第10話 わたくしの名前を呼んでください
七日間は、嵐の前の静寂ではなかった。
嵐の後の、凪だった。
わたくしはその七日を、一秒も無駄にしなかった。
王都別邸の書斎で、追加書面の最終確認を進める日々。ギルバート様も同じ別邸に滞在し、隣の部屋で領地の遠隔指示を出していた。
七日の間に、いくつかの変化があった。
領主会議での陳述から二日目。レヴィントン侯爵家の取引先であった中堅商会が三つ、相次いで取引の「見直し」を申し入れた。マルグリット様の伝書鳥で届いた報告だった。
三日目。フォーリア男爵家が王都の社交界から姿を消した。屋敷の門は閉ざされ、使用人の半数が暇を出されたという。
四日目。第二王子フィリップ殿下の側近が、裁定院に対し「殿下は先日の断罪について関与を限定的に認識していた」旨の書面を提出した。
──逃げ始めた。沈む船から。
前世でも見た光景だった。不祥事企業の取引先が距離を置き、関係者が保身に走り、庇っていた者が手のひらを返す。一度傾いた天秤は、加速度的に倒れる。
五日目の夜。書面の推敲をしていたら、日付が変わっていた。
控えめなノックの音。
「……起きているか」
低い声。ギルバート様だった。
「はい。どうぞ」
扉が開き、黒い軍服の長身が蝋燭の光の中に立った。手には湯気の立つカップ。
「ナタリアが、温かいものを持っていけと」
「あら。ナタリアが?」
「…………俺が淹れた」
受け取った。温かい。甘い香り──辺境伯領の北方蜂蜜が入っている。
(この蜂蜜。領地の特産品調査の時に、わたくしが美味しいと言ったのを──覚えて、いるの)
胸の奥がきゅっと締まる感覚を、わたくしは今度こそ誤魔化せなかった。
「ギルバート様」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。明日に差し支える。早く寝ろ」
それだけ言って踵を返しかけた。
「ギルバート様」
呼び止めた自分に、少し驚いた。
「明日──議場で、傍聴席にいてくださいますか」
「……当然だ。俺の領地に関わる審理だ」
「はい。……それだけではなく」
言葉を探した。前世の語彙も、この世界の教養も、この一言を飾るのに十分ではなかった。
「──あなたがいると、声が震えない気がするのです」
ギルバート様の背中が止まった。振り向かなかった。けれど、耳の端が──わずかに赤い。蝋燭の灯りのせいだと思いたかったが、そうではないことを、わたくしはもう知っていた。
「……寝ろ」
低く、短く。それだけ残して廊下に消えた。
カップの蜂蜜の飲み物は、深く甘く、喉の奥まで温かかった。
◇
審理当日。
領主会議の大広間は、七日前よりもさらに人が多かった。正規の列席者に加え、傍聴を求める貴族や官吏が廊下まで溢れている。
わたくしは七日前と同じ席に着いた。ナタリアが足元に書類鞄を置き、一歩下がる。
クラウス・レヴィントンが入廷した。七日前とは別人のようだった。頬がこけ、目の下に隈がある。しかし目だけは鋭い。追い詰められた獣の目。
その後ろにリゼット・フォーリアは──いなかった。
裁定官が開廷を告げた。
「フォーリア男爵令嬢リゼットについて。本人より体調不良による欠席の届出がありましたが、本審理は宣誓証言に関わるため、裁定院規則に基づき出廷を命じます」
衛兵が退出し、しばらくして──リゼットが姿を現した。虚ろな目。力のない足取り。侍女に腕を支えられ、ようやく椅子に座った。
三ヶ月前、泣き顔で「セシリア様にいじめられました」と訴えた少女。
今、その顔にはどんな表情も浮かんでいなかった。
(同情はしない。けれど──必要以上に踏みつける趣味もない)
「ヴァイスフェルト辺境伯夫人。追加の陳述書を提出してください」
わたくしは立ち上がり、書類を書記に渡した。七日間で仕上げた補足資料──クラウスが利権移転を目的として断罪を利用した時系列の全容、リゼットへの指示を裏付けるレヴィントン家からフォーリア家への書簡の写し、そしてナタリアを含む七名の宣誓証言書。
書記が読み上げる間、議場は完全な静寂に包まれた。
「レヴィントン侯爵。反証をどうぞ」
クラウスがゆっくりと立ち上がった。議場の全員が彼を見た。
「……反証は、ございません」
声は最後まで震えなかった。それだけは──認めてもいい。
裁定官が立ち上がった。
「審理の結果を申し渡します」
広間の空気が凍った。
「第一。三ヶ月前に行われたセシリア・エヴァンズに対する断罪は、虚偽の証言に基づくものと認定し、無効とする」
息を呑む音がさざ波のように広がった。
「第二。レヴィントン侯爵家による鉱山優先採掘権の移転請求は、不正な手段に基づくものと認定し、却下する。当該利権はエヴァンズ伯爵家に帰属するものと確認する」
わたくしの背後で、父──レオン・エヴァンズが微かに息を吐く音が聞こえた。
「第三。レヴィントン侯爵クラウスに対し、偽証教唆および利権詐取未遂の罪により、侯爵位の一代降格および領地経営権の一年間停止を命ずる。フォーリア男爵令嬢リゼットに対しては、偽証の罪により、社交界からの三年間追放を命ずる」
──終わった。
わたくしは静かに目を閉じた。
感情が来なかった。歓喜も達成感も──まだ、来なかった。代わりに浮かんだのは、奇妙なほど鮮明な映像だった。
前世の最後の記者会見。取引先の不祥事を収拾し、クライアントの名誉を守り切ったあの夜。会見場を出て、誰もいないエレベーターの中で壁にもたれて天井を見上げた。
誰かに「よくやった」と言ってほしかった。
誰も、いなかった。
──今は。
傍聴席の方を見た。
ギルバート様は、もうそこにいなかった。
◇
閉廷後の廊下は人で溢れていた。
声をかけてくる領主たち。父レオンの目に光る涙。ナタリアの静かな微笑み。マルグリット様が両手でわたくしの手を包み、何度も頷いてくれた。
「セシリア様。あなたは──わたくしの誇りです」
声が震えていた。この方もまた、弟の汚名と戦い続けてきた人だ。
「マルグリット様こそ。あなたの調査と人脈がなければ、今日はありませんでした」
「いいえ。全てを設計したのはあなたです。──弟は、良い人を見つけました」
その言葉に何と返せばいいかわからなかった。
人波をかき分け、ようやく一人になれた。
中庭に続く回廊に出た。冬の終わりの風が頬を撫でた。冷たい、けれど春の気配を含んだ風。
足を止めた。
回廊の突き当たり、石造りの手すりに背を預けて──ギルバート様が立っていた。
夕暮れの光が銀の髪を淡く染めている。
その手に──小さな花束。辺境伯領で見た、あの白い寒冷地の花。雪解けの前に咲く野花。
「……ギルバート様」
「来たか」
いつもの低い声。いつもの無表情。なのに──花束を持つ手が、微かに震えていた。
「それは……」
「マルグリットが、持たせた」
「嘘ですわね」
「…………」
沈黙。夕暮れの風が二人の間を通り抜けた。
「セシリア」
名前を呼ばれた。初めて会った時から、この人はわたくしを「お前」か「辺境伯夫人」としか呼ばなかった。あの書斎の夜に一度だけ「セシリア」と呼んで、それきり。
「……ギルバート様?」
「お前が出した。あの──契約解消の書面」
第八話の夜。全てが終わったら契約を解消しましょう、と差し出した書面。ギルバート様は「わかった」とだけ答えた。
「はい。覚えております」
「あれを、破棄する」
「……は?」
「一方的で悪いが──破棄する」
花束を差し出す手が震えていた。あの鉄のような男が。北方の魔獣を片手で屠り、冷血公と恐れられた男が。
「理由を……お聞きしても?」
「…………」
ギルバート様の顎が僅かに引かれた。目線が逸れた。耳が──赤い。
「……お前がいないと、屋敷が広い」
言葉にならなかった。
前世で何千ものプレスリリースを書いた。この世界で何百もの書面を作成した。言葉は武器で、道具で、盾で──わたくしの全てだった。
なのに今この瞬間、一語も出てこない。
「……それは、プロポーズと受け取ってもよろしいのですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「違う」
「──え」
「これは命令だ。俺の妻でいろ」
「命令……」
「…………頼む」
最後の一語だけ、ほとんど聞こえなかった。けれど、聞こえた。
──ああ。
この人は、こういう人だ。不器用で、言葉が足りなくて、感情の出し方を知らない。けれど、寒ければ手袋を渡し、眠れなければ書斎を開け、外套をかけ、蜂蜜を覚え、拳を握りしめても「わかった」としか言えなかった人。
この人の隣にいたい。
その気持ちに、ようやく名前をつける。
「ギルバート様」
「……なんだ」
「一つだけ条件がございます」
ギルバート様の目が、わずかに見開かれた。怯えるように。
「……言え」
「わたくしの名前を呼んでください。……もう一度」
長い、長い沈黙。
夕暮れが深くなり、回廊の魔導灯が淡い光を落とした。
ギルバート様の唇が──震えるように動いた。
「──セシリア」
低くて、硬くて、不器用で。それなのに、どんな言葉よりも温かかった。
花束を受け取った。白い花弁が夕光に透けていた。
涙が──一筋だけ頬を伝った。前世では流さなかった涙。エレベーターの中でも、空っぽのマンションでも流さなかった涙が、今──。
「……泣くな」
「泣いておりません」
「泣いている」
「……これは、戦略的撤退です」
「意味がわからん」
ギルバート様の大きな手が──今度こそ迷わずに、わたくしの手を取った。硬くて、温かくて、もう離さないという意志だけで出来ているような手。
わたくしは花束を胸に抱き、その手を握り返した。
◇
後日。
ヴァイスフェルト辺境伯領に戻ったわたくしを迎えたのは、領民たちの歓声と、ヴィクトルの深い一礼だった。
「おかえりなさいませ、奥方様。……いえ、改めて──おかえりなさいませ」
「ただいま戻りました、ヴィクトル」
彼が目元を拭ったのを、見なかったことにした。
執務室の机に手紙が二通。
一通目は父、レオン・エヴァンズから。短い文面に「ありがとう」とだけ。震える筆跡で。
二通目はマルグリット様から。長い手紙の末尾に、こう添えてあった。
『弟があなたの好きな花を自分で摘んでいたことは、たぶん一生本人には黙っておきますね。姉より』
──自分で。
あの到着初日の、部屋に飾られていた白と薄紫の花。使用人が気を利かせたのだと思っていた。あれも──。
花瓶の白い花が、温かい部屋の中でゆっくりと開いていた。
窓の外では、北方の大地に遅い春が訪れようとしていた。雪が融け、大地が顔を出し、やがて街道に商人の馬車が行き交う季節が来る。この領地を──わたくしたちの領地を、もっと豊かにする仕事が待っている。
けれど今はただ、花を見つめた。あの不器用な人が、自分の手で摘んだ花。
「……さて」
椅子に深く座り直し、新しい羊皮紙を引き寄せた。ペンを取り、書き出す。
──ヴァイスフェルト辺境伯領、春季広報計画書。
わたくしの戦いは終わった。
わたくしの仕事は──ここから始まる。
窓から差し込む春の光の中で、インクの匂いと蜂蜜の甘い香りが混じり合っていた。隣の執務室から低い声が聞こえる。ヴィクトルに何か指示を出しているらしい。
その声が──少しだけ、柔らかいことに気づいて。
わたくしは小さく微笑み、ペンを走らせた。
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