第5話 冷血公の名が消える日
広報の成果は、数字ではなく人の口に表れる。
辺境伯領に来て六週間。わたくしが送り出した討伐記録と特産品のPR文書は、予想以上の速度で王都に浸透していた。マルグリット様からの伝書鳥は三日おきに届くようになり、その度に新しい反応が報告されてくる。
宮廷の文官が、討伐記録を正式な功績報告として取り上げた。社交サロンでは「辺境伯は冷血どころか英雄ではないか」という声が上がり始めた。
そして──近隣の領主たちが、礼問に訪れるようになった。
「ヴァイスフェルト辺境伯閣下に、ぜひご挨拶を」
最初は一人。次の週にはもう二人。領地の特産品に興味を示す商人を伴った者もいた。
辺境伯の館に、客が来るのだ。ヴィクトルに聞いたところ、「旦那様が当主になられてから、社交目的の来客は初めてです」とのことだった。
──初めて。
(六年間もこの領地を守ってきて、社交の来客がゼロだったの?)
怒りに近い感情が胸を過ぎった。けれど今は、それを正す作業の真っ最中だ。
◇
近隣領主三名を招いた小規模な会食。
わたくしは辺境伯夫人として、この場を取り仕切った。
前世の記憶が役に立つ。企業の接待とは流儀が違うが、本質は同じだ。相手の話を聞き、適切な話題を振り、食事のタイミングを計り、場の空気を読む。ギルバート様は会話が得意ではないから、わたくしが隣で橋渡しをする。
「辺境伯閣下の討伐記録を拝読しましたが、あの牙猪の個体は近年最大級では?」
隣領のハウザー子爵が身を乗り出す。白髪交じりの温厚そうな男性だ。
「……ああ。あのあたりは冬前に群れが降りてくる」
ギルバート様が短く答える。会話を広げる気配はない。
「群れの移動パターンについては、騎士団が過去五年分の記録を保有しております」
わたくしが補足を入れる。ハウザー子爵の目が輝く。
「それは素晴らしい! ぜひ共有いただけませんか。我が領でも被害が増えておりまして」
「もちろんです。後日、写しをお送りいたしますね」
会話が回る。ギルバート様が言葉少なに答え、わたくしが文脈を繋いで、領主たちが満足する。息が合っている、と自分で思った。
──そんな時だった。
「ヴァイスフェルト辺境伯夫人は、お若いのに実に聡明でいらっしゃる」
向かいに座っていたベルント男爵が、杯を傾けながらわたくしに声をかけた。四十がらみの男性で、やたらと歯を見せて笑う。
「こうして直接お話しできて光栄です。次の機会にはぜひ、我が領にもいらしてください。見どころをご案内しますよ」
社交辞令だろう。にこやかに受け流そうとした、その瞬間。
隣に、気配が立った。
ギルバート様だった。
いつの間にか──さっきまで席の反対側にいたはずなのに──わたくしの真横に立っている。無言で。腕を組んで。あの怖い顔で。
ベルント男爵の笑顔が引きつった。
「あ、いや、辺境伯閣下。特に他意はございませんで……」
「……ああ」
ギルバート様はそれだけ言って、そのまま動かなかった。隣に立ったまま。壁のように。
(……護衛意識が強いのかしら、この方)
ベルント男爵は、その後わたくしに話しかけるのを控えた。
◇
会食が終わり、領主たちを見送った後のことだ。
テラスに出ると、北の夜風が頬を叩いた。冬の夜気は、肺の奥まで凍らせるような冷たさがある。
無意識に手を擦っていた。吐く息が白い。手袋を──ああ、部屋に置いてきてしまった。
「……手」
背後から、低い声。
振り向くと、ギルバート様が自分の手袋を差し出していた。
黒い革の、大きな手袋。使い込まれて柔らかくなった、武人の手袋。
「あの、でもギルバート様が」
「俺は寒さに慣れている」
手袋を差し出す手が、一瞬だけためらうように止まった。それから、ぶっきらぼうに押しつけてきた。
受け取った。
温かい。ギルバート様の体温が、革の内側にまだ残っている。わたくしの手よりずっと大きくて、指先が余る。
「……ありがとうございます」
顔を上げると、ギルバート様はもうそっぽを向いていた。
(北方育ちの方は寒さに強いんだろう。合理的な判断だ。自分が寒さを感じにくい分、感じやすい方に渡す。うん、合理的)
でも。
革手袋の中で、指先がじんわりと温まっていく。その温かさが、合理的な説明では回収しきれない何かを、胸の隅に残した。
◇
翌日、マルグリット様からの手紙。今回は長かった。
『セシリア様
大変嬉しいご報告と、困ったご報告がございます。
まず嬉しい方から。
弟の評判が、目に見えて変わってきています。宮廷では功績報告が正式に評価され、近隣領主との交流が始まったことも好意的に受け止められています。「冷血公」と呼ぶ者は減りました。これは間違いなく、あなたの広報の成果です。
同時に、あなたがいなくなったエヴァンズ家の社交が立ち行かなくなっている──という話も耳に入ります。「あの伯爵令嬢がいないと、サロンがこうも寂しくなるとは」と。あなたの価値に今さら気づく人が増えているようです。
続いて、困った方。
弟への縁談が複数来ています。辺境伯の評判が上がったことで、良家のご令嬢方が名乗りを上げ始めたようです。契約結婚のことはまだ公にされていませんから、弟が独身だと思っている方もいるのかもしれません。
それから、もう一つ。
リゼット・フォーリアの噂攻撃が激しくなっています。「辺境伯夫人は断罪された悪役令嬢」「辺境伯の善意を利用して自分の評判を取り戻そうとしている」と、サロンで公然と語っているそうです。
加えて、クラウス・レヴィントンが辺境伯の台頭に不快感を示していると、側近筋から耳にしました。詳細は不明ですが、注意が必要です。
お体にお気をつけて。姉として、全力で味方します。
マルグリット』
手紙を置いて、椅子の背にもたれた。
辺境伯の評価上昇。──よし。計画通りだ。
エヴァンズ家の社交の混乱。──それは、少し心が痛む。お父様に負担をかけている。でも、これはわたくしが意図したことではない。わたくしがいなくなって初めて、「セシリアが何をしていたか」に気づく人がいる。それは、前世でもよくあったことだ。広報が上手く回っている時、誰もその存在に気づかない。壊れて初めて、ああ、あの人がやっていたのか、と。
縁談。
その単語で、胸の奥がちくりと痛んだ。
(……なに、今の)
動揺を分析する。ギルバート様に良縁があるのは、良いことだ。わたくしは契約結婚の相手で、いずれ正式な夫人ではなくなる。ギルバート様の評判が上がれば、身分に相応しい縁談が来るのは当然の流れで──。
当然の流れだ。
当然の、流れ。
(……うん。当然ですね)
胸のちくりは消えなかった。でも今は、これを掘り下げている場合ではない。
リゼットの噂攻撃。そしてクラウスの不快感。──二つが繋がっている可能性がある。リゼットが単独で動いているのか、クラウスと連動しているのか。
ただ、今の時点では辺境伯の評価上昇がリゼットの噂を上回っている。事実の積み上げは噂より重い。焦る必要はない。
(まだ大丈夫。──でも、油断はしない)
◇
ギルバートの執務室。
ヴィクトルは、手元の書簡の束をテーブルに置いた。
「旦那様。こちらの三通、全て縁談のお話です。クレーネ伯爵家、ヴェーバー子爵家、それからフリッツ男爵家の令嬢方から」
「断れ」
即答だった。
書簡には目もくれない。ギルバートは窓の外──中庭を見ていた。その視線の先を、ヴィクトルは追わなかった。追わなくても分かっている。中庭には、奥方が領地の帳簿を抱えて忙しそうに歩いていく姿があった。
「……理由を聞かれた場合、何とお答えすれば」
「必要ない」
それだけだった。
ヴィクトルは、短く息を吐いた。
「……はい」
書簡の束を下げる。執務室を出る間際に、一度だけ振り返った。
主人はまだ窓の外を見ていた。中庭を歩く女性の姿が、角を曲がって見えなくなるまで。
ヴィクトルは扉を静かに閉めた。
◇
夕暮れ。
セシリアは執務室で新しいPR文書の構想を練っていた。
机の隅に、借りたままの革手袋が置いてある。明日返さなければ。
──いや。
(返すのが、少し惜しいと思ったのは気のせい)
伝書鳥が窓枠に止まった。新しい手紙ではなく、今朝送った文書への受領確認だ。近隣商会からの取引打診がさらに二件。蜂蜜と毛織物。いいペースだ。
ただ、マルグリット様の手紙の最後の一文が、ずっと頭の隅にある。
クラウスの不快感。リゼットの噂攻撃の激化。
嵐は、静かに近づいている。
でも──こちらには、積み上げた事実がある。ナタリアの証言がある。婚約契約書がある。そして何より、ギルバート様という、この北の地で黙々と人を守ってきた人の、本物の実績がある。
噂で覆せるものではない。
革手袋に、そっと指先で触れた。まだ、微かに温かい気がした。




