第1話 事実無根の悪評は、適切なリリースで覆せます
「──セシリア・エヴァンズ。あなたの悪行を、この場で明らかにします」
学園の大広間に、その声が落ちた。
わたくしの目の前に立っているのは、フィリップ第二王子殿下。その隣には、わたくしの婚約者──いえ、もう元婚約者と呼ぶべきでしょうか──クラウス・レヴィントン。レヴィントン侯爵家の嫡男にして、第二王子殿下の側近。
文武両道の貴公子、と世間では評されている男。
その整った唇が、冷ややかに言葉を紡ぐ。
「セシリア。君がリゼットに行った数々の仕打ち──もう、見過ごすことはできない」
大広間に居並ぶ生徒たちの視線が、一斉にわたくしへ突き刺さる。
ざわめき。ひそひそ声。それから、クラウスの背後に隠れるようにして震えている、一人の少女──リゼット・フォーリア。男爵令嬢にして、先日「覚醒した聖女」として王家に認定されたばかりの女の子。
その大きな瞳から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「……セシリア様に、何度も……ひどいことを言われて……わたし、もう……」
嗚咽に震える声。肩を抱くクラウスの腕。同情にざわつく大広間。
完璧な構図だった。
──ああ、これ。知ってる。
唐突に、頭の奥で何かが弾けた。
蛍光灯。会議室。リングライト越しのカメラの赤いランプ。徹夜明けのコーヒーの匂い。深夜二時に鳴り止まない社用携帯。「担当者が適切なタイミングで記者会見を開催しなかったことが、二次炎上の原因です」──上司の声。
……なに、これ。
記憶が、洪水のように流れ込んでくる。名前は──えっと──ああ、そうだ。鶴見、沙織。株式会社クロスフィールド、広報部主任。得意分野は危機管理広報。炎上案件の鎮火率、社内トップ。
前世、だ。
わたくしには、前世がある。
頭がぐらぐらする。足元が揺れて──いや、違う。揺れているのはわたくしの認識のほうだ。十八年間のセシリア・エヴァンズとしての記憶の上に、三十二年間の鶴見沙織としての記憶が重なって、世界が二重に見える。
──落ち着け。
自分に命じる。
鶴見沙織が三十二年の人生で身につけた、たったひとつの確かなもの。
(炎上対応の鉄則。第一声で、場の主導権を握れ)
深く、息を吸う。
吐く。
顔を上げた。
大広間は静まり返っていた。全員が、わたくしの反応を待っている。泣くのか。喚くのか。膝をついて許しを乞うのか。リゼットの涙で温まった同情の空気が、わたくしの崩壊を期待している。
──残念。それは、シナリオにないの。
「殿下。クラウス様。リゼット様」
わたくしは三人の名を、はっきりと呼んだ。声は震えていない。前世で何百回も繰り返した記者会見の冒頭と同じ。マイクの前に立つ時、声を震わせたら負けだ。
「まず、事実の確認をさせていただきたく存じます」
クラウスの眉がかすかに動いた。
「リゼット様。わたくしが『ひどいことを言った』とのことですが──それは、いつ、どこで、どのような言葉を申し上げたのでしょうか。具体的にお聞かせ願えますか」
リゼットの涙がぴたりと止まった。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、その大きな瞳の奥で何かが泳いだ。
……ああ、やっぱり。
(この子、台本通りに泣いていただけだ。具体的な質問には対応できない)
リゼットが口を開く前に、クラウスが一歩前に出た。
「セシリア。こんな場でリゼットを追い詰めるのか。彼女がどれほど苦しんでいるか──」
「追い詰めているのではございません」
遮った。穏やかに、しかし明確に。
「事実の確認を求めているだけです。わたくしに非があるのなら、それを正しく認識した上で謝罪いたしたい。それは、不当な要求でしょうか」
大広間が、しん、と静まる。
クラウスの顎が、わずかに引かれた。
(ここだ)
広報の鉄則その二。──相手の怒りが正当であるという前提を崩さず、しかし具体性の欠如を突く。
「もし今この場で具体的なご説明が難しいのであれば、後日、書面にてお示しいただければ幸いです。わたくしは事実に基づいた対話を望んでおります」
リゼットの唇が震えている。泣きの演技を再開すべきか、判断に迷っている顔だ──と、前世の経験が教えてくれた。追い込みすぎてはいけない。ここからは「引き」のターンだ。
「皆様のお気持ちは、受け止めました」
わたくしは、ゆっくりと大広間を見渡した。
「わたくしの至らなさが、リゼット様をお苦しめしていたのだとしたら、それは心よりお詫びいたします。──ですが」
一拍、間を置く。
「事実無根の悪評は、いずれ時が明らかにするものです」
クラウスの表情が変わった。
怒りではない。計算の狂いを感じた者の、あの微妙な顔だ。台本通りに泣き崩れるはずの悪役令嬢が、理路整然と事実確認を求めてきた──それが、彼の想定にはなかったらしい。
(……ねえ、クラウス様。ただの心変わりなら、わたくしが冷静でも困らないはずでしょう? なのにどうして、そんな顔をなさるの?)
その違和感を、心の隅に留めておく。今は深追いする時ではない。
「それでは、わたくしはこれで失礼いたします」
背筋を伸ばし、一礼して踵を返す。
大広間を出る瞬間、背後でざわめきが広がるのが聞こえた。「あの人、泣かなかった……」「なんか、思ってたのと違う……」「……本当に悪役?」
──よし。
廊下に出て、角を曲がって、誰もいないことを確認して。
壁に背を預けた。
……足が、震えている。
(いや、さすがにちょっと怖かったよ鶴見さん)
自分で自分にツッコむ。前世では記者会見のあと、給湯室で缶コーヒーを震える手で開けるのが常だった。あの感覚と同じだ。本番は完璧にこなせる。でも終わった後に、どっと来る。
……少し、悔しいな。
リゼットの涙は嘘だ。わたくしは彼女とまともに会話したことさえほとんどない。なのに、わたくしが悪役にされた。証拠も根拠も示されないまま、公開の場で。
けれど、悔しさに浸っている時間はない。
(まず、ステークホルダーの整理。次に、ダメージコントロール。それから──退路の確保)
控え室に辿り着くと、わたくし付きの侍女ナタリアが蒼白な顔で待っていた。
「セシリア様……!」
「ナタリア。落ち着いて聞いて」
ナタリアの肩に手を置く。
「お願いがあるの。今日この場にいた人たちの中で、わたくしの断罪に疑問を感じた人がいたら──その人たちの証言を、書面で残しておいて。教師でも生徒でも構わない。署名をもらえればなお良いわ」
「……証言、ですか」
「ええ。今すぐじゃなくていい。でも、できるだけ早く」
ナタリアは一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに頷いた。長年仕えてくれた彼女は、わたくしの指示に理由を問わない。それがどれほどありがたいことか。
◇
エヴァンズ伯爵邸の書斎は、夕暮れの光で琥珀色に染まっていた。
父──レオン・エヴァンズ伯爵は、向かいの椅子に深く腰を下ろしたまま、疲れた顔をしている。いつの間にこんなに白髪が増えたのだろう。
「すまない、セシリア。私にもう少し力があれば……」
「お父様のせいではありません」
侯爵家と王子を相手に、伯爵家の当主が正面から抗うのは無理だ。政治力の差は歴然としている。それは冷静な事実であって、父を責める理由にはならない。
「──それで、契約結婚のお話というのは?」
父が口にした名前は、ギルバート・ヴァイスフェルト。
北方辺境伯。
「冷血公、と呼ばれている御方だ。見た目が……その、怖くてな。社交界では避けられている。だが、領地経営は堅実で、人柄も悪くないと聞いている」
「冷血公」
わたくしは、その二つ名を口の中で転がした。
(……ネガティブブランディングの極みですね)
見た目が怖い。だから冷血。それだけで社交界から弾かれている。──前世の広報部主任が、脳内で腕を組んでいる。それ、実態と乖離したイメージが定着しているだけのパターンでは?
「興味深い」
「……興味深い?」
父が怪訝な顔をした。まあ、そうなるだろう。婚約破棄されたばかりの娘が、次の結婚相手の話を聞いて「興味深い」と言うのは、一般的な反応ではない。
「お父様。その契約結婚、お受けします」
「……本当にいいのか?」
「ええ」
戦略的撤退だ。王都の社交界にわたくしの居場所はもうない。であれば、遠くへ行く。辺境へ。そこで、立て直す。
──前世の鶴見沙織は、炎上のど真ん中で冷静に立ち回れる女だった。
この世界のセシリア・エヴァンズにだって、できるはずだ。
父が書斎の引き出しから、古い書類を取り出した。クラウスとの婚約契約書──エヴァンズ家保管分の原本。
「これは、ここで保管しておく。お前に何かあった時のために」
「ありがとうございます。……少し、確認させてください」
受け取った契約書を、一枚ずつ読み返す。
前世の目で。
第三条、第四条、第五条──婚約に付随する取り決め。持参金。社交上の義務。そして、第七条。
エヴァンズ伯爵家の鉱山に関する優先取引権の条項。
指先が、その一文の上で止まった。
(……あれ?)
婚約が「セシリア側の非により」破棄された場合、この優先取引権は──。
「──この条項……使えますね」
呟いた声は、書斎の静寂に小さく溶けた。
父が首を傾げている。
わたくしは契約書をそっと閉じて、窓の外に目をやった。夕焼けの向こう、北の空。冷血公が治める辺境は、あの方角にあるのだろう。
事実無根の悪評は、適切なリリースで覆せる。
──それは、わたくし自身のことだけではなく。




