第8話 武部鉄心
島原藩、除妖回。
第三「与力」の執務室。
宗鏡玄心は、数歩先で大量の書類に埋もれ、筆を走らせ続けている老人の背中を眺めながら、内心首をかしげていた。
ここに立ってすでに一刻ほどになるが、相手は一度たりとも顔を上げようとしない。しかも、記憶にある限り、この人物がここまで忙しそうにしているのを見たことはなかった。
「はぁ〜……最近は藩内の妖魔が本当に増えてきおってな。まったく、老骨には堪えるわい」
玄心が考え事に沈んでいると、武部鉄心はようやく筆を置き、大きく背伸びをした。それから初めて顔を上げ。
「来い来い、宗鏡。さっそく聞かせてくれ。おぬし、どうやって生きて戻ってきたのじゃ?」
「……失礼いたします、武部与力様。事の次第は……」
玄心はあらかじめ用意しておいた説明を、最初から最後まで包み隠さず語った。
もっとも、“剣術成長システム”の存在だけは伏せたままだが。
案の定、武部鉄心は同行者に見捨てられた件については深く追及しなかった。
しかし、玄心が単独で鼠妖を討ち取ったという点については、露骨に疑いの色を見せる。
「宗鏡。妖魔を斬れば褒賞が出るとはいえ、虚偽の申告をすれば、その代償がいかに重いか……分かっておるな?除妖回を追われるだけでなく、場合によっては武士の身分すら剥奪されるぞ」
「ゆえに、もう一度だけ確認する。五番隊を半壊させたあの鼠妖――本当に、おぬしが討ったのだな?」
その瞬間だった。
痩せた体躯に白髪を載せた老人から、先ほどまでの緩い空気が消え失せ、鋭い気迫が噴き上がる。
目尻の深い傷跡は、まるで咆哮する獅子の爪痕のようで、玄心に圧し掛かってきた。
「……属下の申すこと、すべて事実にございます」
「では、なぜ鼠妖の耳を持ち帰らなかった?」
「え……? 耳を……ですか?」
玄心は思わず顔を上げ、目を瞬かせた。
妖魔討伐の証として部位を持ち帰る、そんな決まりがあるとは、正直まったく知らなかったのだ。
そもそも以前の自分は任務に積極的ではなく、隊に同行しても後方に控えているだけの存在だった。
「ふん……本当に知らなかったのか、それとも惚けておるのかは知らん。だがこの件、老夫は人を遣わし、あの寺を調べさせる。もし虚偽があれば……覚悟はしておくことじゃ」
武部鉄心は鼻を鳴らした。
彼は宗鏡玄心の剣の腕をよく知っている。妖魔を斬るどころか、その皮膚に傷をつけるのも難しいはずだ。
(……剣の達人が偶然通りがかって、代わりに討ったのか?)
そんな推測が脳裏をよぎるが、目の前の青年の表情は、どうにも嘘をついているようには見えなかった。
「承知しております。虚言など、決して申しません」
玄心は深く頭を下げる。
この件については、現場を調べさえすればすぐに真相が分かる。正直、それほど心配はしていなかった。
彼が本当に気にしているのは、野村賀力に迷薬を盛られ、命を狙われた件である。
(あの時、“力”がなければ、確実に死んでいた……)
「武部与力様。それと……同行していた野村に嵌められた件ですが、あれはどのように――」
「証拠はあるのか?」
「……いえ、ございません」
玄心は首を横に振る。
迷薬など、相手が自白でもしない限り、証明のしようがない。
「ならば、その話はここまでじゃ。遺棄の件についても、気に病む必要はない。あの鼠妖はあまりに強大だった。一人に固執して、隊そのものが全滅する、それこそ愚か者のすることよ」
「しかし……」
「“しかし”はない!よいか、妖魔と相対するとは、生死を賭けるということじゃ。命惜しさに足を引くようなら、さっさと別の仕事に就くがよい」
「……承知しました」
玄心は静かに視線を落とした。
武部鉄心がこれ以上、この件を追及するつもりがないことは明らかだった。
理屈は分かる。だが、その理屈があまりに冷たい現実であることに、心がついていかない。
(戦友って……背中を預けられる存在じゃないのか?“大局”の名の下に切り捨てるなら、人と妖魔の違いは何だ?)
とはいえ、仕事を辞める選択肢はない。
除妖回の同心という立場こそが、彼に妖魔を狩る機会を与えてくれるのだから。
「それでは、武部与力様。失礼いたします……」
深く一礼し、玄心は静かに執務室を後にした。
玄心が立ち去ろうとした、その瞬間だった。
執務室の扉が乱暴に押し開けられ、ひとりの巨漢が踏み込んできた。
背は高く、体躯は岩のようにごつい。剃り上げた頭が鈍く光る、屈強な男である。
室内に見慣れぬ武士がいるのを認めると、一瞬だけ足を止めた。
しかし、玄心の腰に下げられた名札を一瞥し、それがただの同心であると知るや、鼻で笑うように口の端を歪め、興味を失ったかのように視線を外す。
そして、そのまま武部鉄心の方へと向き直った。
「武部!俺の弟が言っていたぞ。お前の五番隊の同心が、昨日、往来で公然と侮辱し、あげくに十両もの金を奪ったとな。一体、どういう教育をしているんだ?」
荒々しい声が、室内に響き渡る。
鉄心は眉をひそめた。
無礼な物言いに不快感を覚えながらも、感情を抑え、まずは事情を確かめる。
「野村殿、何かの勘違いではないか。確か、そなたの弟も五番隊の一員だったはずだ。しかも剣の腕は折り紙付き……同じ番隊の者に、そう易々とやられるとは思えぬが」
「それは俺の知ったことじゃない、相手の名は宗鏡玄心。そいつがどこにいるのか、それだけ教えろ。もし忙しいと言うなら――俺が代わりに、部下の躾をしてやってもいい」
その言葉を聞いた瞬間、玄心もようやく察した。
この禿頭の大男――野村賀力の、兄である。
しかも除妖回に仕える身。
腰の名札を見るに、階級は与力。
(なるほど……)
野村賀力が日頃から横柄だった理由も、これで合点がいく。
城代を務める父に加え、除妖回の与力である兄までいるのだ。
それなら、あの態度も無理はない。
だが……
(来るところまで来た、というわけか)
執務室で、再び一悶着になるのか。
玄心が内心で身構えた、そのとき。
「五番隊に、宗鏡玄心という者がいるのは事実だ」
鉄心が、静かに口を開いた。
「だが、今どこにいるかまでは把握しておらぬ」
玄心は思わず目を見開いた。
武部鉄心がしかも本人を目の前にして、身元を伏せたのだ。
「なら、呼び出せ、俺はここで待つ」
野村は一歩も引かない。
次の瞬間。
バンッ!!
轟音とともに、鉄心の前にあった分厚い無垢材の机が、掌の一撃で粉砕された。
書類や帳面が宙を舞い、床に散乱する。
鉄心は、ゆっくりと立ち上がる。
衣に付いた木屑を軽く払い落とし、野村を見据えた。
「野村将」
その声は、驚くほど淡々としていた。
「この件については、必ず納得のいく返答を用意しよう」
そして、壊れた机に目を落とす。
「……だが見ての通り、机がこの有様だ。
早急に修繕せねばならん。ゆえに……本日は、これ以上の応対はできぬ。
お引き取り願おう」
「貴様……!」
野村は拳を強く握り締め、睨みつけた。
目の前の老人は、すでに六十を越えている。
だが、かつて“一神武傑”と謳われた男。
傷を負い、往時の力は失ったとはいえ、無理に追い詰める相手ではない。
「……いいだろう」
やがて、野村は低く息を吐いた。
「今日は、お前の顔を立ててやる。失礼する」
冷たく言い放つと、彼は踵を返し、執務室を後にした。




