさんね! 手紙でのやり取りだけだったから、直接お会いできて嬉しいわ」
両手を握られた。温かい手だった。
「マルグリット様。こちらこそ、いつも王都の情報をいただいて……」
「堅苦しいのはなしよ。姉と呼んでくれても構わないのだけど──まあ、それは追々ね。それより」
マルグリット様がわたくしの肩を掴み、まっすぐに目を見た。
「弟を変えてくれて、ありがとう」
──え。
「あの子の評判が変わってきているの、全部あなたのおかげでしょう。手紙では伝えきれなかったけれど、私、本当にずっと心配していたの。あの子、一人で抱え込むばかりで、誰にも頼らないし、誰も近づかないし」
声が少しだけ震えていた。この人は、ずっと弟のことを案じていたのだ。
「わたくしは広報の仕事をしただけです。ギルバート様の実績が本物だったから、伝わっただけで」
「その『伝える』をやってくれる人が、今までいなかったのよ」
マルグリット様が微笑んだ。泣きそうな、でも嬉しそうな笑顔だった。
◇
応接室で、温かい茶を飲みながら王都の情報を交換した。
マルグリット様は伯爵夫人として社交界に身を置いているだけあって、情報量が桁違いだ。手紙では書ききれなかった細部が、次から次へと出てくる。
辺境伯の評判の変化。特産品の引き合いの増加。クラウスの動向。──そして。
「セシリアさん。一つ、あなたに直接伝えたいことがあって来たの」
マルグリット様の声のトーンが変わった。明るさの中に、芯のある真剣さが混じる。
「リゼット・フォーリアの証言について、調べたわ」
わたくしの背筋が伸びた。
「あの子が断罪の場で語った『いじめの証言』──日付と場所を、学園の記録と照合してみたの。伯爵夫人の立場で、学園の事務方に知り合いがいるから」
「……それで」
「矛盾があったわ」
マルグリット様が、懐から一枚の紙を取り出した。几帳面な文字で日付が並んでいる。
「リゼットが『セシリア様に廊下で罵倒された』と証言した日付のうち、二つ──ここと、ここ。この二日間、あなたは学園にいなかったはずよ」
紙を受け取った。
九月十四日と十月二日。
──ああ。
「九月十四日は、父の体調不良で急遽帰省いたしました。三日間学園を欠席しています。十月二日は……ええ、領地視察にお父様と同行した日です」
「やっぱり。学園の出欠記録とも一致したわ。リゼットは、あなたが学園にいなかった日に『いじめがあった』と証言しているの」
沈黙。
暖炉の火が爆ぜる音だけが響いた。
(……やっぱり、そうだったのね)
あの涙は、台本だった。あの証言は、事実ではなかった。──感覚では分かっていた。あの大広間で、リゼットの目の奥に「演技」を見た瞬間から。
でも、感覚と証拠は違う。
今、手元に「証拠」がある。
「マルグリット様。この資料、写しを一部いただけますか」
「もちろん。そのために持ってきたのよ」
マルグリット様がにっと笑った。──この人は、味方だ。理屈ではなく、家族への愛情で動いてくれる、本物の味方。
◇
夕食は三人で取った。
マルグリット様が場を仕切り、ギルバート様が寡黙に食べ、わたくしが時折会話を繋ぐ。──不思議な温かさのある食卓だった。
「ギルバート、今日の献立は何?」
「……メレーヌに任せた」
メレーヌは館の料理長だ。ギルバート様が料理長の名前を出すのは珍しい。普段は「飯はある」くらいの報告しかしない人なのに。
「そう? でもこのラムのロースト、セシリアさんの好物じゃなかったかしら。あと、この蜂蜜のソース──」
マルグリット様がわたくしの方を見て、にやりと笑った。
「ねえセシリアさん。弟に好物を聞かれたことある?」
「いえ、特には……」
「そうよね。聞かないで覚えているのよ、あの子は」
ギルバート様の手が、一瞬だけ止まった。
「……姉上」
「何?」
「黙って食え」
マルグリット様は黙らなかった。
「私に好物を聞いてきたの、あの子。『セシリアは何が好きだ』って。あの子が人の好物を聞いてきたのは、二十六年の人生で初めてよ。初めて」
(え──)
待って。義姉に聞いたのではなくて、義姉に「聞いてきた」?
……あれ。マルグリット様が決めた献立だと思ったのに。ギルバート様が、わざわざ好物を調べて──?
(いや、それは契約相手への社交的な配慮でしょう。お姉様が来るから、ちゃんとした食事を出そうと思っただけで)
「セシリアさん」
マルグリット様が、少し声を落とした。
「弟が、あんなに柔らかい顔をしているのを、私は初めて見たわ」
「……そうでしょうか。いつも通りに見えますが」
本心からそう答えた。ギルバート様は、眉間に皺を寄せて、ぼそぼそと短い言葉を返して、食事をもくもくと食べている。いつも通りの、あの怖い顔の──。
マルグリット様が、信じられないという顔をした。
「……本気で言ってる?」
「はい?」
「あのね。弟の眉間の皺が半分になっているの。口角がほんのわずかだけど上がっているの。目つきが──あの子が私と二人の時より、あなたがいる今の方が穏やかなの。それを、いつも通りだと?」
(……そう、なのかしら)
改めてギルバート様を見る。いつもの鋭い目つき。いつもの無表情。──でも、言われてみれば、あの大広間で初めて会った時と比べると……。
いや。
(わたくしが見慣れただけでしょう。毎日顔を合わせていれば、怖さの閾値が上がるのは当然です)
「マルグリット様は、弟思いでいらっしゃるんですね」
話題を逸らした。マルグリット様が「はぁ」と大きなため息をついたが、追及はしなかった。
◇
食後、マルグリット様が客室に退がり、ギルバート様と二人きりで廊下を歩いた。
窓の外は北の夜空。星が近い。王都では見られない星の数だ。
「マルグリット様、素敵な方ですね」
「……やかましい姉だ」
口ではそう言うが、声に棘がない。この人にとってマルグリット様は、数少ない──いや、もしかすると唯一の、安心できる家族なのだろう。
館の廊下の角を曲がったところで、ギルバート様の足が止まった。
「セシリア」
名前を呼ばれた。「セシリア様」ではなく、「セシリア」。いつからか敬称が取れていたことに、今さら気づく。
「はい」
「書簡が来ている」
ギルバート様が、一通の封書を差し出した。
封蝋の紋章を見た瞬間、空気が変わった。
レヴィントン侯爵家の紋章。
──クラウスからだ。
封を切る。文面は丁寧で、紳士的で、一分の隙もない。
『セシリア様
ご無沙汰しております。
突然のお手紙をお許しください。
あなたにお伝えしたいことがございます。
一度、お会いする機会をいただけませんでしょうか。
場所と日時は、そちらのご都合に合わせます。
クラウス・レヴィントン』
……短い。そして、意図が見えない。
何を「伝えたい」のか。婚約破棄の事後処理か。鉱山利権の交渉か。それとも──。
(前世の勘が言っている。これは、企業が不祥事の火消しに入る時の文面と同じだ。丁寧で、短くて、具体的なことは何も書いていない。相手に会う口実だけを作る)
顔を上げると、ギルバート様の表情が──固かった。
いつもの無表情とは違う。眉間の皺が深く、顎が引かれ、目の奥に何かが灯っている。怒り、ではない。もっと暗い色。
「……ギルバート様?」
「いや」
一言だけ返して、ギルバート様は視線を逸らした。
「読んだなら、好きにしろ」
四回目の「好きにしろ」。でも今回は、いつもと響きが違った。声がかすかに低い。喉の奥で潰したような、押し殺した何かがある。
(クラウス様の名前を出したから、不快にさせてしまったかしら。元婚約者の話題は──確かに、契約相手の前では気まずいわよね)
「お気遣いなく。この書簡への対応は、わたくしが判断いたします」
「……ああ」
ギルバート様が踵を返し、廊下の闇に消えた。
その背中を見送りながら、わたくしは書簡をもう一度見つめた。
クラウス・レヴィントン。
あなたが何を企んでいるのか──まだ分からない。でも、今のわたくしには武器がある。
リゼットの証言の矛盾。ナタリアの証人記録。婚約契約書。辺境伯の実績。マルグリット様という味方。
そして──。
廊下の先、ギルバート様が消えた方角を、少しだけ長く見つめた。
(……この人が、なぜあんな顔をしたのか)
分からなかった。でも、分からないまま、胸の奥がざわついた。
書簡を折りたたみ、執務室へ向かう。返事を書かなければ。丁寧に、隙なく、こちらの手札を一枚も見せずに。
──広報のプロは、相手の出方を見てから動く。焦るのは、いつだって仕掛けた側だ。




