第4話 英雄の正体
「同行は許可できない」
「後方取材です。危険区域には入りません。──これはお仕事ですから、ギルバート様」
執務室で向かい合って、三度目の押し問答。
ギルバート様の眉間の皺が深い。いつもの「集中」ではなく、今日は明確に「不満」の皺だ。この一週間で、わたくしはこの人の眉間の皺を五種類ほど分類できるようになった。
「魔物が出る森だ。後方とはいえ危険がある」
「ですから、護衛をお願いしたいのです。騎士を一人お借りできれば」
「……」
「ギルバート様の討伐記録を書くには、実際に見なければ書けません。伝聞では温度が出ないのです。人は、書き手が現場を見たかどうかを、文章から嗅ぎ取ります」
前世の先輩記者が言っていたことだ。プレスリリースと現場ルポは違う。数字は嘘をつかないが、温度を伝えるのは目撃者の言葉だ。
ギルバート様は長い沈黙の後、低く息を吐いた。
「──二人つける」
「え?」
「護衛だ。一人ではなく二人。後方の安全圏から一歩も出るな」
一人でいいと言ったのに二人。過剰では、と思ったけれど、これ以上押すと同行自体を撤回されかねない。
「承知いたしました。ありがとうございます」
◇
辺境伯領の北部、針葉樹の森。
冬の朝の空気は刃物のように冷たい。吐く息が白く凍る。馬を降りた騎士団の面々が、無言で陣形を組んでいく。ギルバート様が先頭に立ち、片手で合図を出す。
わたくしは指示通り後方の安全圏──切り拓かれた街道沿いの高台に、護衛の騎士二人と共に待機していた。
「奥方様、通常の討伐では後方にここまでの護衛は置かないのですが」
若い方の騎士が、ぽろっと言った。
「そうなんですか?」
「ええ。今回は旦那様が直々に……あ、いえ、何でもありません」
もう一人の年嵩の騎士が若い方の脇腹を肘で突いたのが見えた。
(初めて同行者が来るから、念のため多めに配置したのだろう。合理的な判断だ)
そんなことより──。
森の奥から、地を揺るがすような咆哮が響いた。
木々の向こうで何かが動いている。巨大な影。枝が折れる音。騎士団が散開するのが見えて──そしてギルバート様が、走った。
速い。
大柄な体からは想像できない俊敏さで、先頭を切って森に踏み込む。剣を抜く動作は見えなかった。いつの間にか抜いていた。身体強化の魔法が薄く光を纏っているのが、木漏れ日の中でちらりと見える。
魔物は──大型の牙猪だった。肩の高さだけで馬と同じくらいある。黒い毛皮、赤い目、岩のような牙。突進の衝撃で、周囲の木が根本から折れる。
ギルバート様が正面から受け止めた。
剣が一閃。
牙猪の突進が、止まった。
一太刀。たった一太刀で、あの巨体の足が止まり、膝が折れ、どう、と地響きを立てて倒れた。
圧倒的だった。
騎士団の者たちが歓声を上げることすらなかった。いつものことだからだ。彼らにとってギルバート様の強さは日常で、特別ではない。
でも、わたくしにとっては違う。
(──これを、誰も知らない?)
王都の社交界は「冷血公」としか知らない。怖い顔の、無愛想な辺境伯。それだけ。この人がどれほどの力で北方を守っているのか、領民がどれだけこの人に命を預けているのか──誰も。
手帳に、ペンを走らせた。手が震えているのは寒さのせいだと思う。たぶん。
◇
討伐が終わった後のことだ。
野営地に戻ると、近隣の村から来ていた領民たちが騎士団に礼を言っていた。牙猪が畑を荒らしていたらしい。今日の討伐で、少なくとも当面の被害は防げる。
その中に、子供がいた。
七つか八つくらいの男の子。牙猪の突進を避けた際に転んだらしく、膝を擦りむいて血が滲んでいる。痛みを堪えているのか、唇を噛んで、目に涙を溜めて、でも泣くまいとしている。
ギルバート様が、その子の前に膝をついた。
子供が見上げる。──あの、怖い顔を。鋭い目つきと深い眉間の皺を。
びくっ、と子供の肩が震えた。
ギルバート様は、たぶんそれに慣れている。慣れているから、表情を変えない。変えないのではなく、変え方を知らないのだ。
「……痛いか」
低い声。ぶっきらぼうな問いかけ。
子供が怯えたまま、こくりと頷く。
ギルバート様の大きな手が、子供の頭にそっと置かれた。
不器用だった。撫でるというよりは、そこに手を置いた、というだけの動作。力加減を間違えないように、壊れ物を扱うように慎重な手つき。
子供の涙が、ぽろっとこぼれた。
でも──泣き止んだ。
怯えが解けて、こぼれた涙だった。大きな手の温かさが、怖い顔よりも先に届いたのだ。
そしてギルバート様の顔に、笑みが浮かんだ。
──笑顔。
ぎこちない。ぎこちないなんてものではない。口角の上げ方がわからないまま、目元だけで笑おうとしている、不格好で、下手くそで、どうしようもなく不慣れな笑み。
わたくしの思考が、止まった。
(……こんな顔を、する人だったの)
ペンを持つ手が下がっている。手帳が膝の上に落ちている。取材とか記録とか、そういうことが全部飛んだ。
この人は──ずっとこうだったのだ。怖い顔の奥で、こういう笑い方しかできないまま、誰にも伝わらないまま、北の果てで魔物を斬って、子供の頭を撫でて。
誰も見てくれなかった。
誰も書いてくれなかった。
(──わたくしが書く)
ペンを拾い直した。手帳を開いた。今度は震えていない。
この人のことを、世界に正しく伝える。それがわたくしの仕事だ。
◇
討伐記録の執筆には三日かかった。
数字の羅列ではなく、物語として。討伐の規模、魔物の脅威度、辺境伯の戦闘能力、領民の安全がどのように守られているか。そこに、ギルバート様の人物像を織り交ぜた。怖い顔の奥にある誠実さ。寡黙だが一字一句を読む聡明さ。領民に向ける不器用な眼差し。
嘘は一文字も書いていない。見たままを、最も的確な言葉で切り取っただけだ。
三日目の夕方、最後の一文を書き終えたところで、執務室の扉が開いた。
「……まだやっているのか」
ギルバート様だった。手に湯気の立つカップを持っている。──薬草茶。この領地の特産のひとつ。
「差し入れですか? ありがとうございます」
カップを受け取る。指先が温かい陶器に触れて、ほっとした。
ギルバート様は帰らなかった。壁際に立って、腕を組んでいる。何か用があるのかと思ったが、何も言わない。ただ、そこにいる。
わたくしは討伐記録の最終確認に戻った。読み返す。赤を入れる。書き直す。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると──ギルバート様の視線が、さっと逸れた。
書類に目を落とした横顔は、いつも通りの無表情。暖炉の灯りが頬骨の高い輪郭を照らしている。
(……何か言いたそうだったけど、気のせいかしら)
深追いはしなかった。この人は、言葉にするのに時間がかかる人だ。急かしてはいけない。
「完成しました。王都に送ります」
「……ああ」
翌朝、討伐記録を伝書鳥で二通送った。一通は王都の宮廷文官宛。もう一通は、ギルバート様の姉──マルグリット様宛。辺境伯領の現状を社交界に伝えてくれる味方が、王都にも必要だ。
◇
マルグリット様からの返信は、四日後に届いた。
封を切る。勢いのある筆跡。この方の字は、弟とは正反対で、紙面から声が聞こえてきそうだ。
『セシリア様
討伐記録、拝読いたしました。
素晴らしい。本当に素晴らしいわ!
弟がこれほどのことをしていたなんて、恥ずかしながら姉の私でさえ知らない部分がありました。読み物としても見事です。宮廷の文官にお見せしたところ、「これは正式な報告書として取り上げるべきだ」とおっしゃっていました。
嬉しいお知らせがもう一つ。
王都の社交サロンで、弟の話題が出始めています。「辺境伯はただの冷血ではないらしい」「北方の守りをあの人が支えていたのか」と。小さな変化ですが、確かな変化です。
ただ、気がかりなことも。
聖女リゼット・フォーリアが、あなたについて不穏な噂を流しているようです。「辺境伯夫人は断罪された悪役令嬢」「あの女は辺境伯の評判を利用している」と。まだ大きな広がりではありませんが、注意が必要かと。
何かお力になれることがあれば、いつでもおっしゃって。
マルグリット・ヴァイスフェルト』
手紙を読み終えて、小さく息を吐いた。
文官の評価。社交サロンでの話題。──広報は確実に効いている。
そしてリゼットの噂攻撃。
(……来ましたね)
予想通りだ。わたくしの評判が回復し始めれば、あの断罪の正当性に疑問が生じる。それはリゼット様にとって脅威だ。だから先手を打って、わたくしの信用を潰しにかかっている。
前世でいうところのネガティブキャンペーン。
でも──。
(対策は、既に打ってあります)
ナタリアが確保した証言記録。婚約契約書の原本。そして、積み上げ始めた辺境伯の実績と、わたくし自身の行動の記録。噂は噂だが、事実は事実だ。事実の蓄積は、噂より重い。
それに、リゼット様の証言には精査すべき点がある。あの断罪の日、彼女が涙ながらに語った「いじめ」の時期と場所──あれ、全部本当なのかしら。
「……彼女の証言、一度きちんと精査する必要がありますね」
呟いて、手帳に一行書き加えた。
窓の外、伝書鳥が北の空を旋回している。冬の陽光が、白い翼を金色に縁取っていた。
リゼット様。あなたの涙が本物かどうか──わたくしは広報のプロです。ファクトチェックは、得意分野なんですよ。




